日本大百科全書(ニッポニカ) 「福原越後」の意味・わかりやすい解説
福原越後
ふくはらえちご
(1815―1864)
江戸後期の長州藩の永代家老。支藩徳山藩主毛利広鎮(もうりひろしげ)(就寿(たかひさ))の六男で、名は元(もとたけ)。宇部(うべ)を采邑(さいゆう)とする宗(そう)藩家老福原親俊(ちかとし)の跡を継ぐ(一万一千三百余石)。嘉永(かえい)年間(1848~54)以降、藩の要路にあり、毛利敬親(たかちか)(慶親(よしちか))を助けて尊攘(そんじょう)に尽くし、また宇部領内の領政改革を行い、重厚温雅にして文学詩歌をよくした。文久(ぶんきゅう)3年(1863)八月十八日の政変が起こると、翌64年(元治1)藩主の雪冤(せつえん)を陳情するため率兵上京、蛤御門(はまぐりごもん)付近で幕府軍と戦って敗れ(禁門の変)、海路、宇部に帰った。第一次長州征伐にあたり、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)の両家老とともに禁門の変の責任を問われ、岩国竜護寺で自刃した。
[吉本一雄]