執権政治(読み)しっけんせいじ

改訂新版 世界大百科事典 「執権政治」の意味・わかりやすい解説

執権政治 (しっけんせいじ)

鎌倉時代北条氏執権地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。これらの条件を考慮して,鎌倉殿独裁政治から執権政治への画期を求めると,第1の条件からは1203年(建仁3),第2の条件を満たすならば25年(嘉禄1)ということになり,これらをそれぞれ執権政治の成立・確立の時点と見る。次に執権政治から得宗専制政治への移行を考えると,得宗専制は46年(寛元4)に成立し,85年(弘安8)に確立したといえる。したがって執権政治期は,もっとも狭義には執権北条泰時・経時の時代のみであるが,広義にはこれに先だつ時政,義時の時代,これに続く時頼,長時,政村,時宗の時代も含まれ,これらの時期は,それぞれ鎌倉殿独裁政治期および得宗専制政治期との過渡期に相当する。執権政治期を狭くとれば,1225-46年の約20年にすぎないが,本来鎌倉幕府の政治は,鎌倉殿や得宗の独裁・専制の政治であり,執権政治のような合議政治は,得宗が鎌倉殿に代わる専制の主体に成長しきれない段階におこる特殊な現象であって,その期間が短いのも当然なのである。

 1203年,北条時政は源頼家を廃し,その弟実朝を鎌倉殿に立て,時政自身は政所別当として執権に就任した。これが執権政治の成立である。時政の子義時は13年(建保1)侍所別当和田義盛を滅ぼし,政所・侍所別当を兼ね,その後北条氏は両職を世襲して権勢を振るった。19年(承久1)実朝が殺されると,幕府は京都の摂関家から藤原頼経を鎌倉殿として迎え,21年の承久の乱にも勝利を収めた。この間の幕府の性格を見ると,鎌倉殿実朝は従来の鎌倉殿と違って傀儡(かいらい)にすぎず,頼経は幼年で,まだ征夷大将軍に任命さえされていないが,故頼朝の妻北条政子が実質的な鎌倉殿として,そのカリスマ性によって,御家人との主従結合の頂点に立って政治を独裁し,執権義時は幕府官僚機構の上首としてこれを助けており,政治の体質としては,鎌倉殿独裁政治の延長である。したがって幕政の改革は,25年の政子の死を契機に,執権泰時によって精力的に行われた。すなわち執権を2名に増員し(うち1名が連署),評定衆を新設し,さらに頼経を元服させ,翌26年に頼経は征夷大将軍に任命される(摂家将軍)などであり,ここに執権政治が確立した。32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の基準が定められた。この時期の執権政治は,複数執権制や評定衆制に見られるように,従来の独裁に代わる合議に特色がある。この合議政治は,承久の乱後の幕府の安定期にふさわしい政治のあり方であり,幕府は貴族・寺社などの荘園領主勢力と,地頭などの在地領主勢力との均衡の上に,両者の対立を調停する権力として定着した。幕府は荘園領主や在地領主の領主権を尊重し,その内部には立ち入らず,国司・領家の成敗にも干渉しなかった。《御成敗式目》は幕府の勢力圏にのみ適用され,朝廷や荘園領主の支配下では,それぞれの法が有効であった。

 さて泰時,経時に続く時頼の時代は,泰時の時代と同様に執権政治の全盛期とされてきた。それは時頼が引付を置いて裁判の迅速・正確化に努め,大番役など御家人の負担の軽減を図るなど,御家人保護の政策をとったためである。しかし46年に執権に就任した時頼は,さっそく北条一門の不平分子,三浦氏など有力御家人,摂家将軍など反対勢力を一掃する強圧的な政治を行っている。同時に公家政治にも干渉を加え,ついには皇位の選定権までも掌握した。頼経,頼嗣があいついで京都に追われ,摂家将軍に代わって親王(宮)将軍が登場したが,将軍の傀儡化はさらに進み,歴代の将軍は陰謀を口実に簡単に追放されている。時頼は執権を退いて後も,得宗として政治の実権を握っており,そのため得宗と執権とは分離され,権力の源泉は執権よりも得宗に置かれることになった。また評定衆の〈評定(会議)〉が形骸化し,得宗が私的に主宰する〈寄合〉に実質が移る傾向も始まっている。このようにすでに得宗専制の色彩はあらわれているが,ただこの時期には,公家政治への干渉など,専制がおもに朝廷や貴族・社寺に向けられたため,得宗としては御家人の支持をとりつける必要から,御家人保護の政策を行ったのである。それゆえ,公家側への干渉に成功した後の得宗専制は,明らかに御家人との対立を強めるようになる。貞時が執権に就任した翌85年には,有力御家人安達氏が得宗被官勢力を代表する平頼綱と対立して滅ぼされ(霜月騒動),ここに得宗専制が確立し,執権政治は完全に終止符をうたれたのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「執権政治」の意味・わかりやすい解説

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉時代、北条(ほうじょう)氏が執権の地位によって、幕府の実権を掌握した政治体制。前期の鎌倉殿(かまくらどの)(将軍)独裁政治、後期の得宗(とくそう)専制政治の中間に位置づけられる。1203年(建仁3)北条時政(ときまさ)は源頼家(よりいえ)を廃して実朝(さねとも)を鎌倉殿にたてた際、政所別当(まんどころべっとう)(執権)に就任し、政権を握った。1205年(元久2)時政は実朝を廃して女婿平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にたてようとして失敗、義時(よしとき)が執権となってのちは、政子(まさこ)・義時が政権を握った。13年(建保1)義時は侍所(さむらいどころ)別当和田義盛(よしもり)を滅ぼし、政所・侍所別当を兼ね、その後、北条氏は両職を世襲した。19年(承久1)に実朝が殺されると、幕府は摂関家から九条頼経(くじょうよりつね)を迎えたが、政子が実質的な鎌倉殿となり、執権義時がこれを助け、21年の承久(じょうきゅう)の乱でも勝利を収めた。25年(嘉禄1)政子が没してのち、執権北条泰時(やすとき)は執権を2名に増員(うち1名が連署(れんしょ))し、評定衆(ひょうじょうしゅう)を新設して、合議政治を行い、翌26年には頼経が正式に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命された。

 執権政治には二つの側面がある。第一は、北条氏が執権として行う政治という側面で、その意味では執権政治は1203年に「成立」したといえる。第二は、鎌倉殿独裁政治や得宗専制政治とは異なる合議政治という側面である。この第二の点からみると、政子の時代までの政治は独裁的であり、鎌倉殿独裁政治に含めるのが妥当で、25年の政子の没後、泰時によって合議政治としての執権政治が「確立」されたということができよう。この合議政治は、承久の乱後、安定期を迎えた幕府にふさわしい政治体制で、32年(貞永1)には「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」が制定され、裁判の基準が定まり、執権政治は円滑に運営された。

 1246年(寛元4)北条時頼(ときより)が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越(なごえ)氏、有力御家人三浦(ごけにんみうら)氏、摂家将軍頼経・頼嗣(よりつぐ)ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天(ちてん)の君(きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。幕政の運営も評定衆の評議から、得宗が私的に主宰する「寄合(よりあい)」に移り始めた。これらの点からみて、時頼の時代は得宗専制期に含めるのが正しいが、この時期には専制の対象はとくに朝廷、貴族、寺社に向けられ、御家人に対しては、その支持を得る必要からむしろ保護政策をとった。得宗専制と御家人との対立が顕著となるのは貞時(さだとき)の時代からであり、1285年(弘安8)の霜月(しもつき)騒動はその画期である。

[上横手雅敬]

『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』『上横手雅敬著「鎌倉幕府と公家政権」(『岩波講座 日本歴史5』所収・1975・岩波書店)』『三浦周行著『日本史の研究 新輯1』(1982・岩波書店)』『安田元久著『鎌倉執権政治』(教育社歴史新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「執権政治」の意味・わかりやすい解説

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉時代,執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3 (1203) 年に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2 (05) 年失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1 (13) 年には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (21) にも圧倒的勝利を収めると,北条氏の執権としての地位は安定し,強化された。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1 (25) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1 (32) 年,『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,この動揺に乗じて名越光時などによってクーデターが企てられた。しかし時頼は渋谷氏一族の支持によって権力闘争にうちかち執権政治は全盛期を迎えた。時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。そのため,執権政治の基本であった集団指導制,合議制は有名無実となり,執権政治は次第に得宗専制政治へと変質していった。文永5 (68) 年時宗が執権になると,得宗専制政治が一層強化され,得宗被官が幕政機関に進出し,幕府の実権を握ることになった。しかし得宗専制政治の強化はこれから除外された外様 (とざま) 御家人層の北条一門に対する反感を呼起し,次第に広範な潜在的反幕勢力が形成されていくこととなった。

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百科事典マイペディア 「執権政治」の意味・わかりやすい解説

執権政治【しっけんせいじ】

鎌倉時代,執権北条氏が幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉時代を鎌倉殿(将軍)の独裁政治―執権政治―得宗(とくそう)専制政治に区分し,執権政治期は合議制が行われたとみる。1203年に北条時政(ときまさ)は源実朝(さねとも)を将軍に立て,執権に就任。2代北条義時(よしとき)は侍所(さむらいどころ)別当を兼ね,両職を世襲。3代泰時(やすとき)は1225年連署(れんしょ)・評定衆制度を設けて執権政治を確立させた(狭義には4代経時を含めた約20年間を執権政治期とする)。5代時頼(ときより)は執権を退いた後も得宗として政治の実権を握り,これが得宗専制政治(9代北条貞時以降)につながった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「執権政治」の解説

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉幕府で,執権が主導権を握っていた政治体制。幕府の政治体制は,将軍独裁・執権政治・得宗専制の3段階でとらえるのが通説で,その第2段階にあたる。幕府初期には,物事の決定権はあくまで将軍(および北条政子)にある将軍独裁であった。しかし,執権北条泰時は,1225年(嘉禄元)政子の死後,評定衆を設置,執権主催の評定の場を,幕府の意思決定機関とする。これが執権政治の開始であり,将軍は評定の決定を追認するだけとなった。評定は執権・連署と評定衆による合議機関で,彼らは「御成敗式目」を作成,連帯責任のもとに「理非を決断する」ことを誓約している。しかし安堵や新恩給与の権限は,いぜん将軍のもとにあった。その後勢力を増大した北条氏得宗家は,84年(弘安7)新御式目を制定し,将軍親裁の事項であった安堵をも,事実上,新得宗貞時の手中に収めた。ここにいたり,執権政治は得宗専制に移行したとみなされる。しかし,一方ではそれ以前の得宗時頼・時宗の時代には,評定以外に得宗私邸での「寄合」の役割も大きくなっており,すでに得宗専制への移行が始まっていたとする見解も有力。

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旺文社日本史事典 三訂版 「執権政治」の解説

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉時代,執権北条氏が実権を掌握した政治体制
源頼朝の死後,外戚北条氏は畠山・比企・和田らの有力御家人を倒し政所 (まんどころ) の別当 (べつとう) と侍所の別当を兼ね,執権と称した。3代将軍源実朝死後,京都から単に名目上の藤原(摂家)将軍・皇族(親王)将軍を迎え,執権北条氏が幕政の実権を握った。承久の乱(1221)後,北条泰時は連署・評定衆を設け,御成敗式目を制定。その孫時頼は引付を設置し,執権政治を名実ともに強固なものとし全盛期を迎えた。元寇後は北条氏嫡流の得宗による専制が進み,執権の地位は相対的に低下した。やがて内管領が実権を握り,政策上の失敗などから御家人層は離反し,1333年幕府が滅亡して執権政治は終わった。

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世界大百科事典(旧版)内の執権政治の言及

【得宗】より

…これらは,梶原,比企,和田,三浦などの族滅事件や承久の乱などを契機として北条氏領化したようである。 泰時の政治は,将軍の政務の御代官としての執権の地位に準拠したものであったため,これを執権政治と呼んでいる。執権政治は泰時の孫時頼が,1246年(寛元4)の宮騒動で一門の名越光時らを膺懲(ようちよう)して一門に対する惣領権を確立し,47年(宝治1)の宝治合戦で三浦泰村一族を滅ぼし,49年(建長1)に引付衆を置いたころまで続いた。…

【評定衆】より

…そのメンバーは執権・連署をはじめとする北条氏一門と,大江,二階堂,三善,清原,中原等の吏僚層が大半を占め,ときに三浦,千葉,安達等の有力御家人が選ばれたものの,それは世襲にはいたらなかった。こうして評定制は北条氏の執権政治を支える役割を果たし,49年(建長1)に御家人訴訟を扱う裁判機関として引付衆が置かれると,評定衆と引付衆は一体となって幕府の政治・裁判制度の完成をもたらした。北条氏一門の評定衆は引付衆を兼ね,中でも引付頭人は一門が独占して北条執権体制はここでも貫徹していた。…

※「執権政治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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