与謝野晶子(読み)よさのあきこ

精選版 日本国語大辞典 「与謝野晶子」の意味・読み・例文・類語

よさの‐あきこ【与謝野晶子】

歌人。堺の出身。本名志よう。旧姓鳳。鉄幹の妻。新詩社に加わり「明星」に詩歌を発表。大胆な官能の解放を歌い、その奔放で情熱的な作風浪漫主義運動に一時代を画し、また、古典の研究にも業績を残した。著「みだれ髪」「小扇」「白桜集」「新訳源氏物語」など。明治一一~昭和一七年(一八七八‐一九四二

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デジタル大辞泉 「与謝野晶子」の意味・読み・例文・類語

よさの‐あきこ【与謝野晶子】

[1878~1942]歌人。堺の生まれ。旧姓、ほう鉄幹の妻。新詩社を代表する歌人として雑誌「明星」で活躍、明治浪漫主義新時代を開いた。歌集「みだれ髪」「小扇」「舞姫」「恋衣」(共著)、現代語訳「源氏物語」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「与謝野晶子」の意味・わかりやすい解説

与謝野晶子
よさのあきこ
(1878―1942)

歌人。明治11年12月7日、大阪府堺(さかい)市に菓子の老舗(しにせ)駿河屋(するがや)の三女として生まれる。旧姓は鳳(ほう)、本名志(し)よう。10代の初めから、店を手伝いながら古典、歴史書に親しみ、堺女学校卒業後、関西青年文学会の機関誌『よしあし草』などに詩や短歌を投稿。1900年(明治33)与謝野寛(ひろし)(与謝野鉄幹)によって前年に創立された新詩社の社友となり、『明星』に短歌を発表。同年8月大阪で講演した寛に会い大いに創作意欲を刺激されたが、翌年東京の寛のもとに出奔、処女歌集『みだれ髪』を刊行して文壇の注目を浴びた。「やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君」など、近代の恋愛の情熱を大胆な官能とともに歌い上げ、日本的な艶(えん)の美学と、西欧の近代詩に近い方法を包摂した浪漫(ろうまん)的一世界を開顕して、その華麗な作風は上田敏(うえだびん)に「詩壇革新の先駆」と評価された。

 寛と結婚後は『明星』の中心となって、小説、詩、評論、古典研究など多方面に活動をもつようになる。歌集はその後、『小扇(こおうぎ)』(1904)、『恋衣』(共著。1905)、『佐保姫(さおひめ)』(1909)、『青海波(せいがいは)』(1912)、『火の鳥』(1919)、『流星の道』(1924)、『心の遠景』(1928)と変化をたどりつつ、没後に編まれた『白桜集』(1942)まで二十数冊を数える。この間、その作風は初期の浪漫的美質を失わなかったが、しだいに内面的な翳(かげ)りや屈折を加え、沈静な自己観照や思索的な叙情を内包しつつ、しだいに人生的な詠嘆をもつようになる。晩年の作風は、「梟(ふくろふ)よ尾花の谷の月明に鳴きし昔を皆とりかへせ」(『白桜集』)にみられるように、寛の死を見送ってのちの哀傷感が深いが、そのなかにも一点、艶をたたえた叙情の表出に独自の境を開いている。

 評論活動も積極的で、『一隅より』(1911)、『激動の中を行く』(1919)、『人間礼拝』(1921)など十数冊に上り、その関心は広い社会的視野にたって婦人問題に注がれていた。女性に絶えず考える姿勢を求めつつ、その地位の向上への方途を説いたが、なかでも「母体の国家保護」をめぐる問題では平塚らいてうら婦人活動家と対立し、子供は一個の人格体としてとらえるべきだと主張するなど、自覚された母性の自恃(じじ)に基づいた確固たる女性思想を示していた。

 晶子の創作の原点には、少女時代から親しんだ古典の世界があったといえるが、新詩社の例会では『源氏物語』の講義を続け、2回にわたって現代語訳に意欲をみせているほか、『栄花物語(えいがものがたり)』『和泉式部日記(いずみしきぶにっき)』などの現代語訳や研究を残している。

 また、日露戦争従軍中の弟を思う長詩「君死にたまふことなかれ」(1904)は、その思想的主題をめぐる論争を巻き起こして反響をよんだが、晶子の詩作品は口語詩を含め『晶子詩篇全集(しへんぜんしゅう)』(1929)にまとめられた。なお、1921年(大正10)文化学院創立にあたっては初代学監に就任するなど、教育活動にも熱心で、文学を通して幅広い活動の軌跡を残している。昭和17年5月29日没。多磨霊園に葬られる。

[馬場あき子]

『『定本与謝野晶子全集』全20巻(1979~1981・講談社)』『『与謝野晶子歌集』(岩波文庫・旺文社文庫)』『『与謝野晶子評論集』(岩波文庫)』『馬場あき子著『鑑賞与謝野晶子の秀歌』(1981・短歌新聞社)』『逸見久美著『評伝与謝野鉄幹・晶子』(1975・八木書店)』『入江春行著『晶子の周辺』(1981・洋々社)』


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百科事典マイペディア 「与謝野晶子」の意味・わかりやすい解説

与謝野晶子【よさのあきこ】

歌人。堺生れ。旧姓鳳(ほう)。本名しょう。堺女学校卒。1900年与謝野鉄幹新詩社の社友となり《明星》に短歌を発表。翌年処女歌集《みだれ髪》を出して世の注目を集めた。同年鉄幹と結婚,《明星》の中心的存在となった。初期の情熱的な歌風は次第に唯美的・幻想的となり,《小扇》,《毒草》(鉄幹と共著),《恋ごろも》(山川登美子らと共著),《舞姫》などの歌集を出した。日露戦争中の反戦的な詩〈君死にたまふことなかれ〉も反響を呼んだ。また古典の現代語訳を試み《新訳源氏物語》を刊行。大正期には広く女性問題,社会問題等の評論にも活躍,《青鞜》運動を助けたり,母性保護論争に参加するなどした。遺歌集《白桜集》がある。
→関連項目大塚楠緒子岡本かの子ケイ平塚らいてう深尾須磨子母性保護論争ロマン主義

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改訂新版 世界大百科事典 「与謝野晶子」の意味・わかりやすい解説

与謝野晶子 (よさのあきこ)
生没年:1878-1942(明治11-昭和17)

歌人,詩人。大阪府堺市生れ。本名しょう。旧姓鳳(ほう)。堺女学校補習科卒業後,家業の菓子商を手伝いながら古典を独習した。関西青年文学会の《よしあし草》での習作期を経て,1900年《明星》(東京新詩社)に加入,主宰者与謝野寛(鉄幹)と恋愛し,翌年上京,歌集《みだれ髪》を刊行,結婚に至る。同書は〈くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる〉など大胆で斬新な表現に富み世を驚かした。次いで《小扇》(1904),《恋衣》(山川登美子,増田雅子との共著。1905),《舞姫》(1906)など,華麗な晶子調の歌風を展開し模倣者を輩出させた。日露戦争に従軍の弟を思い,04年に発表した長詩〈君死にたまふことなかれ〉は文壇に論争を生んだ。08年《明星》廃刊後は《スバル》などに寄稿したが,12年外遊中の夫の後を追ってパリに赴き,欧州各国を巡った。歌集《夏より秋へ》(1914)には海外詠が多い。大正期は作歌のほか童話,小説,古典の口語訳を試みた。また広く社会問題の評論に取り組んで,《青鞜》の運動を助けたり,母性保護論争に加わったりして積極的に活躍し,《人及び女として》(1916),《激動の中を行く》(1919)など,評論集を多く著した。21年文化学院創設に携わり,以降同校で自由な新教育に尽くした。第2次《明星》(1921-27)を経て30年《冬柏(とうはく)》を創刊,新詩社最後の拠点として経営に努めた。その間旅を好み旅行吟が多い。35年寛が没したあと,旧作《新訳源氏物語》(1912-13)以来の宿志たる改稿決定版《新新訳源氏物語》(1938-39)が成った。40年脳溢血で倒れ臥床,42年5月逝去した。著作数十巻。歌集だけでも没後刊の《白桜集》(1942)まで,20冊を超える。
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朝日日本歴史人物事典 「与謝野晶子」の解説

与謝野晶子

没年:昭和17.5.29(1942)
生年:明治11.12.7(1878)
明治大正昭和の歌人,評論家。堺の菓子商である父鳳宗七,母つねの3女。本名しょう。堺女学校補習科卒業後,関西青年文学会に加わって詩歌を発表,明治33(1900)年から与謝野鉄幹の東京新詩社社友となり『明星』に短歌掲載。同年来阪した鉄幹を知り,翌34年家を捨てて上京,妻を離別した鉄幹と結婚。その激しい恋心と若い女の官能をうたいあげた第1歌集『みだれ髪』は同年8月刊行されて,一世を驚倒,眩惑させた。藤島武二によるアールヌーヴォー風装丁の瀟洒な一冊に盛られた「くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」など399首の歌は,平安朝女流歌人以来の情念と修辞の伝統をよみがえらせながらも,それらをこえた表現の「奇峭」と「奔放」(上田敏の評語)によって20世紀日本の詩歌と女性史への新しい扉を開いた。その後の歌集『小扇』(1904),ライバル山川登美子らとの合著『恋衣』(1905)なども晶子の唯美的想像力のさらなる洗練を示す。後者に付載された長詩「君死に給ふことなかれ」(1904年9月『明星』に発表)は,大町桂月の,これを「乱臣・賊子の詩」とする極評を呼んだが,晶子はこれに「まことの心を歌ふ」歌人として情意を尽くして反論した。明治末から大正を通じて,平塚らいてうや山川菊栄らと母性保護などに関し論争しつつ展開された婦人解放論,さらに政治,教育,社会の問題におよぶ幾多の評論も,晶子が歌よみの域をこえる豊かな洞察と見識の持ち主であったことを示し,同時に『みだれ髪』が単に青春の一時期の狂詩曲ではなかったことをも証し立てている。著作集に『定本与謝野晶子全集』全20巻,『与謝野晶子評論集』(岩波文庫)などがある。<参考文献>佐藤春夫『晶子曼陀羅』

(芳賀徹)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「与謝野晶子」の意味・わかりやすい解説

与謝野晶子
よさのあきこ

[生]1878.12.7. 大阪,堺
[没]1942.5.29. 東京
女流歌人。本名,しょう。早くから平安朝文学に親しみ,『よしあし草』などに短歌を発表していたが,1900年与謝野鉄幹の東京新詩社に参加,01年歌集『みだれ髪』の奔放な空想力と激しい情熱とによって明治浪漫主義に新紀元を画した。その間に鉄幹と結婚し,歌集『小扇』 (1904) ,詩歌集『毒草』 (04,鉄幹と共著) ,『恋衣』 (05,山川登美子,茅野雅子と共著) を経て歌集『舞姫』 (06) ,『夢の華』 (06) にいたり,唯美的芸術至上主義の極致を示した。ほかに『新訳源氏物語』 (4巻,12~13) ,詩歌集『夏より秋へ』 (14) ,遺稿歌集『白桜集』 (42) などがあり,明治,大正,昭和を通じての浪漫主義の巨星であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「与謝野晶子」の解説

与謝野晶子
よさのあきこ

1878.12.7~1942.5.29

明治~昭和前期の歌人・詩人。大阪府出身。旧姓鳳(ほう)。本名しょう。堺女学校卒。独学で日本の古典を学び,旧派和歌を作る。1900年(明治33)与謝野寛(ひろし)(鉄幹)の新詩社に参加,「明星(みょうじょう)」の才女として名を馳せる。大恋愛の末に鉄幹と結婚。その経緯を中心とした短歌を集め,01年「みだれ髪」を上梓。恋に燃える自我を情熱的に歌い,同時代の青年を魅了した。04年には日露戦争に従軍した弟の無事を祈る反戦詩「君死にたまふこと勿れ」を発表。11年平塚らいてうらの「青鞜」が創刊されると,それに共鳴して作品を寄せる。この時期,婦人問題についての著述も多く,文化学院の学監を務めるなど女子教育にもたずさわった。初の「源氏物語」現代語訳など日本の古典文学に関する作品も多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「与謝野晶子」の解説

与謝野晶子 よさの-あきこ

1878-1942 明治-昭和時代前期の歌人。
明治11年12月7日生まれ。鳳(ほう)秀太郎の妹。与謝野鉄幹主宰の東京新詩社社友となり,「明星」に短歌を発表。明治34年第1歌集「みだれ髪」に奔放な愛の情熱をうたって反響をよぶ。同年鉄幹と結婚し,ともに浪漫主義詩歌運動を推進するかたわら,社会問題の評論,文化学院の創立など多方面に活躍した。長詩「君死にたまふことなかれ」は反戦詩として知られる。昭和17年5月29日死去。65歳。大阪出身。堺(さかい)女学校卒。旧姓は鳳。本名はしょう。現代語訳に「新新訳源氏物語」。
【格言など】なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜(ゆふづくよ)かな(「みだれ髪」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「与謝野晶子」の解説

与謝野晶子
よさのあきこ

1878〜1942
明治〜昭和期のロマン派歌人
旧姓鳳 (ほう) 。大阪府の生まれ。1901年歌集『みだれ髪』を刊行。奔放華麗な歌風で,夫鉄幹とともに明星派を指導した。

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世界大百科事典(旧版)内の与謝野晶子の言及

【みだれ髪】より

与謝野晶子の第1歌集。1901年(明治34),東京新詩社,伊藤文友館刊。…

※「与謝野晶子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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