ウィーン会議(読み)ウィーンカイギ

デジタル大辞泉 「ウィーン会議」の意味・読み・例文・類語

ウィーン‐かいぎ〔‐クワイギ〕【ウィーン会議】

1814年から15年にかけてウィーンで開かれた国際会議フランス革命ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序の回復を図ったもので、ウィーン議定書が調印され、革命前の状態への復帰をめざす正統主義と、大国の勢力均衡とを二大原則とするウィーン体制が成立した。この会議は諸国の利害が対立して遅滞し、「会議は踊る、されど会議は進まず」と風刺された。

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精選版 日本国語大辞典 「ウィーン会議」の意味・読み・例文・類語

ウィーン‐かいぎ‥クヮイギ【ウィーン会議】

  1. 一八一四~一五年、ナポレオン戦争後の国際関係の処理のためウィーンで開かれた会議。各国の利害が対立し、「会議は踊る、されど会議は進まず」と評された。

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改訂新版 世界大百科事典 「ウィーン会議」の意味・わかりやすい解説

ウィーン会議 (ウィーンかいぎ)

ナポレオン戦争後,ヨーロッパの政治的再編のためウィーンで開かれた列国会議。会議は1814年9月18日の予備会談から翌15年6月9日の最終議定書の締結まで続いたが,その間全体会議は一度として開かれず,もっぱら大国代表からなる委員会で具体的な詰めが行われ,映画《会議は踊る》の題名に象徴されているように,それは権謀術策を旨とする舞台裏の饗宴外交であった。会議には200人以上の国家の代表が参加し,オーストリア外相メッテルニヒが議長となった。またロシアからは皇帝アレクサンドル1世がみずから出席し,そのほかイギリス外相カースルレープロイセン首相ハルデンベルク,フランス代表タレーランが議場の主役を務めた。当初,イギリス,オーストリア,プロイセン,ロシアの四大国は自分たちだけでヨーロッパの領土的再編を取り決め,同じくパリ講和(パリ条約)に参加したスペイン,ポルトガルスウェーデンの3国には事後承諾させればよいと考えた。しかしタレーランは,それら3国の不満,また四大国の内部矛盾を巧みに利用し,結局フランスを対等の構成員とした五大国委員会(1815年1月7日~2月13日)で領土再編の具体案をつくらせることに成功した。さらに諸国の協調を生み出す外的要因としてナポレオンのエルバ島脱出があった。

 領土再編問題の焦点はロシアの旧ポーランド領併合要求と,プロイセンの全ザクセン併合要求であった。しかしイギリス,オーストリア,フランスは秘密同盟をつくってそれに反対し,一時戦争の危機すら生じたが,結局ロシアが譲歩し,ワルシャワ大公国を同君連合の王国として支配下に収めることで満足したため,危機は回避された。プロイセンはザクセンの北半分だけで満足した代りにラインラント,ウェストファーレンなどを獲得した。ザクセンを除く他のドイツ諸国もそれぞれ領土を拡大し,オランダとベルギーは合体してネーデルラント王国をつくり,さらにオーストリアもベルギーを失った代りに,チロル,ザルツブルク,ケルンテンなどを得たほか,ロンバルディア・ベネチア,トスカナ,モデナを支配下に収めた。スイスは三つの州を得たほか,永世中立の保障を受けた。さらに1806年に廃された神聖ローマ帝国に代わって新たにドイツ連邦が成立した。そのほか奴隷売買の追放が宣言され,国際河川の自由航行が承認され,外交使節の位階上の4区分が確認された。

 ウィーン会議はヨーロッパにおける大国間の勢力均衡を生むことに一応成功した。しかしその歴史的性格は復古的であった。それはフランス革命とナポレオン支配によって生み出された変化を元にもどし,正統主義の名のもとに王制原理を再建することを眼目としたから,そこで成立したドイツ連邦にしても,ドイツを統一して近代的な民族国家を創出するという方向には作動せず,むしろ分立的な領邦的絶対主義体制を固めた。したがってこの会議によって生み出されたウィーン体制も自由主義や民主主義に対抗する保守主義に貫かれていたといえる。
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百科事典マイペディア 「ウィーン会議」の意味・わかりやすい解説

ウィーン会議【ウィーンかいぎ】

ナポレオン戦争後のヨーロッパ政治の再編のため1814年―1815年ウィーンで開かれたヨーロッパ諸国会議。フランス代表タレーランが主張する正統主義の立場から革命前の状態の復活を目ざしたが,会議を指導した英,露(アレクサンドル1世),オーストリア(メッテルニヒ),プロイセンの4大国の利害が対立して会議は難航した。ナポレオンのエルバ島脱出・帝位復帰事件(百日天下)を機に妥協が成立,1815年6月9日最終議定書(ウィーン条約)調印。1.フランス・スペイン・ナポリ・サルデーニャ・教皇領では旧王家が復位,2.ロシアはポーランドを,プロイセンはザクセン北半分とライン地方を,オーストリアはチロル,ザルツブルク,ベネチア,ロンバルディア,トスカナなどを,英国はケープ植民地セイロン島など海外植民地を,オランダはベルギーを獲得,3.スイスは永世中立を保障され,4.ドイツ諸国はドイツ連邦を結成した。→ウィーン体制
→関連項目アレクサンドル[1世]ウェストファーレンオーストリアカースルレーカポディストリアスザクセン神聖同盟スイスパリ条約フリードリヒ・ウィルヘルム[3世]メッテルニヒルクセンブルク(国)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウィーン会議」の解説

ウィーン会議(ウィーンかいぎ)
Wiener Kongreß

フランス革命およびナポレオンの大陸支配によって乱されたヨーロッパの秩序回復のため,1814年9月から15年6月まで,ウィーンで開催されたヨーロッパ諸国の国際会議。ロシア,オーストリア,プロイセン,イギリスの4大国が事実上の決定権を持って会議を指導したが,領土配分をめぐって諸国の利害が対立,「会議は踊る,されど進まず」と評された。15年3月ナポレオンのエルバ島脱出,帝位復帰事件を機に諸国は妥協に傾き,同年6月9日会議議定書121条が調印された。革命前の支配関係を正統と認める正統主義と,一国が突出しないようヨーロッパ諸国の勢力均衡を図ることとを二大原則としたこの議定内容は,大略次のとおり。(1)オーストリアはヴェネツィアロンバルディアなどを獲得,(2)プロイセンはラインおよびザクセン地方に領土を拡大,(3)ロシアはポーランドを獲得,(4)イギリスはセイロン島やケープ植民地を獲得,(5)オランダはベルギーを合併,(6)スイスは永世中立国となる,(7)ドイツ諸邦はドイツ連邦を結成,(8)イタリアではナポリブルボン家が復活,教皇領も復旧,(9)フランスとスペインでブルボン家が復位。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ウィーン会議」の解説

ウィーン会議
ウィーンかいぎ
Wiener Kongress

フランス革命・ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパの秩序を回復するために,1814年9月から翌年6月までウィーンで行われた国際会議
90王国・53公国の君主・主要政治家が集まったが,敗戦国フランスの外相タレーランが唱える正統主義と,オーストリア宰相メッテルニヒの保守主義とが支配的で,会議は紛糾した。しかし,ナポレオン1世のエルバ島脱出の報に各国は妥協してウィーン議定書を締結。議定書の内容は,イギリス外相カスルレーの提唱した勢力均衡論にもとづいて決められた。(1)ブルボン朝を復位し,フランスは1792年(ナポレオンの百日天下のあとは1790年)の国境に復す,(2)ロシアはフィンランドを併合し,ポーランドの大半を得てポーランド王国をつくり,その王位を兼ねる,(3)プロイセンはザクセンの北半分,ライン川左岸の地を獲得,(4)オーストリア領ネーデルラントはオランダが併合し,ネーデルラント王国を形成。その代償にオーストリアはロンバルディア・ヴェネツィアを獲得,(5)イギリスはマルタ島のほかオランダ領のセイロン島(現スリランカ)・ケープ植民地を獲得,(6)スイスは永世中立国となる,(7)ドイツは35君主国・4自由都市によりドイツ連邦を組織する,(8)スウェーデンはノルウェーをあわせ,ポンメルンをプロイセンに譲る,などである。

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世界大百科事典(旧版)内のウィーン会議の言及

【外交関係に関するウィーン条約】より

…1961年4月18日ウィーン会議で採択され,64年4月24日発効した外交関係に関する基本的な多数国間条約。日本については64年7月8日に発効(1983年2月1日現在,主要国を含む135ヵ国が加入)。…

【安全保障】より


[安全保障の歴史]
 国家安全保障という概念の起源は,主権国家nation stateの形成とその軌を一にすると思われるが,それが国家間の認識のもとに出現するのは,ヨーロッパ最初の国際会議の結果成立したウェストファリア条約(1648)によってであるといわれている。すなわち,この条約によって宗教問題,領土問題に決着をつけ,ウィーン会議(1814‐15)に至る間のヨーロッパの国家関係を律する基本線が確立されたのである。ウィーン会議の結果,勢力均衡の原則,正統主義の原則,便宜主義の三つの主義原則がたてられ,ヨーロッパ各国の自国利益の主張と妥協のもとに国際政治の体制ができた。…

※「ウィーン会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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