村上義清(読み)むらかみ・よしきよ

朝日日本歴史人物事典 「村上義清」の解説

村上義清

没年:天正1.1.1(1573.2.3)
生年文亀1(1501)
戦国時代武将信濃国埴科郡の葛尾城(長野県坂城町)城主顕国の子(頼平の子とする説も有力)。幼名武王丸。左衛門佐,兵部少輔。川中島地方や佐久・小県地方に勢力を拡大しつつあったころ,武田信玄の信濃侵略が始まった。天文17(1548)年2月に信玄の軍を上田原(上田市)で破り,勢いに乗って勢力を拡大した。天文19年9月には戸石城で再度武田軍を破るが,翌年5月に同城を真田幸隆に攻め落とされてからは劣勢となる。天文22年4月武田勢に攻められて葛尾城を脱出し,再起を図ったが成功せず,越後上杉謙信のもとに走った。これも永禄4(1561)年に起こった川中島合戦の原因のひとつとなっている。その後も旧領の回復を目指して戦うが果たせず,永禄8年越後頸城郡根知に移り病死した。信玄と戦ったことで人気が高いが,彼の出した文書はほとんど伝わっておらず,父親などに関して謎の多い人物である。<参考文献>水出熊雄『名将村上義清

(笹本正治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「村上義清」の意味・わかりやすい解説

村上義清 (むらかみよしきよ)
生没年:1501-73(文亀1-天正1)

戦国時代の武将。顕国の子で,信濃国埴科郡葛尾(かつらお)城主。1540年(天文9)武田信虎を撃退し,48年には上田原で晴信(信玄)の軍を破り,諏訪に出兵して武田氏の侵入を防いだが,53年4月信玄に葛尾城を攻略され,のち越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。謙信はしばしば信玄と戦ったが,ついに義清の本領復帰はならなかった。義清は謙信の配下となり,越後で没した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村上義清」の解説

村上義清 むらかみ-よしきよ

1501-1573 戦国時代の武将。
文亀(ぶんき)元年生まれ。信濃(しなの)(長野県)葛尾(かつらお)城主。北信濃を支配し,天文(てんぶん)17年(1548),19年の2度にわたり武田信玄の侵攻軍をやぶったが,22年城を脱出して上杉謙信をたよる。これを契機に5度にわたる川中島の戦いがおこった。元亀(げんき)4年1月1日死去。73歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の村上義清の言及

【村上氏】より

…このため満信は信濃国人を糾合して守護使の入部を拒み,大塔(おおとう)(現,長野市篠ノ井)の地で守護軍を破った。 この戦い以後村上氏は信濃国守護と対抗しうる勢力を有し,応仁・文明の乱(1467‐77)を経,村上義清の代に至り,戦国大名への道を歩みはじめた。1541年(天文10)義清は小県(ちいさがた)郡の中央に勢力があった海野氏を攻略し,小県郡へ進出した。…

※「村上義清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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