1967年、紛争が絶えない地域の安定を目指し設立された地域協力機構。10カ国が加盟、域内人口は約6億8千万人。冷戦後は経済統合を深め、連帯によって発言力を増した。欧州連合(EU)と違い政策実施機関を持たず、国家主権の移譲もない。王政のブルネイ、一党独裁のベトナムやラオス、民主主義のフィリピンやインドネシアと多様な政体を内包。定期的な会合で、米中など域外大国に対話の場を提供してきた。(シンガポール共同)
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
東南アジアにおける最初の本格的な地域協力機構として,1967年8月にインドネシア,マレーシア,フィリピン,シンガポール,タイの5ヵ国によって設立された。略称はASEAN(アセアン)。当初は,冷戦と地域紛争を切り離し,相互対立に代わって,社会・経済,文化面の相互協力を促進させることを目的としていた。しかし,70年代に入ってニクソン・ドクトリンによるアメリカの〈アジア離れ〉や,米中接近に見るアジアでの緊張緩和が進むと,東南アジア地域における大国間のバランスを求めた〈中立地帯宣言〉(1971)を打ち出し,地域紛争の自主的・平和的解決の方向を明確にした。75年のサイゴン陥落後,域内緊張が高まり,とくに79年のベトナム軍のカンボジア侵攻によって危機は深まったが,インドシナ諸国との共存を求めた自主的解決の政策を保つことで,地域平和の維持に成功し,広く国際社会で注目を浴びるようになった。
他方,この間に各国は強権によってではあれ,国内的な政治の安定と著しい経済成長を遂げた。経済開発が軌道に乗り,先進工業国との貿易,投資等の経済関係が深まるにつれ,共通の利益を促進するための機構上の整備が進んだ。決定機関である外相会議の下に,常設の中央事務局がジャカルタに開設されたほか,経済閣僚会議を中心とした貿易,資源,技術等の協力のための委員会が設けられ,域内特恵制度の拡充や関税引下げなど,域内経済協力を強めている。このようにして今日では発展途上国の地域協力機構のモデルとされるまでにいたっている。
日本は各国と個別的に経済関係を軸として協力関係を築いてきたが,とくに1977年の第2回首脳会議よりアジア・太平洋地域の先進国を含む拡大外相会議に参加し,ASEAN全体への協力を強めてきた。最近では相互依存の深まりとともに,各国から日本の市場開放や技術移転等の要求が強まっている。84年にブルネイ,95年にベトナム,97年にラオスとミャンマー,99年にカンボジアを加えて10ヵ国となり,東南アジアの全域をカバーする機構になったASEANとの関係は,ますます重要性を増している。
執筆者:鈴木 佑司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1967年8月,タイ,インドネシア,マレーシア,フィリピン,シンガポールが設立した地域協力機構。84年ブルネイ加盟。域内外の情勢変化に応じ,協力は社会,経済,文化面から政治,安全保障面まで広がった。95年ベトナム,97年ラオス,ミャンマー,99年カンボジア加盟で東南アジア全10カ国体制に拡大し,地域連合として域内外の問題に一体的対応に努めている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
… それぞれの母国に帰った留学生たち(留学生のうち4名は原爆,空襲で死亡)の中から首相(ブルネイのベンギラン・ユソフ),閣僚,大使,大学総長,会社社長などが生まれ,今日,政・財・学界で指導的立場にある。彼らはおしなべて親日家であり,77年に結成されたASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)元日本留学生協議会の有力メンバーであり,日本との親善,文化交流に努力している。 南方特別留学生制度は南方地域から集団で留学させた最初の試みであった。…
※「東南アジア諸国連合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《「晋書」杜預伝から》竹が最初の一節を割るとあとは一気に割れるように、勢いが激しくてとどめがたいこと。「破竹の勢いで連戦連勝する」[類語]強い・強力・強大・無敵・最強・力強い・勝負強い・屈強・強豪・強...