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歌人。明治11年12月7日、大阪府堺(さかい)市に菓子の老舗(しにせ)駿河屋(するがや)の三女として生まれる。旧姓は鳳(ほう)、本名志(し)よう。10代の初めから、店を手伝いながら古典、歴史書に親しみ、堺女学校卒業後、関西青年文学会の機関誌『よしあし草』などに詩や短歌を投稿。1900年(明治33)与謝野寛(ひろし)(与謝野鉄幹)によって前年に創立された新詩社の社友となり、『明星』に短歌を発表。同年8月大阪で講演した寛に会い大いに創作意欲を刺激されたが、翌年東京の寛のもとに出奔、処女歌集『みだれ髪』を刊行して文壇の注目を浴びた。「やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君」など、近代の恋愛の情熱を大胆な官能とともに歌い上げ、日本的な艶(えん)の美学と、西欧の近代詩に近い方法を包摂した浪漫(ろうまん)的一世界を開顕して、その華麗な作風は上田敏(うえだびん)に「詩壇革新の先駆」と評価された。
寛と結婚後は『明星』の中心となって、小説、詩、評論、古典研究など多方面に活動をもつようになる。歌集はその後、『小扇(こおうぎ)』(1904)、『恋衣』(共著。1905)、『佐保姫(さおひめ)』(1909)、『青海波(せいがいは)』(1912)、『火の鳥』(1919)、『流星の道』(1924)、『心の遠景』(1928)と変化をたどりつつ、没後に編まれた『白桜集』(1942)まで二十数冊を数える。この間、その作風は初期の浪漫的美質を失わなかったが、しだいに内面的な翳(かげ)りや屈折を加え、沈静な自己観照や思索的な叙情を内包しつつ、しだいに人生的な詠嘆をもつようになる。晩年の作風は、「梟(ふくろふ)よ尾花の谷の月明に鳴きし昔を皆とりかへせ」(『白桜集』)にみられるように、寛の死を見送ってのちの哀傷感が深いが、そのなかにも一点、艶をたたえた叙情の表出に独自の境を開いている。
評論活動も積極的で、『一隅より』(1911)、『激動の中を行く』(1919)、『人間礼拝』(1921)など十数冊に上り、その関心は広い社会的視野にたって婦人問題に注がれていた。女性に絶えず考える姿勢を求めつつ、その地位の向上への方途を説いたが、なかでも「母体の国家保護」をめぐる問題では平塚らいてうら婦人活動家と対立し、子供は一個の人格体としてとらえるべきだと主張するなど、自覚された母性の自恃(じじ)に基づいた確固たる女性思想を示していた。
晶子の創作の原点には、少女時代から親しんだ古典の世界があったといえるが、新詩社の例会では『源氏物語』の講義を続け、2回にわたって現代語訳に意欲をみせているほか、『栄花物語(えいがものがたり)』『和泉式部日記(いずみしきぶにっき)』などの現代語訳や研究を残している。
また、日露戦争従軍中の弟を思う長詩「君死にたまふことなかれ」(1904)は、その思想的主題をめぐる論争を巻き起こして反響をよんだが、晶子の詩作品は口語詩を含め『晶子詩篇全集(しへんぜんしゅう)』(1929)にまとめられた。なお、1921年(大正10)文化学院創立にあたっては初代学監に就任するなど、教育活動にも熱心で、文学を通して幅広い活動の軌跡を残している。昭和17年5月29日没。多磨霊園に葬られる。
[馬場あき子]
『『定本与謝野晶子全集』全20巻(1979~1981・講談社)』▽『『与謝野晶子歌集』(岩波文庫・旺文社文庫)』▽『『与謝野晶子評論集』(岩波文庫)』▽『馬場あき子著『鑑賞与謝野晶子の秀歌』(1981・短歌新聞社)』▽『逸見久美著『評伝与謝野鉄幹・晶子』(1975・八木書店)』▽『入江春行著『晶子の周辺』(1981・洋々社)』
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歌人,詩人。大阪府堺市生れ。本名しょう。旧姓鳳(ほう)。堺女学校補習科卒業後,家業の菓子商を手伝いながら古典を独習した。関西青年文学会の《よしあし草》での習作期を経て,1900年《明星》(東京新詩社)に加入,主宰者与謝野寛(鉄幹)と恋愛し,翌年上京,歌集《みだれ髪》を刊行,結婚に至る。同書は〈くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる〉など大胆で斬新な表現に富み世を驚かした。次いで《小扇》(1904),《恋衣》(山川登美子,増田雅子との共著。1905),《舞姫》(1906)など,華麗な晶子調の歌風を展開し模倣者を輩出させた。日露戦争に従軍の弟を思い,04年に発表した長詩〈君死にたまふことなかれ〉は文壇に論争を生んだ。08年《明星》廃刊後は《スバル》などに寄稿したが,12年外遊中の夫の後を追ってパリに赴き,欧州各国を巡った。歌集《夏より秋へ》(1914)には海外詠が多い。大正期は作歌のほか童話,小説,古典の口語訳を試みた。また広く社会問題の評論に取り組んで,《青鞜》の運動を助けたり,母性保護論争に加わったりして積極的に活躍し,《人及び女として》(1916),《激動の中を行く》(1919)など,評論集を多く著した。21年文化学院創設に携わり,以降同校で自由な新教育に尽くした。第2次《明星》(1921-27)を経て30年《冬柏(とうはく)》を創刊,新詩社最後の拠点として経営に努めた。その間旅を好み旅行吟が多い。35年寛が没したあと,旧作《新訳源氏物語》(1912-13)以来の宿志たる改稿決定版《新新訳源氏物語》(1938-39)が成った。40年脳溢血で倒れ臥床,42年5月逝去した。著作数十巻。歌集だけでも没後刊の《白桜集》(1942)まで,20冊を超える。
執筆者:新間 進一
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明治〜昭和期の歌人,詩人
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(芳賀徹)
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1878.12.7~1942.5.29
明治~昭和前期の歌人・詩人。大阪府出身。旧姓鳳(ほう)。本名しょう。堺女学校卒。独学で日本の古典を学び,旧派和歌を作る。1900年(明治33)与謝野寛(ひろし)(鉄幹)の新詩社に参加,「明星(みょうじょう)」の才女として名を馳せる。大恋愛の末に鉄幹と結婚。その経緯を中心とした短歌を集め,01年「みだれ髪」を上梓。恋に燃える自我を情熱的に歌い,同時代の青年を魅了した。04年には日露戦争に従軍した弟の無事を祈る反戦詩「君死にたまふこと勿れ」を発表。11年平塚らいてうらの「青鞜」が創刊されると,それに共鳴して作品を寄せる。この時期,婦人問題についての著述も多く,文化学院の学監を務めるなど女子教育にもたずさわった。初の「源氏物語」現代語訳など日本の古典文学に関する作品も多い。
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