オーストリアの政治家。3月15日ライン地方の貴族の家柄に生まれる。ストラスブールとマインツで法学、政治学および歴史学を学ぶ。1795年オーストリア元宰相カウニッツの孫娘と結婚。1806~1809年オーストリアの駐仏大使、1809年外相に任命され、皇女マリ・ルイーズとナポレオン1世の結婚を勧めるなど巧みな外交でフランスとの友好を保ちつつ、オーストリアの勢力の温存を図った。1813年対仏連合国側に加わり、ナポレオンを屈服させ、1814~1815年のウィーン会議では議長として、正統主義と勢力均衡の原則に基づくヨーロッパ政治秩序の再建に努力し、1820~1822年には、いわゆる「会議外交」を展開してイタリアやスペインの革命運動の武力弾圧を行った。ドイツ連邦内でも、カールスバートの決議などで「自由と統一」のための運動を抑圧し、ウィーン反動体制の指導者とみられた。1821年オーストリア宰相に就任し、30年近くその座を占めたが、政敵コロブラートKolowrat(1778―1861)のため内政上の権限を奪われ、活動はもっぱら外交の領域に限られた。1848年の三月革命の勃発(ぼっぱつ)と政界の内紛のために失脚し、オランダ経由でイギリスに亡命、1851年帰国したが、すでに政治的生命は終わっていた。1859年6月11日老衰のため死去。思想的には保守的で君主主義を擁護したが、フランス革命に伴うヨーロッパの激変を冷静に既成事実として受け止める現実的政治家の側面もあわせ備えていた。
[末川 清]
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オーストリアの政治家。コブレンツで貴族の家柄に生まれ,シュトラスブルクとマインツで法学,政治学と歴史を学び,1795年オーストリアの前宰相カウニッツの孫娘と結婚。オーストリアの駐仏大使(1806-09)を経て,1809年外相に任命され,皇女マリー・ルイーズをナポレオンの皇后とするなどの巧妙な外交でフランスとの友好を保ちつつ,オーストリアの勢力温存を図るが,ついに13年対仏連合国側に加わり,ナポレオンを屈服させた。14-15年のウィーン会議を主宰し,正統主義と勢力均衡の原則でヨーロッパ政治秩序の再建を期し,20-22年には四国同盟(のち五国同盟)を利用してイタリアやスペインの革命運動の軍事的抑圧を行った。ドイツ連邦内でもカールスバート決議などで〈自由と統一〉のための運動を弾圧し,警察と検閲を強化,反動的ないわゆるウィーン体制の指導者と見られた。21年オーストリア宰相に就任し,30年近くその座を占めたが,内政上の影響力は低下,48年,三月革命勃発と政界の内紛のため失脚しイギリスへ亡命,革命挫折後,51年に帰国した。思想的には保守的で君主主義を擁護したが,フランス革命に伴うヨーロッパの変化を冷静に追認する現実主義的政治家の側面も備えていた。
執筆者:末川 清
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1773~1859
オーストリアの政治家。フランス駐在大使をへて外相(在任1809~48),さらに宰相(在任1821~48)として手腕をふるい,ウィーン会議およびそれ以後のオーストリアの政治とヨーロッパ国際関係を指導した。ウィーン会議で回復したヨーロッパ諸大国間の勢力のバランスを保つことを通じて現行秩序を守り,ひいては平和状態を維持しようとするのが彼の政治の眼目であるが,それは必然的に現行秩序を打破しようとする自由主義やナショナリズムの運動と対立することになる。カールスバートの決議などで自由主義運動を弾圧した彼は,逆に運動の標的となり,48年三月革命で失脚,イギリスに亡命した。
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…会議は1814年9月18日の予備会談から翌15年6月9日の最終議定書の締結まで続いたが,その間全体会議は一度として開かれず,もっぱら大国代表からなる委員会で具体的な詰めが行われ,映画《会議は踊る》の題名に象徴されているように,それは権謀術策を旨とする舞台裏の饗宴外交であった。会議には200人以上の国家の代表が参加し,オーストリア外相メッテルニヒが議長となった。またロシアからは皇帝アレクサンドル1世がみずから出席し,そのほかイギリス外相カースルレー,プロイセン首相ハルデンベルク,フランス代表タレーランが議場の主役を務めた。…
…1809年オーストリア軍はナポレオン軍にワグラムWagramの戦で敗北し,シェーンブルン宮殿でナポレオンと講和を結んだ。新しい外相メッテルニヒはナポレオンに近づき,皇女マリー・ルイーゼMarie Louise(1791‐1847)をナポレオンの妃とした。チロルではアンドレアス・ホーファーAndreas Hofer(1767‐1810)に率いられた人民蜂起が生じるが,これも敗北した。…
…ナッサウ,バーデン,ビュルテンベルクなどでは封建的賦課の廃止を求める農民の蜂起が起こり,シュレジエンやバイエルンなどにも広まっていった。3月13日ウィーンでは学生のデモに市民・労働者が参加し,軍隊との衝突へと発展し,市外の〈プロレタリアート〉の工場襲撃なども加わってメッテルニヒ体制を打ち倒した。集会やデモの続いていたベルリンでは3月18日に事態は市民・労働者と軍隊の全面的衝突に発展し,全市にバリケードを築いて闘った市民・労働者がプロイセン史上初めて常備軍を打ち破った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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