オーストリア史(読み)オーストリアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストリア史」の意味・わかりやすい解説

オーストリア史
オーストリアし

976年神聖ローマ皇帝オットー2世によるバイエルン侯領の辺境領設置に始り,ドイツ人の東方植民の中心地として,交通,商業の要地として発展し,すでに 12世紀には南東ドイツ経済の重要地帯を形成した。バーベンベルク家支配ののち,1278年ハプスブルク家の支配するところとなり,同家の家領拡大政策は一貫して続けられ,14世紀スイスの独立はあったが,16世紀までにネーデルラント,ブルグンド東部,チロルハンガリーボヘミアを領有するにいたった。特にボヘミア,ハンガリーは民族的にも,政治・経済的にも諸種の矛盾をはらんでおり,東欧支配の基礎確立のために 17世紀なかばまでの長年月を必要とした。ハプスブルク家は,15世紀前半以来,事実上ドイツ皇帝 (神聖ローマ皇帝) 位を世襲したが,18世紀後半には,マリア・テレジアによる絶対主義的近代国家育成への方向を含みつつ,プロシアとの間にドイツにおける覇権を争うまでに発展するとともに,ヨーロッパ列強の一つとして複雑な国際関係に巻込まれるにいたった。ナポレオン1世失脚ウィーン会議を経て,宰相メッテルニヒのもと,内外の自由主義,民族主義の抑圧に努めたが,1848年三月革命でメッテルニヒは失脚,これに乗じて領内民族運動が激化し,一応鎮圧されたものの国家体制の非近代性と諸矛盾はおおうべくもなかった。 66年プロシア=オーストリア戦争の結果ドイツから締出され,67年にはマジャール人と妥協してハンガリー王国の建設を許し,オーストリア=ハンガリー帝国に改変した。 87年には立憲主義を採用したが,スラブ民族問題は依然最大の悩みとして残された。ドイツ統一後,ロシアの汎スラブ主義的進出に対抗してドイツに接近し,三国同盟一員としてバルカンへの進出をはかり,この地での民族問題の紛糾は第1次世界大戦の発火点となった。 1918年の敗戦により,ハプスブルク家は崩壊し,ハンガリー,チェコスロバキアがそれぞれ独立,ポーランドルーマニアユーゴスラビアにも土地を割譲し,戦前の4分の1の小共和国となった。 38年3月ナチス・ドイツに併合され,その一環として第2次世界大戦に参加したが,45年4月ウィーンをソ連軍に占領され,5月ドイツとともに無条件降伏した。戦後アメリカ,ソ連,イギリスフランスに分割占領されたのち,55年5月主権を回復,永世中立国となったが,95年1月ヨーロッパ連合 EUに加盟した。

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