生田長江(読み)イクタチョウコウ

デジタル大辞泉 「生田長江」の意味・読み・例文・類語

いくた‐ちょうこう〔‐チヤウカウ〕【生田長江】

[1882~1936]評論家小説家・戯曲家。鳥取の生まれ。東大卒。本名、弘治。翻訳「ニイチェ全集」、評論集「最近の小説家」など。

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精選版 日本国語大辞典 「生田長江」の意味・読み・例文・類語

いくた‐ちょうこう【生田長江】

評論家、翻訳家。新理想主義立場から、自然主義白樺派批判。「ニーチェ全集」などの翻訳のほか小説もある。明治一五~昭和一一年(一八八二‐一九三六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「生田長江」の意味・わかりやすい解説

生田長江
いくたちょうこう
(1882―1936)

評論家、翻訳家。鳥取県生まれ。東京帝国大学美学科卒業。1906年(明治39)在学中に『小栗風葉論(おぐりふうようろん)』でデビュー。翌1907年、馬場孤蝶(こちょう)、森田草平(そうへい)らと閨秀(けいしゅう)文学会をつくり、受講者中に平塚らいてうらがいて、のち『青鞜(せいとう)』(長江の命名)発刊の契機となる。処女評論集『最近の小説家』(1912)は夏目漱石らについての作家論集。1909年ニーチェの『ツアラトウストラ』の翻訳に着手、森鴎外(おうがい)とも交わる。ダンヌンツィオ『死の勝利』、フロベール『サラムボオ』、ダンテ『神曲』などの訳業のほか、『ニイチエ全集』全12巻(1918~1928)刊行の業績は大きい。自然主義、白樺(しらかば)派批判を経て社会主義思想への接近、ついで仏教思想へと関心が移った。佐藤春夫ら新人を育て、青年層に人気があった。小説に『落花の如(ごと)く』(1922)、戯曲に『円光』(1917)などもある。

[高橋世織]

『『現代日本文学体系 40 生田長江他集』(1973・筑摩書房)』


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百科事典マイペディア 「生田長江」の意味・わかりやすい解説

生田長江【いくたちょうこう】

評論家,翻訳家。本名弘治。鳥取県生れ。東大哲学科卒。1898年キリスト教に入信。1906年《小栗風葉論》で認められ,1908年には《自然主義論》を発表した。以後広く文芸,社会,宗教,婦人問題などにも関心を深め,《最近の小説家》《最近の文芸及思潮》《超近代派宣言》などの評論集のほか,小説,戯曲,ニーチェダンヌンツィオの翻訳など多くの著作がある。
→関連項目生田春月佐藤春夫島田清次郎新潮

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朝日日本歴史人物事典 「生田長江」の解説

生田長江

没年:昭和11.1.11(1936)
生年:明治15.4.21(1882)
明治から昭和の評論家,翻訳家。本名弘治。鳥取県の生まれ。仏教に信仰心厚い生家の影響を受けたが,若き日キリスト教にも接近,洗礼も受けた。明治39(1906)年,東京帝大哲学科を卒業。在学時より同級の森田草平らと回覧雑誌を出し,馬場孤蝶に師事。雑誌『芸苑』に「小栗風葉論」(1906)を書き,注目された。与謝野晶子とも知遇を得て閨秀文学会を作るが,聴講者に平塚らいてうらがいて,そこから『青鞜』が生まれた。このころ,佐藤春夫も長江に師事している。また,ニーチェの翻訳に没頭し,『ツァラトゥストラ』(1911)などを刊行。ダヌンツィオ『死の勝利』(1913),マルクス『資本論』(1919年に一部のみ刊),ダンテ『神曲』(1929)などを訳出。一方作家論集『最近の小説家』(1912)なども刊行,草平と雑誌『反響』を出した。『自然主義前派の跳梁』(1916)は『白樺』派批判の論文として記憶される。その後は,『超近代派宣言』(1925)や『宗教至上』(1932)など,宗教性を根底に置き東洋回帰の論調をみせた。

(中島国彦)

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改訂新版 世界大百科事典 「生田長江」の意味・わかりやすい解説

生田長江 (いくたちょうこう)
生没年:1882-1936(明治15-昭和11)

評論家,翻訳家。鳥取県生れ。本名は弘治。東大美学科在学中に上田敏,馬場孤蝶らとともに《芸苑》同人となり,1906年,同誌に発表した〈小栗風葉論〉で論壇の注目をあつめた。その後,孤蝶,森田草平らと与謝野晶子をいただく閨秀文学会をおこして《青鞜》発刊のきっかけをつくり,ニーチェの《ツアラツウストラ》(1911),ダヌンツィオの《死の勝利》(1913)の翻訳を出すなど,多彩な活動を展開した。大正期に入ってからは,社会主義に共鳴して堺利彦,大杉栄らと交わったこともあったが,ニーチェ流の超人主義の立場は終生変わらなかった。代表的な評論集に《超近代派宣言》(1925)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「生田長江」の意味・わかりやすい解説

生田長江
いくたちょうこう

[生]1882.4.21. 鳥取
[没]1936.1.11. 東京
評論家,小説家,劇作家。本名生田弘治。東京帝国大学哲学科卒業。平塚らいてうらの青鞜社運動を後援する一方,『ツァラトゥストラ』(1911)の翻訳刊行以来,フリードリヒ・ニーチェの著作の全訳を終生の事業とした。ヒューマニズムに立脚した超近代主義の立場から,『最近の小説家』(1912),『徹底人道主義』(1920),『超近代派宣言』(1925)などの評論,あるいは『円光以後』(1919),『落花の如く』(1922),『創作釈尊』(1935)などの小説,戯曲で唯物論的人間観の克服を主張するなど幅の広い文明批評家として活躍。5巻のみ刊行され中絶した『生田長江全集』(1936)がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「生田長江」の解説

生田長江 いくた-ちょうこう

1882-1936 明治-大正時代の文芸評論家,翻訳家。
明治15年4月21日生まれ。39年「小栗風葉論」でみとめられ,以後つぎつぎと作家論を発表。44年青鞜(せいとう)社の設立を支援。大正3年森田草平と「反響」を発刊。社会問題に対しても発言した。「ニイチエ全集」など翻訳もおおい。昭和11年1月11日死去。55歳。鳥取県出身。東京帝大卒。本名は弘治。別号に星郊。著作に「最近の小説家」など。
【格言など】月は絶望しているものの友である

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世界大百科事典(旧版)内の生田長江の言及

【ドイツ文学】より

…また森鷗外によるゲーテの《ファウスト》の完訳(1913)は,日本の読者にドイツ文学の代表作を提供するものとなった。生田長江の《ツァラトゥストラ》訳(1911)をはじめとするニーチェの翻訳紹介も大きな反響をよびおこし,とりわけ萩原朔太郎にその影響が認められる。茅野蕭々(1883‐1946)の《リルケ詩抄》(1927)は名訳の評判が高く,堀辰雄や立原道造をリルケの世界に近づけた。…

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