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ハプスブルク家 ハプスブルクけ Habsburg

翻訳|Habsburg

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ハプスブルク家
ハプスブルクけ
Habsburg

神聖ローマ帝国,オーストリア帝国の皇帝家。 16世紀以降はハンガリー王位,ベーメン (ボヘミア) 王位をも兼ね,1516~1700年にはスペイン王家をも占め,ヨーロッパ随一の由緒と威信を誇った。

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デジタル大辞泉の解説

ハプスブルク‐け【ハプスブルク家】

Habsburg神聖ローマ帝国およびオーストリアの王家。10世紀なかば南ドイツに興り、13世紀以降しばしばドイツ国王に選ばれ、1438年から1806年まで神聖ローマ皇帝、また1918年までオーストリア皇帝を占め、その間1516年から1700年までスペイン王、1867年以降はハンガリー国王を兼ねた。ハプスブルグ家。

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世界大百科事典 第2版の解説

ハプスブルクけ【ハプスブルク家 Haus Habsburg】

中世以来ヨーロッパで最も重要な由緒ある名門の王家(図)。
[オーストリア支配と世界帝国
 スイスとエルザス(アルザス)に所領をもつ豊かな貴族として,1020年にはスイス北部にハプスブルク城を築き,伯の称号をもっていた。大空位時代の混乱の後,始祖ルドルフ1世は,1273年ドイツ国王に選ばれ,競争者ボヘミア王オタカル2世からオーストリア,シュタイアーマルクを没収し,82年息子たちに授封し,初めて東方に家領を確保した。

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大辞林 第三版の解説

ハプスブルクけ【ハプスブルク家】

オーストリアなど中部ヨーロッパを中心に勢力をもった名門王家。1273年ルドルフ一世が同家より初めて神聖ローマ皇帝に即位。1438年から帝位をほぼ独占、カール五世がスペイン王を兼ねた一六世紀前半に最盛期となる。1556年スペイン系とオーストリア系に分裂し、スペイン系は1700年断絶。オーストリア系はマリア=テレジアの時にハプスブルク-ロートリンゲン家と改称、1806年神聖ローマ帝国皇帝を退位しオーストリア皇帝を称したが、1918年カール一世が退位して帝位を失った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ハプスブルク家
はぷすぶるくけ
Habsburger

オーストリアの旧帝室で、中世以来ヨーロッパ随一の名家。スイス北部出自の貴族の家系で、家名は山城ハプスブルクHabsburg(鷹(たか)の城の意)に由来する。[進藤牧郎]

世界帝国の実現まで

1273年ルドルフ1世(在位1273~91)がドイツ国王に選ばれると、家領としてオーストリア公領を没収した。14世紀スイスの独立戦争に敗れたが、東方では家領をさらに広げ、ルドルフ4世(建設公、1339―65)は大特許状を偽造して大公と称した。1452年、フリードリヒ3世(在位1452~93)が神聖ローマ皇帝となり、以後ハプスブルク家は皇帝位を事実上独占するに至った。その後巧みな婚姻政策により、マクシミリアン1世(在位1493~1519)は、スペイン、ブルグントを併合し、孫カール5世(在位1519~56。スペイン王としてはカルロス1世、在位1516~56)の下で、ハプスブルク世界帝国が実現する。1522年、カール5世は相続に関するブリュッセル協約により、弟フェルディナント1世(在位1556~64)にドイツの家領と皇帝位継承権を譲り、1526年ボヘミア、ハンガリーを加えたが、ドイツでは宗教改革とその後の争乱のなかで、意に反しての1555年のアウクスブルクの和議ののち、翌年自ら退位した。[進藤牧郎]

スペイン・オーストリア両系の推移

カール5世の長子フェリペ2世(在位1556~98)は、反宗教改革を推進、全スペイン王国は最盛期を迎えたが、フランス、イギリスに加えてオランダとも敵対し、衰退に向かう。ドイツでも宗教争乱と相続争いが続き、フェルディナント2世(在位1619~37)の下で三十年戦争となり、国土は荒廃したが、家領ではレオポルト1世(在位1658~1705)が全ハンガリーを確保して、ウィーンはドナウ帝国の中心となり、バロック文化を開花させた。一方、スペイン系はカルロス2世(在位1665~1700)で断絶し、スペイン継承戦争の結果1713年のユトレヒト条約によって王位はブルボン家に移った。[進藤牧郎]

啓蒙主義時代

オーストリア系のカール6世(在位1711~40)は、1713年プラグマティッシェ・ザンクツィオン(国事詔書)を定め、全家領の不分割と一括相続実現のため努力したが、長女マリア・テレジア(在位1740~80)はオーストリア継承戦争、七年戦争に直面してシュレージエンを失う。一時バイエルンから皇帝カール7世が選出されていたが、その死を機に1745年ドレスデンの和約で帝位を回復し、夫フランツ1世(在位1745~65)、長子ヨーゼフ2世(在位1765~90)との共同統治の下で啓蒙(けいもう)的な国内改革を進め、宮廷でも市民的な家庭を築き、国母として敬慕された。ヨーゼフ2世は寛容令、農奴解放令などの急進的改革を行ったが、フランス革命の勃発(ぼっぱつ)後、国際的反動化のなかで啓蒙君主レオポルト2世(在位1790~92)は国内の反動化の動きを防ぎきれなかった。[進藤牧郎]

オーストリア帝国

ナポレオン戦争により、1806年神聖ローマ帝国は解体し、最後の皇帝フランツ2世(在位1792~1806)は1804年オーストリア皇帝フランツ1世(在位1804~35)を称し、メッテルニヒ体制の頂点にたった。1848年の三月革命に直面し、同年12月フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848~1916)がたち、反革命を勝利に導いたが、ブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高揚により、反動的な中央集権化と啓蒙主義的な諸民族の連邦化の間を動揺する。彼は、1859年イタリア戦争、66年プロイセン・オーストリア戦争に敗れ、67年アウスグライヒAusgleich(妥協)でオーストリア・ハンガリー帝国を成立させたが、スラブ系諸民族の不満が高まり、1879年ドイツ・オーストリア同盟を締結してバルカン問題の泥沼にはまり込む。老帝には家庭的悲劇も続き、1914年甥(おい)で皇嗣(こうし)のフランツ・フェルディナント夫妻が暗殺され(サライエボ事件)、第一次世界大戦のなかで王家の前途を憂えながら生涯を閉じた。最後のオーストリア皇帝カール1世(在位1916~18)の工作にもかかわらず、敗戦による帝国の崩壊でハプスブルク王家の歴史も幕を閉じた。[進藤牧郎]

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世界大百科事典内のハプスブルク家の言及

【イタリア戦争】より

…15世紀末から16世紀半ばにかけて,政治的統一を欠くイタリアの支配権をめぐり,フランス王家とハプスブルク家との対立を軸として展開された大規模な国際紛争。発端は,ナポリ王国の継承権を主張するフランス国王シャルル8世のイタリア侵入(1494)である。…

【ウィーン】より

…しかしバーベンベルク家の滅亡(1246)とともに市は帝国都市としての立場を失った。
[ハプスブルク家の支配]
 ボヘミア国王オタカル2世の支配を経て,78年ハプスブルク家のルドルフ1世が新たな勝利者としてウィーンへ入った。ここに,以後6世紀半にわたるハプスブルク支配の礎石がおかれる。…

【ウィーン美術史美術館】より

…マリア・テレジア広場に面して建つネオ・ルネサンス様式の建物で,ゼンパー,ハーゼナウアKarl Hasenauer(1833‐94)が設計し,1872‐81年に建設。コレクションは皇帝ルドルフ2世やレオポルド・ウィルヘルム大公など,歴代のハプスブルク家の熱心な美術愛好家によって収集された。50に近い展示室のうち,《農民の結婚式》などのある〈ブリューゲルの間〉はもっとも有名。…

【オーストリア】より

…880年にはマジャール人が侵入するが,955年オットー1世がレヒフェルトの戦でマジャール人を打ち破るのである。
[ハプスブルク王制の確立]
 次にくる約1000年の時期,オーストリアを支配するのはバーベンベルクBabemberg家とハプスブルク家の二つの王朝である。バーベンベルク家は270年間,ハプスブルク家は640年間オーストリアを統治するのである。…

【オランダ】より

…10世紀以降とめどなく進行する封建化のうちから地方伯や豪族はしだいに自立化し,13世紀ごろにはホラント伯領(ゼーラントも支配),ヘルレGelre(ヘルデルラント)公領,ブラバント公領,ユトレヒト司教領が形成された。
[ブルゴーニュ家,ハプスブルク家の支配]
 15世紀前半,フランス王室の分家であるブルゴーニュ家のフィリップ(善良公)はホラント,ゼーラント,ブラバントなどを手に入れ,その子シャルル(突進公)もさらに北方に勢力を伸ばそうとしたが戦死し,ブルゴーニュ公領ネーデルラントはシャルルの女相続人マリアと結婚したオーストリアのハプスブルク大公マクシミリアン1世の領有に帰した。マクシミリアン1世の孫カール5世(1500‐58)はハプスブルク家領のオーストリアとあわせてネーデルラントを継承し,母方の縁でスペイン国王を兼ね,さらにネーデルラント諸州の支配権を次々に手に入れてネーデルラント全領域を支配した。…

【唇】より

…黒人の唇が厚くめくれているのは,皮膚の黒さが唇の視覚信号としての価値を低めるので,大きく突出することによって色のコントラストで失ったものを形と大きさでとりもどしていると彼は説明する。 ハプスブルク家には遺伝的に唇の異常があり,〈Austrian lip〉といわれた。すなわち,カール5世は下顎が上顎をはるかに越えて突出していたため,老いて残った歯がかみ合わず,聞きとりやすい声でしゃべれなかった。…

【チェコ】より

…12世紀末に出たプシェミスル・オタカル1世Přemysl Otakar I(在位1198‐1230)は初めて世襲の王号を獲得し(1198),1212年にはボヘミア王国の独立が正式に承認された。のちにボヘミア王国は実質的にオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入るが,王国としての形態は1918年まで保った。また隣接するモラビアは1182年にボヘミアより独立して帝国の辺境伯領となったが,実質的にはボヘミア王の支配する属領となり,チェコを構成する重要な地域となった。…

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