二階堂行盛(読み)にかいどうゆきもり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「二階堂行盛」の意味・わかりやすい解説

二階堂行盛
にかいどうゆきもり
(1181―1253)

鎌倉幕府政所執事(まんどころしつじ)、評定衆(ひょうじょうしゅう)。同じく政所執事であった信濃前司行光(しなののぜんじゆきみつ)の長子。行政(ゆきまさ)の孫。民部大夫(みんぶのたいふ)とよばれた。1213年(建保1)幕府政所令(れい)となり、将軍専制体制から執権政治へ移行する段階の幕政に重要な役割を果たした。ことに承久(じょうきゅう)の乱後、幕府は後鳥羽(ごとば)上皇院政を廃し、在位経験のない後高倉(ごたかくら)法皇の院政を実現させたが、23年(貞応2)5月後高倉院が没すると、行盛は幕府の使者として上洛(じょうらく)し、摂政(せっしょう)近衛家実(このえいえざね)に万機をみるべきことを申し入れ、廟堂(びょうどう)における幕府の位置を確固たるものとした。24年(元仁1)伊賀光宗(いがみつむね)の後を受け政所執事となる。北条政子(ほうじょうまさこ)の信任厚く、25年(嘉禄1)7月政子の死とともに出家し、行然と称したが引き続き政所執事を勤め、同年12月評定衆となった。御成敗(ごせいばい)式目の制定に関与し、52年(建長4)四番引付頭となる。建長(けんちょう)5年12月没。政所執事四番引付頭の職は、子の行泰(ゆきやす)に受け継がれた。

[田中博美]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「二階堂行盛」の解説

二階堂行盛

没年:建長5.12.9(1253.12.30)
生年:文治5(1189)
鎌倉幕府の政所執事。二階堂行光の子。建保6(1218)年民部少丞。承久3(1221)年叙爵。同年7月,九条道家から近衛家実への摂政交代を申し入れる幕府の使節として上洛。後高倉院が崩御した貞応2(1223)年には,摂政近衛家実が万機を総摂することを奏上した使節として上洛。元仁1(1224)年政所執事となる。嘉禄1(1225)年北条政子の死去を機に出家,法名を行然と称した。同年12月,評定衆となる。貞永1(1232)年に御成敗式目が制定されると,評定衆として連署起請した。建長4(1252)年引付四番頭人となった。<参考文献>『関東評定伝

(永井晋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二階堂行盛」の意味・わかりやすい解説

二階堂行盛
にかいどうゆきもり

[生]養和1(1181)
[没]建長5(1253).12.9.
鎌倉時代の武将。行光の子。元仁1 (1224) 年幕府政所執事に就任。北条政子の信任厚く,嘉禄1 (25) 年政子の死後出家した。同年評定衆に列し,『御成敗式目』制定に参与。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「二階堂行盛」の解説

二階堂行盛 にかいどう-ゆきもり

1181-1253 鎌倉時代の武将。
養和元年生まれ。二階堂行光の子。元仁(げんにん)元年鎌倉幕府の政所(まんどころ)執事となり,嘉禄(かろく)元年北条政子の死を機に出家。同年新設の評定衆にくわわり,建長4年引付頭人となる。「御成敗式目」制定に参加した。建長5年12月9日死去。73歳。法名は行然。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android