精選版 日本国語大辞典 「史可法」の意味・読み・例文・類語
し‐かほう ‥カハフ【史可法】
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、明(みん)末の忠臣。河南祥符(しょうふ)(開封(かいほう))の人。字(あざな)は憲之(けんし)。号は道鄰(どうりん)。諡(おくりな)は忠靖(ちゅうせい)、のち忠正と改められた。1628年進士。清(しん)の入関時、南京(ナンキン)兵部尚書。崇禎帝(すうていてい)の死後、南京では弘光帝(福王)が即位したが、馬士英(ばしえい)は史可法の国政担当を嫌い揚州に遠ざけた。史可法は江北の四強(劉沢清(りゅうたくせい)、高傑、劉良佐、黄得功(こうとくこう))を統率して清軍の南下を食い止めようとしたが、南京朝廷は兵糧を送らず、四強も互いに争い失敗に終わった。清の睿(えい)親王ドルゴンは史可法に書を送り降伏を勧めたが、史可法は弘光帝こそが正統な君主であると反論、45年5月揚州陥落時に捕らえられて殺された。『史忠正公集』がある。
[岡本さえ]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
?~1645
明末の官僚。河南省祥符(しょうふ)(開封)の人。明末に南京兵部尚書となったが,李自成(りじせい)が北京を陥れると南京で福王を立て,みずから揚州に駐した。翌年南下した清軍に捕えられて殺された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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