自然主義(読み)シゼンシュギ(英語表記)naturalisme フランス語

デジタル大辞泉 「自然主義」の意味・読み・例文・類語

しぜん‐しゅぎ【自然主義】

哲学で、自然を唯一の実在・原理として、精神現象を含む一切の現象を自然科学の方法で説明しようとする立場。
倫理学で、道徳に関する事象を本能・欲望・素質など人間の自然的要素に基づいて説明する立場。
文学で、理想化を行わず、醜悪なものを避けず、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、自然科学の影響のもとにフランスを中心に興ったもので、人間を社会環境や生理学的根拠に条件づけられるものとしてとらえたゾラなどが代表的。日本では明治30年代にもたらされ、島崎藤村田山花袋徳田秋声正宗白鳥らが代表。→リアリズム文学
教育学で、人間の自然の性情を重んじ、その円満な発達を教育の目的とする立場。ルソーの提唱。
[補説]書名別項。→自然主義

しぜんしゅぎ【自然主義】[書名]

長谷川天渓の評論集。明治41年(1908)刊行。

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精選版 日本国語大辞典 「自然主義」の意味・読み・例文・類語

しぜん‐しゅぎ【自然主義】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 哲学で、自然をただひとつの実在とみなして、精神現象をも含めて一切の現象を自然の産物と考え、自然科学の方法で説明しようとする立場。〔普通術語辞彙(1905)〕
  3. 倫理学で、道徳現象を人間の本能、欲望、素質などの自然的要素に基づいて説明する立場。また、そこから道徳をうちたてようとする立場をいう。イギリスの哲学者ハーバート=スペンサーの進化論的倫理学の類。
  4. 美学で、自然のありのままの美しさや個性を再現することを芸術の目的とする考え方。
    1. [初出の実例]「ハルトマンは〈略〉嘗て美術の革命を説いていはく、革命者実際主義といひ、自然主義といふものを奉ずるは、其仮面のみ」(出典:柵草紙の山房論文(1891‐92)〈森鴎外〉逍遙子の諸評語)
  5. 文学で、人間の生態や社会生活を直視して分析し、ありのままの現実を直視して、醜悪なものを避けず理想化を行なわないで描写することを本旨とする思潮。自然科学の隆盛に刺激されて、一九世紀末にフランスのゾラを中心として起こり、モーパッサンゴンクール兄弟、ドーデらにうけつがれた。日本には明治後期に伝わり、自己の内面的心理や動物的側面をありのままに告白したり、また、平凡な人生をあるがままに描写したりする行き方をとるに至った。代表的作家は田山花袋、島崎藤村、岩野泡鳴、徳田秋声、正宗白鳥など。
    1. [初出の実例]「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも付かぬ事を」(出典:平凡(1907)〈二葉亭四迷〉二)
  6. 教育で、人間の自然の性情を重んじ、社会的な慣習や観念を押しつけることなく子どもを発達させようとする立場。〔普通術語辞彙(1905)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「自然主義」の意味・わかりやすい解説

自然主義(文芸)
しぜんしゅぎ
naturalisme フランス語
naturalism 英語

元来は自然を唯一絶対の現実とみなす立場をいう哲学用語であるが、文芸上でとくに、写実主義のうちに自然科学の客観性と厳密性を取り入れることを主張して、19世紀後半のフランスでゾラを中心としておこり、ヨーロッパ各国に広がった文芸主潮をいう。自然主義はつまり、写実主義に対立したもの、あるいは別個の潮流ではなく、それを継承し、さらに方法的に推し進めた同じ流れに属するもので、このため、作者および作品の両派の区分がかならずしも明瞭(めいりょう)にされない場合もしばしばある。自然主義はまず、すでに時代遅れとなった虚偽のロマン主義に対する反動としておこったが、時代の科学万能主義の思潮と相まって、単にありのままの現実再現という写実主義に飽き足らず、「総合的真実」を描くために、現実をつくりあげている科学的根拠としての「原因」を追求しようとした。つまり、この現実世界を説明することができる方法はただ一つ、科学しかなく、物理的世界の認識に対して科学がすることを文学のなかで行おうとするもの、たとえば心理学にかわり、人間の行動における生理学的根拠や、感情、性格を決定づける社会環境などが追求される「科学的作品」を創造しようとするもので、コントの実証主義、テーヌの決定論、ダーウィンの『種の起原』、クロード・ベルナールの『実験医学序説』、リュカProsper Lucas(1805―1885)の遺伝学などがこの場合の理論的根拠となった。

[加藤尚宏]

ヨーロッパおよびアメリカでの展開

1865年前後のゾラおよびゴンクール兄弟の小説にその最初の表現がみられるが、1868年ゾラが『テレーズ・ラカン』2版の序文で自然主義宣言を行って以来、ゾラを囲んで同調者のグループができて、デュランチらの写実主義文学運動以上に、一つの明確な流派としての運動となった。ついでゾラは、のちに『実験小説論』(1880)のなかで表明する理論に基づきながら、1871年から約20年の計画で連鎖小説『ルーゴン・マッカール双書』20巻を発表し始める。この理論は、クロード・ベルナールの実験医学の観察と実験の原理を文学に応用したもので、社会現象の厳密な観察を土台に、科学的(生物学的、生理学的、医学的)な意味で条件づけられた人間をそれぞれ特定の環境と事件のなかにおいて「実験」を試み、その結果を科学的冷静さで報告するというものである。そして1877年『居酒屋』が発表されるや、この派は時代の潮流を制覇し、そのなかからアレクシス、セアールHenry Céard(1851―1924)、エニックLéon Hennique(1851―1935)、ユイスマンス、モーパッサン、ドーデらの作家が誕生した。しかし、医学が病気を対象とするように、社会の病悪を主たる題材にとる自然主義の小説は、社会(とくに下層の)の醜悪な面、人間の異常な面を強調しながら克明に描写する露悪的でペシミスティックな傾向を強めていくにつれ、一般の反感を惹起(じゃっき)し、あげく、『大地』(1887)が発表されるに及んで、ゾラが弟子たちにまで反旗を翻されるに至った(『五人の宣言』1887)。そして、もともとその科学的理論の根拠の薄弱なことや、ゾラを継ぐ作家たちがこの主義を継承しない(モーパッサン、ドーデは科学性を拒否し、ユイスマンスは反自然主義へ転向する。ゾラ自身も社会主義的理想主義へ転身する)といったこともあり、加えて詩における象徴主義の流行もあって、自然主義の隆盛は1880年代の終わりから急速に衰退した。

 しかし、人間の真実を冷徹にえぐり出し、平凡なあるいは悲惨な庶民生活やマスとしての大衆に目を注ぎ、社会環境(とりわけ下層の)を酷薄に描写する、多くペシミズムに彩られたこの文学は、日本を含め世界各国の文学に(北欧ではとくに演劇に)多大な影響を及ぼした。イギリスでハーディ、ロシアでボボルイキンコロレンコチェーホフノルウェーでイプセン、ビョルンソン、スウェーデンでストリンドベリ、デンマークでヤコブセンポントピダン、オランダでクベールス、ベルギーでルモニエ、スペインでクラリンClarín(レオポルド・アラスLeopoldo Alas。1852―1901)らがその代表的作家である。イタリアでは、ジョバンニ・ベルガの「真実主義(ベリズモ)」およびそれを理論づけたカプアーナらがこれから深い影響を受けた。またドイツでは、コンラートMichael Georg Conrad(1846―1927)のミュンヘン派とハルトHart兄弟(兄Heinrich1855―1906、弟Julius1859―1930)のベルリン派の第一期自然主義を経て、ホルツらのいわゆる「徹底的自然主義」が確立して、ハウプトマンズーダーマンの全盛期を迎え、やがて心理的自然主義の衰退期に入る。新しい国アメリカも他国以上に深くこの文学の洗礼を受け、『居酒屋』をまねた『街の女マギー』のガーランド、クレーン、ノリスらを経て、アメリカのゾラというべき代表作家ドライサーを生んだ。

[加藤尚宏]

日本での展開

日本における自然主義運動は、明治20年代以来の写実主義の必然的深化であるとともに、西欧の自然主義の日本的消化の結果であった。すなわち、一方では正岡子規(しき)一派の写生文の運動、島崎藤村(とうそん)の『千曲川(ちくまがわ)のスケッチ』(1912)、徳冨蘆花(ろか)の『自然と人生』(1900)のような試みが進行するとともに、一方では小杉天外がゾラの理論を取り入れて新しい写実小説を主張し始めた1900年代初頭に、「前期自然主義」とよばれる一時期が始まる。いわゆるゾライズムの時代で、天外の『はやり唄(うた)』(1901)、田山花袋(かたい)の『重右衛門(じゅうえもん)の最後』(1902)、永井荷風(かふう)の『地獄の花』(1902)などがその代表的な作品である。評論の面では、長谷川天渓(はせがわてんけい)などが作家の科学的態度を求めて自然主義の主張を展開していた。しかし、そのゾラの理論は根づかず、客観描写への関心だけがやがて花袋の『露骨なる描写』(1904)の主張に結晶して、自然主義文学の方法的準備は整った。

 日露戦後、藤村の『破戒』(1906)の出現によって自然主義文学はほぼ確立し、花袋の『蒲団(ふとん)』(1907)の成功によって決定的となった。島村抱月(ほうげつ)はこの2作を高く評価して自然主義を評論の面から積極的に支持し、実作と評論とが一体となってこの運動を推進し、以後1910年(明治43)ごろまでがこの派の文学の最盛期であった。実作では前記のほか、花袋の『生』(1908)、『田舎(いなか)教師』(1909)、藤村の『春』(1908)、『家』(1911)、徳田秋声(しゅうせい)の『足迹(あしあと)』(1912)、『黴(かび)』(1912)、岩野泡鳴(ほうめい)の『耽溺(たんでき)』(1909)、『放浪』(1910)、正宗白鳥(はくちょう)の『何処(どこ)へ』(1908)、『微光』(1910)などがその主要な収穫であり、評論の面では抱月、天渓のほか、片上伸(かたかみのぶる)(天弦(てんげん))、相馬御風(そうまぎょふう)らが、自然主義の理論的基礎、実行と芸術の問題、描写論、実作批評などに活発な議論を展開した。しかし、自然主義の徹底した傍観的態度は現実暴露の悲哀を感じさせるだけの無解決の文学であったために、1910年にはほぼ運動の頂点を超えた。だが、そこで得られた近代リアリズムの手法は近代日本文学の確立に重要な役割を果たした。したがって、文学思潮としては退潮しても、なお大正中期にも花袋の『時は過ぎゆく』(1916)、『一兵卒の銃殺』(1917)、藤村の『新生』(1918~1919)、泡鳴の五部作(1910~1918)、白鳥の『牛部屋の臭(にお)ひ』(1916)など、自然主義系の優れた作品が数多く書かれた。以後も、大正から昭和にかけて日本独自の文学といわれる心境小説・私(わたくし)小説の成立について、自然主義文学はその原点と考えられ、近代・現代の全般にわたって、その影響は大きい。

[和田謹吾]

『吉田精一著『自然主義の研究』上下(1955、1958・東京堂出版)』『片岡良一著『自然主義研究』(1957・筑摩書房)』『川副国基著『日本自然主義の文学』(1957・誠信書房)』『河内清編『自然主義文学』(1962・勁草書房)』『山川篤著『フランス・レアリスム研究』(1977・駿河台出版社)』『A・ミットラン著、佐藤正年訳『ゾラと自然主義』(文庫クセジュ)』『正宗白鳥著『自然主義文学盛衰記』(講談社文芸文庫)』


自然主義(哲学)
しぜんしゅぎ
naturalism

哲学上の自然主義は、経験科学としての自然科学の対象にされる存在、つまり「自然」に、存在一般の典型をみる見方である。要するに、規則的な因果の連関によって運動変化する時空上の存在としての自然以外には、原理上、なにも存在しないとする方法上の一種の一元的見方が自然主義と称され、1930年代末より40年代にかけてアメリカで流行をみせた。

 この自然主義によれば、およそ存在しあるいは生起するいっさいは、典型的には自然科学で適用され、それ以外の領域にも連続的に拡張される方法、つまり因果的な規則性(法則)の探求という方法によって説明され、その際、たとえば目的因のように科学の因果的説明の枠を超える原理を考える必要はない。世界は自然的な原因によって生成・消滅する自然的事物から構成されるのであり、時空および因果の秩序のうちにある自然的な存在以外の存在を仮定するのは、そうした非自然的存在が観察可能でない以上、無意味である。自然的存在としての人間の研究にあたっても同様である。

 ただし、カントがつとにその「弁証論」で指摘していたように、自然は原理上、そのあらゆる部分については、自然的因果によって理解できるにしても、自然「全体」を自然的に説明することは不可能である。なぜなら、「全体」としての自然の外には、もはや自然的原因者はみいだされえないからである。

[山崎庸佑]

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改訂新版 世界大百科事典 「自然主義」の意味・わかりやすい解説

自然主義 (しぜんしゅぎ)
naturalisme[フランス]

一般には文芸用語として,19世紀後半,フランスにあらわれて各国にひろまった文学思想,およびその思想に立脚した流派の文学運動を指す。ナチュラリスムという原語は,古くは哲学用語として,いっさいをナチュールnature(自然)に帰し,これを超えるものの存在を認めない一種の唯物論的ないし汎神論的な立場を意味していたが,博物学者を意味するナチュラリストnaturalisteという表現や,自然の忠実な模写を重んずる態度をナチュラリスムと呼ぶ美術用語など,いくつかの言葉の意味が重なり合って影響し,文学における一主義を指す新しい意味を獲得するにいたった。文学は科学と実証主義の方法と成果を活用し,自然的・物質的条件下にある現実を客観的に描かなければならないとする理論,これを〈ナチュラリスム〉の名のもとに組みあげていったのは,名実ともに自然主義派の総帥ともいうべきフランスの作家ゾラである。ナチュラリスム,ナチュラリズムなどの西欧語は,日本に導入されるに際して〈自然主義〉という訳語があてられて定着したが,もともと〈nature〉と〈自然〉のあいだにあった意味のずれが,ナチュラリスム理解にゆがみをもたらし,日本文学における自然主義の特殊な性格を生む原因の一つになったとも考えられている。

自然主義の文学運動は,1870年前後から20年余りにわたってフランスの小説と演劇を支配した。自然科学のめざましい進歩,産業革命の進展,実証主義思想の隆盛といった時代現象を背景として,すでに19世紀半ばごろから〈写実主義〉が文学の支配的傾向となっていたが,この写実主義文学の影響,とりわけフローベールの強い影響を受け,テーヌをはじめとする実証主義の思想家たちの感化のもとに自然主義の文学運動が開始される。すなわち,19世紀前半のロマン主義に対する反動としておこった写実主義の思想を受け継ぎながら,現実を支配する自然的・物質的条件をいっそう重視し,生物学的人間観を強く打ち出したのが自然主義であるということになる。写実主義の文学傾向が自然主義理論を得るに至る流れのなかで,事実上,自然主義成立を準備する役割を果たした作家がゴンクール兄弟である。事実記録や文献資料によって小説に完ぺきな客観性を与えようと努めたこと,人間心理を生理学的に解き明かそうという姿勢をとったことなどによって,ゴンクール兄弟は一面においてすでに自然主義の作家であったとみることもできよう。

 しかし,自然主義に明確な理論的基盤が与えられ,流派が形成されるには,なおゾラの登場を待たなければならなかった。ゾラは,まず《テレーズ・ラカン》(1867)によって科学研究に類する小説を書きえたと自負し,構築しつつあった自然主義理論に対する確信を深めたあと,やがて,遺伝と環境に支配された〈一家族の自然的社会的歴史〉を描きつくすという壮大な意図のもとに,20巻の小説から成る〈ルーゴン・マッカール叢書〉(1871-93)を書き始める。また,小説執筆のかたわら,ゾラは自らの自然主義文学理論を《実験小説論》(1880)にまとめあげた。バルザックの《人間喜劇》にならった〈ルーゴン・マッカール叢書〉全体の構想が,P.リュカの遺伝理論など生理学・生物学の成果に多くを負っているのと同じように,〈実験小説論〉は,クロード・ベルナールの《実験医学研究序説》に示された医学上の方法論をほとんどそのまま小説に適用することを主張するもので,ある環境に置かれた一定の遺伝的・生理的条件をもつ人間の変化反応を描く〈実験としての小説〉を提唱する理論であった。この理論はただちに多くの批判と反論を呼び起こし,科学的な実験と小説における想像上の〈実験〉を同一視するという基本的な誤りはその後も何度となく指摘された。しかし,この小説論は,その極端な立論を通して,少なくとも,素朴な熱情にも似た科学への信仰を共有することによって時代精神に適合した自然主義の一面,この文学思想の根底にある科学主義志向を最も端的に表し伝えている点で,自然主義の代表的文学理論の一つに数えられる。

 1870年代の半ばごろからゾラの周辺に集まった自然主義派の若い作家たちは,会合の場所であったゾラの別荘がメダンにあったことから〈メダンのグループ〉と呼ばれるが,これに属するモーパッサン,J.K.ユイスマンス,H.セアール,L.エニック,P.アレクシの5人は,1880年,首領格のゾラとともにおのおの1編ずつの短編を持ち寄って作品集《メダンの夕べ》を公刊し,自然主義文学派の存在を強く印象づけた。これらの作家たちのほかに,自然主義派ないしそれに近い作家としては,日本にも早くから紹介されたA.ドーデ,O.ミルボー,劇作家H.F.ベックらがいる。

 これら自然主義派の作家たちの多くには,生物学的・生理学的な人間理解,同時代の社会に対する批判精神,記録や資料の活用,主観を排した叙述態度,感覚的描写の重視など,いくつかの共通する傾向がある。しかし,一時期,互いに共感し合い,一つの流派をかたちづくったことが事実であるにしろ,彼らが皆,まったく同じ理論,同じ文学的信条のもとに仕事をしたわけでは決してなく,流派の領袖ゾラの自然主義理論に対しても,なんらかの点でこれに同ぜず,批判的・懐疑的な見解を抱く者も少なくなかった。そのうえ,ゾラの場合も含め,彼らの理論的主張と実際の作品とのあいだにはしばしば大きな隔りがあり,このことが自然主義派作家たちの作品に対する評価をいっそう複雑なものにしている。もともと彼らのあいだにひそんでいた文学観のずれ,個性的特色と制作態度の相違は,1880年代の末ごろからしだいに表面化し,科学や実証主義思想に対する懐疑がひろがりはじめると同時に,自然主義の文学運動は衰微と退潮の時期を迎える。

 フランス自然主義は各国文学に強い影響を及ぼし,同系統の文学を生んだ。ドイツでは,G.ハウプトマンやH.ズーダーマン,北欧では,イプセンやストリンドベリらによって,おもに演劇における自然主義の傑作が書かれ,アメリカでは,F.ノリス,S.クレーン,T.ドライサーなどの自然主義的作家が出た。しかし,写実主義文学の独自の伝統をもつイギリスに自然主義は栄えなかったし,ロシアにもゾラ流の自然主義は根づかず,この思想にくみする作家は数少なかった。イギリスではG.ムーア,ロシアではP.D.ボボルイキンが,これら少数の作家たちの代表である。
執筆者:

ゾラの名は早くから日本に伝えられていたが,1900年代の初頭に小杉天外や永井荷風らが一種の主張をともなって,ゾラの理論と方法を適用した小説を発表している。しかし,島村抱月によって前期自然主義と呼ばれたこの試みは,遺伝と環境認識の未熟な模倣にすぎず,見るべき成果をあげることなく終わった。そして日本の自然主義は日露戦争後に,浪漫詩人の自己転身の形をとって,個の解放を求める主我性が既成の権威を否定して人生の真に徹しようとする志向と結びつくという形で成立した。島崎藤村の《破戒》(1906)と田山花袋の《蒲団(ふとん)》(1907)がその記念碑的な作品である。先駆的存在として,小民(庶民)の生活を描き続けた国木田独歩もいた。《破戒》は主題と方法の清新さによって,《蒲団》は実生活の愛欲の赤裸々な告白として,いずれも文壇に大きな衝撃を与えた。また,《破戒》をいち早く西欧自然主義の命脈を伝えた作と評価した島村抱月をはじめ,長谷川天渓,片上伸(天弦)らの評論活動による理論的バックアップも有力だった。自然主義はやがて《早稲田文学》《文章世界》《読売新聞》などを有力な拠点とする一種の文学運動にまで成長し,1910年前後に最盛期を迎える。《何処へ》(1908)の正宗白鳥,《新世帯》(1908)の徳田秋声,《耽溺(たんでき)》(1909)の岩野泡鳴,《別れたる妻に送る手紙》(1910)の近松秋江らの新しい作家も現れ,ほとんど文壇の主流を形成する観があった。

 日本の自然主義の際だった特色は,《蒲団》の強い影響下に虚構と想像力による作品創造を避けて,実生活レベルでのあからさまな自己表白の文学を目ざしたところにある。閉塞した現実のなかでかろうじて個を擁立する方法であったが,当然,社会性の喪失ないし希薄化を免れなかった。他方,現実の追求を個人生活の内面に限定したことは,内なる自然としての本能を人間存在の究極の事実として重視する傾向を生じ,あらゆる形式道徳の束縛を否定しながら無理想・無解決を標榜するにいたる。美を幻影として退ける態度も徹底していたが,フランスの自然主義に見られるような科学的精神には乏しかった。総じて,硯友社以来の風俗写実を否定して,本格的な近代小説の確立にあずかって力あったことは否めず,また,個の思想にもとづくリアリズム精神の深化と,現実を否定する契機としての反逆性は評価できるが,同時に,彼らの試みた〈真〉の追求は,〈現実暴露の悲哀〉に通じる虚無的な人生観をも胚胎することになった。実行のるつぼにのまれることを恐れた観照性をしだいに深め,それは官能描写の過剰とともに自然主義の短命をもたらした。運動としての自然主義は絶頂に達すると同時に急速に衰微し,その命脈は藤村や秋声,白鳥など,個々の作家の個としての成熟によって守られることになった。しかし,自己の内なる真実の表現こそ文学の本道であるという自然主義の残した牢固な文学観は,後代の作家たちに大きな影響を与え,大正期に入ってから私小説,心境小説という日本独自のリアリズム様式の誕生を見た。
私小説
執筆者:

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百科事典マイペディア 「自然主義」の意味・わかりやすい解説

自然主義【しぜんしゅぎ】

最広義に自然的世界を自足した唯一の実在と考え,人間の精神現象を含めてすべてのものがその法則によって支配されているとする立場。一般には,フランス語naturalismeの訳として,19世紀後半のフランスに現れた文学運動をさす。遺伝や環境などの要素を重視し,現実を実証主義的,自然科学的方法で解明しようと試みたゾラを代表に,モーパッサンゴンクール兄弟,ドーデらの名があげられる。自然科学の進歩や産業革命の進行を時代背景として〈写実主義〉の延長上に現れ,ダーウィンベルナールらの著作や,実証主義思想の影響を受け,ときに醜悪な現実を描こうとした。ゾラの《実験小説論》や,6作家の小説集《メダンの夕べ》(1880年)はその理念を示すものといえる。自然主義は各国の小説,戯曲にもみられるが,日本では,1890年ごろゾラの理論が紹介され,島崎藤村の《破戒》(1906年)が自然主義作品と呼ばれた。田山花袋や《早稲田文学》の作家らがこれに続いたが,自己の内面をありのままに告白することに主眼が置かれた点に特色がある。これは西欧語の〈nature〉と日本語の〈自然〉との本来的な意味のずれによるものとも考えられる。日本の自然主義は運動としては急速に衰えたが,私小説心境小説の誕生に大きな影響を与えた。
→関連項目アホヰタ・セクスアリス伊藤信吉田舎教師岩野泡鳴オニール女の一生片上伸感情(雑誌)近代劇国木田独歩言文一致告白録後藤宙外佐藤紅緑島村抱月縮図(文学)新潮新ロマン主義ズーダーマン相馬御風太陽田中王堂ダンヌンツィオ徳田秋声ハウプトマン破戒長谷川天渓バルビュスバルベー・ドールビイフローベール文章世界ベックベネットベリズモポントピダン正宗白鳥真山青果ムーア森田草平ユイスマンスルーゴン・マッカールロスタンロダン若山牧水早稲田派

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知恵蔵 「自然主義」の解説

自然主義

「リアリズム」のページをご覧ください。

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「自然主義」の解説

自然主義
しぜんしゅぎ
naturalism

③文学用語。19世紀の後半に写実主義(リアリズム)のあとをうけておこった文学思想
④美術用語。題材を自然の中に求め,対象をできるかぎり自然に忠実に表現しようとする立場
①哲学用語。自然を唯一の実在と考え,いっさいの現象を自然の産物であるとし,それを自然科学的に説明しようとする考え方。
②倫理学用語。倫理的な価値や規範を,本能など人間の自然的性質にもとづいて導き出そうとする考え方。
フランスからイギリス・ドイツ・ロシア・日本などに波及し,小説・戯曲などに大きな影響を与えた。フランスのバルザック・フロベール・ゾラ・モーパッサン,イギリスのディケンズ・トマス=ハーディ,ノルウェーのイプセン,ロシアのトルストイ,日本の田山花袋 (かたい) らが有名。
ルネサンスや15世紀後半のフィレンツェ派の画家も含まれるが,一般には19世紀半ばにフランスで活躍したミレーらバルビゾン派の画家をさす。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「自然主義」の解説

自然主義
しぜんしゅぎ

19世紀後半のフランスを中心におこった文芸思潮。写実主義の延長線上にあって理想を排して現実をありのままに描こうとする立場。自然科学の影響をうけ,人間は遺伝と環境によって決定される存在であるとの観点から創作を行った。ゾラ,フローベール,モーパッサンなどが有名。日本では日露戦争後の近代文学の確立期において最も影響力をもった。島崎藤村の「破戒」,田山花袋の「蒲団(ふとん)」の出現や,島村抱月・長谷川天渓らの評論によって自然主義時代の到来が告げられたが,文芸思潮としてはその後急速に分化衰退し,私小説化・心境小説化の方向をたどった。上記以外に国木田独歩・徳田秋声・岩野泡鳴・正宗白鳥・近松秋江らがいる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「自然主義」の意味・わかりやすい解説

自然主義
しぜんしゅぎ
naturalism

現実のありのままを,まったく客観的な立場で観察し描写する芸術的態度や手法のことで,リアリズムの一種とみられる。文学では自然科学の発達による実験的手法を取入れて特殊な性格をもつものとなり,フランスにおいてフローベールのリアリズムとテーヌの実証主義に拠り,ゾラとモーパッサンによって確立された。自然科学的な観察,実験の方法を用い,想像力を排して人間の生の実相に迫ろうとし,特にゾラにおいては,遺伝と環境による決定論的傾向が強い。日本では明治の後期に田山花袋,徳田秋声,正宗白鳥らによる独自な自然主義文学がみられた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「自然主義」の解説

自然主義(しぜんしゅぎ)
naturalism

1870年前後からフランスを中心に各国に広まった文芸思想。文学も科学とその実証主義の方法と成果を取り入れ,自然と物質の条件のもとにある現実を客観的に描かなければならないとした。フランスの作家ゾラがその最も熱心な提唱者で,彼は遺伝と環境の支配下にある一家族に題材をとる小説を書き,『実験小説論』(1880年)でみずからの自然主義文学理論を明らかにした。科学への素朴な信仰を共有した時代の産物。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「自然主義」の解説

自然主義
しぜんしゅぎ

19世紀後半,フランスにおこった文芸思潮で,人間を形成する遺伝と環境を観察分析し,ありのままの人生をとらえて,病弊を解明しようとするもの
日本では1900年ころから小杉天外や永井荷風が手法を試み,島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団 (ふとん) 』によって文壇の主流となった。つづいて正宗白鳥・岩野泡鳴・徳田秋声らの作品や,島村抱月らの評論が現れ,明治末期に全盛を誇ったが,自我の追求をめざしながら社会的視野を失い,私小説への道を開いた。

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世界大百科事典(旧版)内の自然主義の言及

【写実主義】より

…しかし,ロマン主義に代わって写実主義こそが時代の文学的潮流となったことを決定的に印象づけたのは,フローベールの小説《ボバリー夫人》(1857)である。フローベール自身は写実主義派の文学理論や実作に強い嫌悪の念を抱いていたにもかかわらず,《ボバリー夫人》以下の諸作によって,この作家は写実主義文学の真の巨匠とみなされるに至り,後の自然主義の作家たちからも先駆者と仰がれることになった。同じ時期,ゴンクール兄弟は,事実の記録と文献資料によって小説の客観性をつらぬきながら,きわめて技巧的な文体を駆使して,多くは病理学的な異常性を持った人間像を描きだし,独特の写実主義小説を作りだした。…

【日本文学】より

…その例外を除けば,構造的な作品は,外国文学の〈モデル〉に忠実な作品であり,たとえば儒者の〈文〉や,森鷗外,夏目漱石,芥川竜之介の小説である。いわゆる〈自然主義〉の小説家たちは,みずからゾラやモーパッサンの範に従うつもりでいたが,フランス人の作品のうちに,小説の全体の構成だけは,けっして読みとらなかった。それを読みとるためには,単なる技法上の問題を超えて,それぞれの国語の構造と世界解釈の基本的な態度のちがいを,見破らなければならなかったろう。…

【歴史学派】より

…一言でいうとロマン主義の反理性主義は時間,空間における個性の重視,その意味での反普遍主義として現れ,初期ロマン主義者のJ.メーザーはロマン主義のこの傾向を典型的に示している。 ところでロマン主義は反理性主義の立場とともに,反自然主義,反自然法の立場をとり,主として後者を通して歴史的方法としての歴史主義に結びつく。自然主義もやはり一種の普遍主義であるが,しかしここにいう〈普遍〉性は理性主義のそれとは多少異なっている。…

【歴史主義】より

…歴史主義という語は非常に多義的に用いられ,一定の定義を与えることは困難であるが,共通している点は,人間生活のあらゆる現象はすべて個別具体的な歴史的時空において発生し継続し消滅するものであるから,物理的時間・空間概念とは別の歴史的流れのなかにおいてその生成と発展とをとらえなければならない,という主張である。 自然的宇宙はすべて一様であって画一的な法則によって支配されているものであるから,自然の一部である人間や社会もこのような見地から説明されなければならないという考え方に立った〈自然主義naturalism〉に対して,人間と文化と社会とは能動的で主体的なものであるから単なる自然現象とはみなすことはできず,具体的な歴史的場面と関連させて人間的出来事の価値と意味を解明しなければならないとする〈歴史主義〉は遠く古代ギリシアの時代からあったが,今日において歴史主義と呼ばれている考えと立場は19世紀に生まれた。フランス革命を準備した啓蒙的合理主義思想は,自然も人間も社会も合理的なものであって道理に合わぬものはあってはならず,不合理な旧体制を破壊して合理的につくり変えることができる体制を生みだすべきであると説いた。…

※「自然主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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