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メッテルニヒ Metternich, Klemens Wenzel Nepomuk Lothar, Fürst von

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

メッテルニヒ
Metternich, Klemens Wenzel Nepomuk Lothar, Fürst von

[生]1773.5.15. コブレンツ
[没]1859.6.11. ウィーン
オーストリアの政治家,外交官。外交官の子として生れ,シュトラスブルク,マインツの大学で外交と法律を学んだ。マインツでフランス革命軍を目撃,亡命貴族たちとの対話を通して,その生涯の反動思想をはぐくんだ。 1795年前宰相 W.カウニッツの娘と結婚,高位の官職につく資格を得,98年ウェストファリア代表としてラシュタット会議に出席。 1801年ザクセン駐在公使,03~05年ベルリン駐在公使,06年パリ駐在大使を経て,09年 10月外相となり,対フランス戦に敗れたオーストリアの再建をはかるとともに,老練な外交手腕と権謀術策を用いて 13年に始るナポレオン1世に対するヨーロッパの解放戦争を勝利に導いた。 14~15年ウィーン会議を主宰し,15年神聖同盟四国同盟などを成立させ,列強の力の均衡に基づく平和維持に主眼をおき,ロシアとプロシアの勢力拡大を巧妙に押えて,いわゆるウィーン体制を築き上げ,エクスラシャペル (1818) ,ライバハ (21) ,ベロナ (22) などの列強会議において,彼の国際的名声は絶頂に達した。 21年宰相に就任。しかしイギリスが他国の革命に対する干渉政策を放棄したとき,西ヨーロッパに対する彼の影響力も衰えはじめた。 26年以降急速に崩壊の一途をたどる多民族国家オーストリアの現状維持のため,ドイツ内外の自由主義・国民主義運動の抑圧に努めたが,ラテンアメリカ諸国の独立やギリシア独立運動への干渉に失敗,抑圧と反動のシンボルとして民衆の憎悪の的となり,48年の三月革命の結果失脚してイギリスに亡命,51年帰国。政界への復帰はならなかった。

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デジタル大辞泉の解説

メッテルニヒ(Klemens Wenzel Nepomuk Lothar von Metternich)

[1773~1859]オーストリアの政治家。1809年以来外相・首相として約40年間国政を指導。ウィーン会議を主導して、保守主義正統主義によるフランス革命以前の体制への復帰を主張。その後1848年の革命まで、国際的な反動体制「ウィーン体制」の中心的役割を果たした。

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百科事典マイペディアの解説

メッテルニヒ

オーストリアの政治家。1809年外相,1821年首相。1814年―1815年ウィーン会議を主宰してヨーロッパの政治の主導権を握り,以後30年間保守反動勢力の指導者として神聖同盟四国同盟をあやつり,諸国の自由主義・民族主義運動を弾圧。
→関連項目ウィーン体制カースルレーフランツ[2世]ブルシェンシャフトリストロレンス

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世界大百科事典 第2版の解説

メッテルニヒ【Klemens Wenzel Nepomuk Lothar Fürst von Metternich】

1773‐1859
オーストリアの政治家。コブレンツで貴族の家柄に生まれ,シュトラスブルクマインツで法学,政治学と歴史を学び,1795年オーストリアの前宰相カウニッツの孫娘と結婚。オーストリアの駐仏大使(1806‐09)を経て,1809年外相に任命され,皇女マリー・ルイーズをナポレオンの皇后とするなどの巧妙な外交でフランスとの友好を保ちつつ,オーストリアの勢力温存を図るが,ついに13年対仏連合国側に加わり,ナポレオンを屈服させた。

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大辞林 第三版の解説

メッテルニヒ【Klemens Wenzel Nepomuk Lothar, Fürstvon Metternich】

1773~1859) オーストリアの政治家。1809年から外相・宰相を務め国政を指導。議長としてウィーン会議を主導しウィーン体制を実現。神聖同盟・四国同盟を利用し自由主義運動を弾圧。48年、三月革命により失脚。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

メッテルニヒ
めってるにひ
Klemens Wenzel Lothar, Frst von Metternich
(1773―1859)

オーストリアの政治家。3月15日ライン地方の貴族の家柄に生まれる。ストラスブールとマインツで法学、政治学および歴史学を学ぶ。1795年オーストリア元宰相カウニッツの孫娘と結婚。1806~1809年オーストリアの駐仏大使、1809年外相に任命され、皇女マリ・ルイーズとナポレオン1世の結婚を勧めるなど巧みな外交でフランスとの友好を保ちつつ、オーストリアの勢力の温存を図った。1813年対仏連合国側に加わり、ナポレオンを屈服させ、1814~1815年のウィーン会議では議長として、正統主義と勢力均衡の原則に基づくヨーロッパ政治秩序の再建に努力し、1820~1822年には、いわゆる「会議外交」を展開してイタリアやスペインの革命運動の武力弾圧を行った。ドイツ連邦内でも、カールスバートの決議などで「自由と統一」のための運動を抑圧し、ウィーン反動体制の指導者とみられた。1821年オーストリア宰相に就任し、30年近くその座を占めたが、政敵コロブラートKolowrat(1778―1861)のため内政上の権限を奪われ、活動はもっぱら外交の領域に限られた。1848年の三月革命の勃発(ぼっぱつ)と政界の内紛のために失脚し、オランダ経由でイギリスに亡命、1851年帰国したが、すでに政治的生命は終わっていた。1859年6月11日老衰のため死去。思想的には保守的で君主主義を擁護したが、フランス革命に伴うヨーロッパの激変を冷静に既成事実として受け止める現実的政治家の側面もあわせ備えていた。[末川 清]

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世界大百科事典内のメッテルニヒの言及

【ウィーン会議】より

…会議は1814年9月18日の予備会談から翌15年6月9日の最終議定書の締結まで続いたが,その間全体会議は一度として開かれず,もっぱら大国代表からなる委員会で具体的な詰めが行われ,映画《会議は踊る》の題名に象徴されているように,それは権謀術策を旨とする舞台裏の饗宴外交であった。会議には200人以上の国家の代表が参加し,オーストリア外相メッテルニヒが議長となった。またロシアからは皇帝アレクサンドル1世がみずから出席し,そのほかイギリス外相カースルレー,プロイセン首相ハルデンベルク,フランス代表タレーランが議場の主役を務めた。…

【オーストリア】より

…1809年オーストリア軍はナポレオン軍にワグラムWagramの戦で敗北し,シェーンブルン宮殿でナポレオンと講和を結んだ。新しい外相メッテルニヒはナポレオンに近づき,皇女マリー・ルイーゼMarie Louise(1791‐1847)をナポレオンの妃とした。チロルではアンドレアス・ホーファーAndreas Hofer(1767‐1810)に率いられた人民蜂起が生じるが,これも敗北した。…

【48年革命】より

…ナッサウ,バーデン,ビュルテンベルクなどでは封建的賦課の廃止を求める農民の蜂起が起こり,シュレジエンやバイエルンなどにも広まっていった。3月13日ウィーンでは学生のデモに市民・労働者が参加し,軍隊との衝突へと発展し,市外の〈プロレタリアート〉の工場襲撃なども加わってメッテルニヒ体制を打ち倒した。集会やデモの続いていたベルリンでは3月18日に事態は市民・労働者と軍隊の全面的衝突に発展し,全市にバリケードを築いて闘った市民・労働者がプロイセン史上初めて常備軍を打ち破った。…

※「メッテルニヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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