佐藤賢了(読み)サトウ ケンリョウ

20世紀日本人名事典 「佐藤賢了」の解説

佐藤 賢了
サトウ ケンリョウ

大正・昭和期の陸軍中将



生年
明治28(1895)年6月1日

没年
昭和50(1975)年2月6日

出生地
石川

学歴〔年〕
陸士(第29期)〔大正6年〕卒,陸大〔大正14年〕卒

経歴
アメリカ駐在を経て陸大教官、軍務局員を歴任。昭和13年国家総動員法案の審議中の衆院で、政府説明員として発言中に議員に対し「黙れ」と一喝し問題となった。第37師団長のとき敗戦戦後A級戦犯として終身刑判決を受けたが、31年釈放された。同年東急管財社長。著書に「大東亜戦争回顧録」「佐藤賢了の証言―対米戦争の原点」。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐藤賢了」の意味・わかりやすい解説

佐藤賢了
さとうけんりょう

[生]1895.6.1. 石川
[没]1975.2.6. 東京
陸軍軍人。父は僧侶。 1917年陸軍士官学校,25年陸軍大学校卒業。 29~32年ワシントンで駐在武官として勤務。 38年3月,国家総動員法案審議中の衆議院委員会で,議員のやじに対して「黙れ!」発言をした。 41年陸軍省軍務課長,42年軍務局長。軍務課長以来,東条英機の側近として知られた。 44年支那派遣軍参謀副長。 45年中将。第2次世界大戦後,極東国際軍事裁判で終身刑を宣告されたが,56年に出所した。主著『東条英機と太平洋戦争』 (1960) ,『大東亜戦争回顧録』 (66) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐藤賢了」の解説

佐藤賢了 さとう-けんりょう

1895-1975 大正-昭和時代前期の軍人。
明治28年6月1日生まれ。昭和13年陸軍省軍務局員のとき,国家総動員法案を審議中の衆議院委員会で「だまれ」と議員を一喝し問題となった。17年軍務局長。20年陸軍中将,第三十七師団長。戦後,東京裁判でA級戦犯として終身刑となるが,のち釈放された。昭和50年2月6日死去。79歳。石川県出身。陸軍大学校卒。著作に「大東亜戦争回顧録」。

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367日誕生日大事典 「佐藤賢了」の解説

佐藤 賢了 (さとう けんりょう)

生年月日:1895年6月1日
大正時代;昭和時代の陸軍軍人;実業家。中将;東急管財社長
1975年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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