日本大百科全書(ニッポニカ) 「クレメンテ」の意味・わかりやすい解説
クレメンテ(Francesco Clemente)
くれめんて
Francesco Clemente
(1952― )
イタリアの美術家。ナポリに生まれる。幼少期から絵画・詩に親しむ。ローマ大学で建築を学び、ヨーゼフ・ボイス、サイ・トゥオンブリCy Twombly(1928―2011)、アルテ・ポーベラの作家マリオ・メルツMario Merz(1925―2003)などの影響を受ける。イタリアの美術評論家アキッレ・ボニート・オリーバAchille Bonito Oliva(1939― )によって1980年に「トランスアバングァルディア」と名づけられた動向(イタリア以外では「ネオ・エクスプレッショニズム」とよばれる)のイタリアの5人の作家、ニコラ・デ・マリアNicola De Maria(1954― )、ミンモ・パラディーノMimmo Paladino(1948― )、クレメンテも含め3Cとよばれたサンドロ・キアSandro Chia(1946― )、エンツォ・クッキEnzo Cucchi(1949― )とともに現代イタリア絵画の代表的な作家である。
1970年代からインドやアフガニスタンを何度も訪れ、その経験は作品に反映されている。とくにインドは、クレメンテのライフスタイル、作品に影響を与えた。1980年にニューヨークで初個展を行い、その後はニューヨーク、ローマ、マドラス(現、チェンナイ)を活動拠点としている。ドクメンタ7、アバングァルディア・トランスアバングァルディア68―77、ツァイトガイストというトランスアバングァルディアの動向を注目させるきっかけとなった展覧会(いずれも1982年開催)で高い評価を得て、1984年スイス、バーゼル美術館で大規模な個展が開催された。
クレメンテは、『テレモネ#1、#2』『聖ジロラモ』(ともに1981年)のような、カトリック教徒としての信仰心と異教への畏敬(いけい)に基づく神話的イメージをもった絵画を描く。しかし、それら宗教的モチーフは、神話が内包している始原的なイメージにかかわるものではなく、神話に触発されて創出したイメージを象徴的に活用しているにすぎない。むしろ、雑誌、本、テレビ、映画、アートなど同時代的な素材と、自画像や自身の体験にかかわるモチーフを重ねることで得られる視覚的効果を目ざしている。クレメンテはこうした異なる素材やモチーフを混在させることによって、メディア社会を表現した。このような、現代社会に氾濫(はんらん)する情報や表象といったエレメントを絵画に投影する方法は、トランスアバングァルディアに限らず、ネオ・エクスプレッショニズムの作家たちにみられる傾向といえる。ポップ・アートが一般的な商品に表現としての価値を付加したのに対し、トランスアバングァルディアの多くの作家の作品は、社会のなかにすでに存在する商業的価値を活用して、社会に氾濫する消耗品や広告といった商業的なものに自己のメッセージを託す。それらは基本的にスタンダードな平面のタブローであり、象徴的なモチーフやかたち、カラフルな色彩で描かれるという共通する手法がみられる。
クレメンテは、イタリアの古い歴史や伝統といった長い間に蓄積されてきた思想や文化の構造に頼るのではなく、現代文明の矛盾と不安を個人的な視点で露出させようとした。したがって、より作家個人の記憶を喚起させるユーモアやアイロニーを含んだ叙情的なイメージを引用する傾向が強くみられる。
[嘉藤笑子]
『「アーティスツ・トーク:フランチェスコ・クレメンテ――私の絵はイメージの交差点」(『美術手帖』1988年1月号所収・美術出版社)』▽『若林直樹著「現代の悪夢の裏返し――イタリアのトランスアヴァンギャルド」(『美術手帖』1983年1月号所収・美術出版社)』▽『黒岩恭介著「現代の絵画――更新と新種・2つの方途」(『現代美術入門』所収・1986・美術出版社)』▽『美術手帖編集部編『現代美術――ウォーホル以後』(1990・美術出版社)』▽『クラウス・ホネフ著『現代美術』(1992・ベネディクト・タッシェン出版)』
クレメンテ(Roberto Walker Clemente)
くれめんて
Roberto Walker Clemente
(1934―1972)
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のピッツバーグ・パイレーツで外野手としてプレー。「史上最高の強肩」とうたわれた守備力と首位打者を4回獲得した強打でパイレーツに2回のワールド・シリーズ優勝をもたらし、最後は悲劇的な死を遂げた「プエルト・リコの英雄」である。
8月18日、プエルト・リコのカロリナで生まれる。1954年、ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)に入団。マイナー・リーグでプロ生活をスタートさせたが、抜群の身体能力に目を付けたパイレーツに引き抜かれ、1955年に同球団で大リーグに昇格。1年目からレギュラーとして定着した。1960年は、打率3割1分4厘、ホームラン16本を打ってワールド・シリーズ制覇に貢献。翌61年には、打率3割5分1厘で首位打者を獲得した。1964年と65年にも、2年連続して首位打者となった。1966年は、無冠ながら打率3割1分7厘、ホームラン29本、打点119の好成績で最優秀選手(MVP)を受賞した。翌67年は4回目の首位打者を獲得。1970年からは3年連続地区優勝に貢献し、とくに71年にはワールド・シリーズで打率4割1分4厘、ホームラン2本、打点4と猛打を振るって優勝に貢献し、シリーズMVPに選ばれた。1972年のシーズン終了時点で通算安打数をちょうど3000としていたが、そのシーズンオフ、ニカラグア大地震の被災者に救援物資を届けようとチャーターした飛行機が墜落し、死去した。本来、殿堂入り資格は引退後まる5年を経てから発生するが、特別措置として翌73年には殿堂入りとなった。現在でも年1回、社会貢献に寄与した選手に「ロベルト・クレメンテ賞」が贈られている。
18年間の通算成績は、出場試合2433、安打3000、打率3割1分7厘、本塁打240、打点1305。獲得したおもなタイトルは、首位打者4回、最多安打2回、MVP1回、ゴールドグラブ12回。1973年に野球殿堂入り。
[山下 健]
『佐山和夫著『ヒーローの打球はどこへ飛んだか ロベルト・クレメンテの軌跡』(2001・報知新聞社)』