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与謝野晶子 よさの あきこ

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美術人名辞典の解説

与謝野晶子

歌人。大阪生。名はしょう。「明星」の主宰者与謝野鉄幹と結婚。『みだれ髪』を刊行。積極的な人間性賛美の声を艶麗大胆に歌い、「明星」の浪漫主義短歌の指標となる。また古典に造詣深く源氏物語研究には独自の見解を示す。昭和17年(1942)歿、65才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

与謝野晶子

近代歌壇を代表する歌人。堺市で生まれ育ち、22歳で上京した。1901年に第1歌集「みだれ髪」を刊行。歌集「火の鳥」や詩歌集「恋衣」を残したほか、日露戦争に出征した弟を思う詩「君死にたまふことなかれ」や、源氏物語の現代語訳などでも知られる。12人の子どもを産み、育てた。夫の寛(鉄幹、1873~1935)も歌人。京都生まれで文芸誌「明星」を創刊した。

(2016-04-13 朝日新聞 朝刊 大阪市内・1地方)

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デジタル大辞泉の解説

よさの‐あきこ【与謝野晶子】

[1878~1942]歌人。堺の生まれ。旧姓、鳳(ほう)。鉄幹の妻。新詩社を代表する歌人として雑誌「明星」で活躍、明治浪漫主義に新時代を開いた。歌集「みだれ髪」「小扇」「舞姫」「恋衣」(共著)、現代語訳「源氏物語」など。

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百科事典マイペディアの解説

与謝野晶子【よさのあきこ】

歌人。堺生れ。旧姓鳳(ほう)。本名しょう。堺女学校卒。1900年与謝野鉄幹新詩社の社友となり《明星》に短歌を発表。翌年処女歌集《みだれ髪》を出して世の注目を集めた。
→関連項目大塚楠緒子岡本かの子ケイ平塚らいてう深尾須磨子母性保護論争ロマン主義

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

与謝野晶子 よさの-あきこ

1878-1942 明治-昭和時代前期の歌人。
明治11年12月7日生まれ。鳳(ほう)秀太郎の妹。与謝野鉄幹主宰の東京新詩社社友となり,「明星」に短歌を発表。明治34年第1歌集「みだれ髪」に奔放な愛の情熱をうたって反響をよぶ。同年鉄幹と結婚し,ともに浪漫主義詩歌運動を推進するかたわら,社会問題の評論,文化学院の創立など多方面に活躍した。長詩「君死にたまふことなかれ」は反戦詩として知られる。昭和17年5月29日死去。65歳。大阪出身。堺(さかい)女学校卒。旧姓は鳳。本名はしょう。現代語訳に「新新訳源氏物語」。
【格言など】なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜(ゆふづくよ)かな(「みだれ髪」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

与謝野晶子

没年:昭和17.5.29(1942)
生年:明治11.12.7(1878)
明治大正昭和の歌人,評論家。堺の菓子商である父鳳宗七,母つねの3女。本名しょう。堺女学校補習科卒業後,関西青年文学会に加わって詩歌を発表,明治33(1900)年から与謝野鉄幹の東京新詩社社友となり『明星』に短歌掲載。同年来阪した鉄幹を知り,翌34年家を捨てて上京,妻を離別した鉄幹と結婚。その激しい恋心と若い女の官能をうたいあげた第1歌集『みだれ髪』は同年8月刊行されて,一世を驚倒,眩惑させた。藤島武二によるアールヌーヴォー風装丁の瀟洒な一冊に盛られた「くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」など399首の歌は,平安朝女流歌人以来の情念と修辞の伝統をよみがえらせながらも,それらをこえた表現の「奇峭」と「奔放」(上田敏の評語)によって20世紀日本の詩歌と女性史への新しい扉を開いた。その後の歌集『小扇』(1904),ライバル山川登美子らとの合著『恋衣』(1905)なども晶子の唯美的想像力のさらなる洗練を示す。後者に付載された長詩「君死に給ふことなかれ」(1904年9月『明星』に発表)は,大町桂月の,これを「乱臣・賊子の詩」とする極評を呼んだが,晶子はこれに「まことの心を歌ふ」歌人として情意を尽くして反論した。明治末から大正を通じて,平塚らいてう山川菊栄らと母性保護などに関し論争しつつ展開された婦人解放論,さらに政治,教育,社会の問題におよぶ幾多の評論も,晶子が歌よみの域をこえる豊かな洞察と見識の持ち主であったことを示し,同時に『みだれ髪』が単に青春の一時期狂詩曲ではなかったことをも証し立てている。著作集に『定本与謝野晶子全集』全20巻,『与謝野晶子評論集』(岩波文庫)などがある。<参考文献>佐藤春夫『晶子曼陀羅

(芳賀徹)

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世界大百科事典 第2版の解説

よさのあきこ【与謝野晶子】

1878‐1942(明治11‐昭和17)
歌人,詩人。大阪府堺市生れ。本名しょう。旧姓鳳(ほう)。堺女学校補習科卒業後,家業の菓子商を手伝いながら古典を独習した。関西青年文学会の《よしあし草》での習作期を経て,1900年《明星》(東京新詩社)に加入,主宰者与謝野寛(鉄幹)と恋愛し,翌年上京,歌集《みだれ髪》を刊行,結婚に至る。同書は〈くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる〉など大胆で斬新な表現に富み世を驚かした。次いで《小扇》(1904),《恋衣》(山川登美子,増田雅子との共著。

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大辞林 第三版の解説

よさのあきこ【与謝野晶子】

1878~1942) 歌人。大阪府生まれ。本名、しよう。旧姓、鳳ほう。堺高女卒。明星派の代表的歌人。処女歌集「みだれ髪」によって大胆に女性の官能と情熱をうたい、明治30年代の浪漫主義運動の中心となった。歌集「小扇」「恋衣」(合著)、「夢の華」など。「源氏物語」の口語訳でも知られる。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

与謝野晶子
よさのあきこ

[生]1878.12.7. 大阪,堺
[没]1942.5.29. 東京
女流歌人。本名,しょう。早くから平安朝文学に親しみ,『よしあし草』などに短歌を発表していたが,1900年与謝野鉄幹の東京新詩社に参加,01年歌集『みだれ髪』の奔放な空想力と激しい情熱とによって明治浪漫主義に新紀元を画した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

与謝野晶子
よさのあきこ
(1878―1942)

歌人。明治11年12月7日、大阪府堺(さかい)市に菓子の老舗(しにせ)駿河屋(するがや)の三女として生まれる。旧姓は鳳(ほう)、本名志(し)よう。10代の初めから、店を手伝いながら古典、歴史書に親しみ、堺女学校卒業後、関西青年文学会の機関誌『よしあし草』などに詩や短歌を投稿。1900年(明治33)与謝野寛(ひろし)(与謝野鉄幹)によって前年に創立された新詩社の社友となり、『明星』に短歌を発表。同年8月大阪で講演した寛に会い大いに創作意欲を刺激されたが、翌年東京の寛のもとに出奔、処女歌集『みだれ髪』を刊行して文壇の注目を浴びた。「やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君」など、近代の恋愛の情熱を大胆な官能とともに歌い上げ、日本的な艶(えん)の美学と、西欧の近代詩に近い方法を包摂した浪漫(ろうまん)的一世界を開顕して、その華麗な作風は上田敏(うえだびん)に「詩壇革新の先駆」と評価された。
 寛と結婚後は『明星』の中心となって、小説、詩、評論、古典研究など多方面に活動をもつようになる。歌集はその後、『小扇(こおうぎ)』(1904)、『恋衣』(共著。1905)、『佐保姫(さおひめ)』(1909)、『青海波(せいがいは)』(1912)、『火の鳥』(1919)、『流星の道』(1924)、『心の遠景』(1928)と変化をたどりつつ、没後に編まれた『白桜集』(1942)まで二十数冊を数える。この間、その作風は初期の浪漫的美質を失わなかったが、しだいに内面的な翳(かげ)りや屈折を加え、沈静な自己観照や思索的な叙情を内包しつつ、しだいに人生的な詠嘆をもつようになる。晩年の作風は、「梟(ふくろふ)よ尾花の谷の月明に鳴きし昔を皆とりかへせ」(『白桜集』)にみられるように、寛の死を見送ってのちの哀傷感が深いが、そのなかにも一点、艶をたたえた叙情の表出に独自の境を開いている。
 評論活動も積極的で、『一隅より』(1911)、『激動の中を行く』(1919)、『人間礼拝』(1921)など十数冊に上り、その関心は広い社会的視野にたって婦人問題に注がれていた。女性に絶えず考える姿勢を求めつつ、その地位の向上への方途を説いたが、なかでも「母体の国家保護」をめぐる問題では平塚らいてうら婦人活動家と対立し、子供は一個の人格体としてとらえるべきだと主張するなど、自覚された母性の自恃(じじ)に基づいた確固たる女性思想を示していた。
 晶子の創作の原点には、少女時代から親しんだ古典の世界があったといえるが、新詩社の例会では『源氏物語』の講義を続け、2回にわたって現代語訳に意欲をみせているほか、『栄花物語(えいがものがたり)』『和泉式部日記(いずみしきぶにっき)』などの現代語訳や研究を残している。
 また、日露戦争従軍中の弟を思う長詩「君死にたまふことなかれ」(1904)は、その思想的主題をめぐる論争を巻き起こして反響をよんだが、晶子の詩作品は口語詩を含め『晶子詩篇全集(しへんぜんしゅう)』(1929)にまとめられた。なお、1921年(大正10)文化学院創立にあたっては初代学監に就任するなど、教育活動にも熱心で、文学を通して幅広い活動の軌跡を残している。昭和17年5月29日没。多磨霊園に葬られる。[馬場あき子]
『『定本与謝野晶子全集』全20巻(1979~1981・講談社) ▽『与謝野晶子歌集』(岩波文庫・旺文社文庫) ▽『与謝野晶子評論集』(岩波文庫) ▽馬場あき子著『鑑賞与謝野晶子の秀歌』(1981・短歌新聞社) ▽逸見久美著『評伝与謝野鉄幹・晶子』(1975・八木書店) ▽入江春行著『晶子の周辺』(1981・洋々社)』

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世界大百科事典内の与謝野晶子の言及

【みだれ髪】より

与謝野晶子の第1歌集。1901年(明治34),東京新詩社,伊藤文友館刊。…

※「与謝野晶子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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