森田草平(読み)モリタソウヘイ

デジタル大辞泉 「森田草平」の意味・読み・例文・類語

もりた‐そうへい〔‐サウヘイ〕【森田草平】

[1881~1949]小説家翻訳家。岐阜の生まれ。本名、米松夏目漱石の門下。小説煤煙」「輪廻りんね」「細川ガラシヤ夫人」、翻訳「死せる魂」。

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精選版 日本国語大辞典 「森田草平」の意味・読み・例文・類語

もりた‐そうへい【森田草平】

  1. 小説家、翻訳家。岐阜県出身。本名米松。東京帝国大学卒。夏目漱石師事。平塚らいてうとの恋愛事件を描いた「煤煙」で世に出る。自伝的作品が多いが、晩年歴史小説も書いた。ダヌンツィオドストエフスキーなど多くの翻訳がある。著「自叙伝」「輪廻」「細川ガラシヤ夫人」など。明治一四~昭和二四年(一八八一‐一九四九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「森田草平」の意味・わかりやすい解説

森田草平
もりたそうへい
(1881―1949)

小説家、翻訳家。明治14年3月19日、岐阜市生まれ。本名米松。東京帝国大学英文科卒業。夏目漱石(そうせき)の門に入る。平塚らいてうとの情死未遂事件後、漱石の庇護(ひご)を受け、1909年(明治42)自伝小説『煤煙(ばいえん)』を『東京朝日新聞』に発表する機会を与えられ文壇的地位を得る。小宮豊隆(とよたか)とともに漱石主宰の「朝日文芸欄」を編集しつつ、『煤煙』の続編『自叙伝』(1911)を完成、活発な創作活動に入り、短編『初恋』(1911)、長編『十字街』(1912)などを書くが、みるべき作が少なく、しだいに翻訳を本業とするようになる。25年(大正14)大作『輪廻(りんね)』(1923~25)により、青年期から引きずっていた自己史の問題に決着をつけ、以後『吉良家(きらけ)の人々』(1929)、『豊臣(とよとみ)秀吉』(1941~42)、『細川ガラシヤ夫人』(1950)など歴史小説に新分野を開いた。終生、漱石に対して「永遠の弟子」意識をもち、その評伝『夏目漱石』正続(1942~43)は漱石研究の基本文献として不朽の価値をもつ。第二次世界大戦後、日本共産党に入党し話題をよんだ。昭和24年12月14日没。

[石崎 等]

『『森田草平選集』三冊(1956・理論社)』『『明治文学全集75 明治反自然派文学集 二』(1968・筑摩書房)』『『現代日本文学大系29 森田草平他集』(1971・筑摩書房)』『根岸正純著『森田草平の文学』(1976・桜楓社)』

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20世紀日本人名事典 「森田草平」の解説

森田 草平
モリタ ソウヘイ

明治〜昭和期の小説家,翻訳家



生年
明治14(1881)年3月19日

没年
昭和24(1949)年12月14日

出生地
岐阜県稲葉郡鷺山村(現・岐阜市鷺山)

本名
森田 米松

学歴〔年〕
東京帝大英文科〔明治39年〕

経歴
明治38年漱石の門下に入り、大学卒業後の39年天台宗中学の英語教師となる。閨秀文学講座で平塚らいてうを知り、41年塩原尾花峠へ揃って死の旅へ出るが、追っ手に見つけられ下山、新聞で報道罵倒された。この時の経験を小説「煤煙」として42年「東京朝日新聞」に連載して成功した。「煤煙」は大正2年全4冊で完結。以後、10数年間は翻訳に精力を傾けイプセンの「野鴨」、ドストエフスキーの「悪霊」「カラマゾフの兄弟」、ゴーゴリの「死せる魂」などを刊行。12年から創作に戻り、14年自伝的な長編「輪廻」を完成させ、さらに「吉良家の人々」「光秀の死と秀吉」など歴史小説を発表。戦時中は昭和17年から18年にかけて「夏目漱石」全2冊を刊行。戦後、23年共産党に入党したが、実際行動はなく、24年から連載を始めた「細川ガラシヤ夫人」が絶筆となった。「森田草平選集」(全6巻 理論社)がある。

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百科事典マイペディア 「森田草平」の意味・わかりやすい解説

森田草平【もりたそうへい】

小説家,翻訳家。本名米松。号,自楊,廿五絃など。岐阜県生れ。東大英文科卒。夏目漱石に師事し,漱石山房で開かれる木曜会に参加,1909年,平塚らいてうとの恋愛事件を描いた《煤煙》で文壇に出た。また漱石をたすけて,小宮豊隆らとともに《朝日新聞》の文芸欄を担当,自然主義に対抗する評論を発表。自伝的な作品《自叙伝》《輪廻》,歴史小説《吉良家の人々》《細川ガラシヤ夫人》等のほか,イプセンダンヌンツィオゴーゴリらの翻訳,漱石研究などの著がある。
→関連項目森田たま

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改訂新版 世界大百科事典 「森田草平」の意味・わかりやすい解説

森田草平 (もりたそうへい)
生没年:1881-1949(明治14-昭和24)

小説家,翻訳家。岐阜県生れ。本名は米松,号に白楊,廿五絃など。1906年東大英文科卒業。一高在学中から創作に関心をもち,西欧とくにロシア文学に傾倒,また生田長江,馬場孤蝶,与謝野鉄幹・晶子らを知る。05年以降夏目漱石に師事し,漱石山房でひらかれる木曜会の中心的存在となり,さらに《朝日新聞》文芸欄の編集実務を担当,みずからも評論を寄せた。それらの体験が後年《夏目漱石》正・続(1942-43)の実感的漱石論を生む。他方平塚らいてうとの恋愛事件(1908)に取材した長編《煤煙(ばいえん)》(1909)を発表,知識人男女の恋愛を通して近代の不安を描く作として世評を呼び,その続編《自叙伝》(1911)を書く。大正期には創作よりも翻訳を多く手がけたが,23-25年の自伝的長編《輪廻(りんね)》で復活,以後《吉良家の人々》(1929)その他の歴史小説を多く執筆した。翻訳にゴーゴリ《死せる魂》(1915)などがある。20-34年法政大学教授を務め,48年共産党に入党するが,翌年病没した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「森田草平」の意味・わかりやすい解説

森田草平
もりたそうへい

[生]1881.3.19. 岐阜
[没]1949.12.14. 長野
小説家,翻訳家。本名森田米松。第一高等学校を経て 1906年東京帝国大学英文科卒業。在学中に書いた『仮寝姿』(1903)が認められて小説家を志し,夏目漱石に師事。卒業後文学講座での教え子平塚らいてうと心中事件を起こし物議をかもしたが,漱石の庇護に救われ,長編『煤煙』(1909)を発表。その後漱石を助けて『朝日新聞』文芸欄を担当,『自叙伝』(1911),『初恋』(1911)のほかヘンリック・イプセン野鴨』,フョードル・ドストエフスキー悪霊』などの訳業に従った。さらに,『輪廻』(1923~25)を経て『吉良家の人々』(1929)など,自伝小説から新解釈の歴史小説へ移り,『細川ガラシャ夫人』(1949~50)が絶筆となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「森田草平」の解説

森田草平 もりた-そうへい

1881-1949 明治-昭和時代の小説家。
明治14年3月19日生まれ。夏目漱石(そうせき)の門下。明治41年平塚らいてうと心中未遂事件をおこし,この体験をもとにした「煤煙(ばいえん)」を「東京朝日新聞」に連載して話題をよんだ。昭和24年12月14日死去。69歳。岐阜県出身。東京帝大卒。本名は米松。作品はほかに「輪廻(りんね)」「夏目漱石」など。
【格言など】愚人は自己を曝(さら)け出すものだ(「愚妻論」)

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367日誕生日大事典 「森田草平」の解説

森田 草平 (もりた そうへい)

生年月日:1881年3月19日
明治時代-昭和時代の小説家;翻訳家
1949年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の森田草平の言及

【デカメロン】より

…エロ本の代表と見られていたからである。独訳本に拠って森田草平が《デカメロン》全訳を出版したのは1930年だった。ただし,そのうち最もおもしろい29編は,伏せ字だらけの別の小冊子として発行された。…

【平塚らいてう】より

…1906年卒業後英語を学ぶ。08年作家森田草平と塩原心中未遂事件(煤煙事件)を起こし世人を驚愕させた。11年生田長江にすすめられ,母から資金を出してもらい,婦人文芸集団青鞜社を興し,同人誌《青鞜》を発刊以後,編集と経営にあたる。…

※「森田草平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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