改訂新版 世界大百科事典 「ナンキン」の意味・わかりやすい解説
ナンキン (南京)
Nán jīng
中国,江蘇省の省都。簡称は寧(ねい)。〈南京(なんけい)〉とはもともと,北京(ほくけい),東京(とうけい)などと同じく,複数の都が置かれたときの相対的な位置を示すもので,歴史上では現在の南京市ばかりをいうのではない。たとえば唐は四川の成都を,契丹は遼寧の遼陽を,宋は河南の宋州を,南京と称した。今の南京市の名は明初に始まる。また金陵,江寧,白下などの別称も多い。日本での通称〈ナンキン〉は南方方言音が,長崎などを経由して入り広まったものである。
位置と形勢
安徽南部を南西より北東に流れてきた長江(揚子江)が,東へ転じて下流部三角州を形成しはじめる地点にあり,南東には長江下流域から東南海岸を,南西には長江中流域を扼(やく)し,また北に長江を渡れば淮河(わいが)流域を経て中原をうかがう,中国中南部における第一の要衝の位置にあるといえる。すなわち中国史において最も重要な地点の一つである。周囲の地勢をみれば,東から南を紫金山(鍾山)を頂とする丘陵に囲まれ,北と南を長江に面し,天然の要害をなす。三国時代,蜀の諸葛亮(孔明)はこれを〈鍾阜(紫金山)は竜盤し(竜がひそむよう),石城(石頭山)は虎踞す(虎がうずくまるよう)。真に帝王の宅なり〉(《六朝事迹》)と評した。
ほぼ近い位置にある揚州や鎮江が,長江下流域と連続した平野にあり,有利な交通位置によって経済的に繁栄した都市であるのに対し,南京は政治・軍事的な安定をはかる拠点としての機能が第一で,経済や文化の発達もそれに伴うものであった。江南では長江下流域の開発に応じ,揚州,鎮江のほかに,蘇州,上海,杭州,寧波(ニンポー)等,有力な都市が次々に誕生し,おのおのの時代に応じた役割をもって発展したが,南京は現在にいたるまで独特の性格をもち,それゆえに一貫して生命を保ってきた。
居住の進展
南京市内では多くの新石器時代遺跡が発見されているが,市街中の鼓楼の建つ岡にある北陰陽営遺跡,南郊の太崗寺遺跡,江寧県の昝廟(さんびよう)遺跡などが代表的なものである。これらの文化は長江下流域の馬家浜文化や淮北の青蓮崗文化と類似している点が多く,一つの文化圏を形成しているが,長江中流域の文化からの影響による地域的な特色ももっている。このころの集落遺跡は,沖積平野より一段高い丘陵地やその麓に立地しているが,長江下流域の進んだ農耕技術の伝わったことも加わって,しだいに平野に進出し,丘陵先端の台地や,長江沿岸の微高地に立地するようになっている。やがて北方から青銅器文化が伝わり,中原が殷・周時代に入ると,江寧県湖熟鎮遺跡に代表される湖熟文化が広まる。
秣陵より建業へ
この地方では局地的には居住がすすんでも,広い後背地をもたないため,春秋戦国時代においては,長江中下流域のようにまとまった国の形成はみられず,楚,呉,越などの抗争の舞台となった。呉を滅ぼし,さらに楚に向かおうとした越王句践は,この地に拠点を築いたという。越は逆に楚に滅ぼされ,この付近も楚の領域に入ったが,楚の威王のとき,この地に王気がみられるとして,これを鎮めるために金を埋め,今の清涼山付近に城を築いたことから,金陵と称したといわれる。これは秦淮河が長江に流入する地点をみおろす要害の地で,のちに孫権が石頭城を築く。
秦は金陵邑を秣陵県(ばつりようけん)とし,漢代に入ると周辺には丹陽,江乗,胡孰(こじゆく)などの諸県が設けられ丹陽郡に属した。後漢末,江南においても群小の軍閥の跳梁するところとなったが,長江下流の呉(蘇州)に勢力をもっていた孫権が有力となり,拠点を京口(鎮江),さらに秣陵に移し,212年(建安17)には石頭城を築き,秣陵も創業の意欲をあらわすため建業と改めた。その後都は武昌へ移され,そこで呉国が正式に成立したが,229年(黄竜1)には再び建業に遷都した。これは,より内陸へ向けて領域を拡大し,その基地としての武昌を都にしようとした孫権に対し,呉国を支える豪族はほとんどが長江下流域の出身者で,みずからの基盤を離れるのを拒んだためと,江南において全域を扼する安定した位置は建業以外に求めがたかったためであると考えられる。当時の童謡に〈武昌の魚を食べるくらいなら,建業の水を飲んだ方がまし。武昌に止まって住むくらいなら,建業に帰って死ぬ方がまし〉(《六朝事迹》)と歌われたほどであった。その後,六朝を通じても,ときどき別地への遷都がもちだされたが,結局実現したことはなく,東晋になって建鄴(けんぎよう),建康と名を変えたが,320年あまり南朝の都であり続けた。
都城の建設
呉は武昌の宮殿を解体して長江を下らせ,石頭城の東に太初宮を建てた。周囲には苑城を設け,皇族の居所や花園に当てられ,その他の施設も建てられていった。都城のプランの詳細は不明だが,宮城の正南門である宣陽門より,秦淮河畔の朱雀門まで大道が設けられ,両辺には官署が立ち並んでいた。秦淮河畔は一般庶民の居住区で,市が設けられ長江水運によって江南の商人が集まり,商業地区ともなっていた。また城内は,青渓,運瀆(うんとく)などという運河も掘られていた。石頭城は呉の水軍の基地であり,常時1000艘余の戦艦が待機していた。これらの兵力は単に戦闘ばかりでなく,船を利用して江南各地へ屯田開発に出かけた。都城付近でも農業開発はすすめられ,秦淮河流域では屯田によって水利が発達し,太湖地区と通じるようになった。のちに大運河としてまとめられるものも,このころから部分的に開削されていた。建業はこれらの開発事業の中心となり,東晋に入って北方からの大量の人口が流入すると,この傾向はいっそう強まった。東晋以後の都城は,呉の建業を基礎とし,それに一部洛陽の制度を取り入れたり,宮室をより広大なものにするなどの改修が加えられた。秦淮河畔の商業地区はますます繁栄し,紗市,穀市,塩市など業種別の市が立ち,南海からの珍品ももたらされていた。また絹織物,冶金鋳造などの同業者町である作坊が都城内に成立し,手工業も発展していた。
文化の都
晋の南渡とともに,北方の伝統文化を身につけた士大夫たちも建康へ移り,経済的繁栄を背景として,建康は六朝の文化芸術の中心となった。学術では天文学の虞喜(ぐき),何承天,数学の祖沖之(そちゆうし),医薬学の葛洪(かつこう),陶弘景などがあり,文学では謝霊運,顔延年,沈約(しんやく)などが新しい作風をつくり,《世説新語》《文選(もんぜん)》《文心雕竜(ぶんしんちようりよう)》など,中国の代表的文学が建康で生み出された。書家の王羲之・王献之も出身は違うがここを舞台に活躍した。また美術では顧愷之(こがいし),戴逵(たいき)などが瓦官寺(がかんじ)にすぐれた仏教美術を残した。
呉の孫権は秦淮河畔に建初寺という寺院を建て,サマルカンドの僧を住まわせていたが,東晋になると仏教の中国社会への浸透がすすみ,士大夫の中でも信仰するものが増えていた。やがて法顕(ほつけん)のように,インドまで仏典を求めて旅をする者も現れ,建康の道場寺は翻経の中心となった。梁の武帝は特にあつく仏教に帰依し,多くの寺院が建てられた。のち唐の杜牧(とぼく)が〈南朝四百八十寺(しひやくはつしんじ)〉(〈江南春〉)と詠んだのもけっして誇張ではなかった。それらのうち今も残る棲(栖)霞寺(せいかじ),霊谷寺(れいこくじ),鶏鳴寺などは有名な観光地となっている。仏寺以外の宮殿,第宅の建築も豪壮華美なもので,都城の内外に花園,遊苑が設けられ,周囲の自然とあいまって優雅な文化都市としての景観がつくりだされていた。
衰退と復興
このような経済・文化の繁栄も,政治の不安の前にしだいに衰えていった。梁末の侯景(こうけい)の乱によって大きく破壊された建康は,その後復興をみぬままに,陳が隋に滅ぼされるときに一転して荒土と化した。隋は石頭城に蔣州(のち丹陽郡)を置き,建康等の旧県を廃して江寧等の県を新設した。江南を愛した煬帝(ようだい)は,一時ここへの遷都も考えたが果たさなかった。唐代には,江寧,帰化,金陵,白下,上元,昇州などさまざまの名で呼ばれ,州を廃されて他に従属せしめられたこともあった。人口も減少し,往時の産業の隆盛もなかったが,寺院の修築は続けられていた。このころの金陵は,詩人や画家にとって旧跡を懐かしむかっこうの地であり,金陵の非情な歴史と自身の不遇を重ねた抒情詩がしばしばみられる。李白〈長干行〉,崔顥(さいこう)〈長干曲〉,杜牧〈江南春〉〈泊秦淮〉,李商隠〈南朝〉などが,金陵に思いを寄せた詩歌の代表であろう。
五代になると,楊行密の呉についで江南の一隅に拠った徐氏は,国号を唐(南唐)とし,都を揚州より金陵に移して再び都城を建設した。秦淮河を中心に現在の城内の南西部はこのときに築かれたもので,外形もほとんど変わっていない。南唐の都として金陵は復興期を迎え,活気をとりもどした。特に中主李璟(りけい),後主李煜(りいく)は文芸への理解も深く,六朝のときに似た文化的サロンが形成された。特に絵画では画院が設けられ,周文矩(しゆうぶんく),顧閎中(ここうちゆう),董源(とうげん),徐煕(じよき)などがそこで活躍した。《韓煕載夜宴図》《重屛会棋図》など,中国絵画史上の絶品も,この中から生み出された。宋代には仁宗が帝位に就く前に昇王として昇州(江寧府)長官を務めていたことから重視され,要人が赴任することが多かった。特に王安石は3度にわたって江寧府長官を務め,ここに死して葬られているため,半山園などゆかりの遺跡も多い。金に北方を占拠されると,宋朝は北方回復の意をこめて建康の名を復活させ北方攻略の基地としたが,金軍の南下に敗れ,ついで元の南下に陥落し,建康は集慶路と改められた。しかし産業の方は着実に復興し,北宋のときにも貨幣の鋳造や織物,染色などで全国有数の産地となっていたが,元代に官営の織染局が設けられると,匠戸6000戸を擁するという大生産都市となった。これらが明・清の産業発達の基盤をなしていく。
南京の成立
元末の反乱の中より江南を掌握した朱元璋(洪武帝)は,全国統一へ向けての拠点として集慶路を応天府と改めた。1368年(洪武1)全国を統一して明を建てたとき,暫定的に応天府を京師(天子の都)とし,より北方に国都を設けるべく当初は開封を北京(ほくけい)とし,応天を南京(なんけい)と呼んだ。南京の名はここに始まる。開封の北京はやがて廃され,南京が正式に京師となったが,永楽帝のとき,元代の大都(今の北京)に遷都し,こちらは再び南京となった。明の国都としてはわずか52年を経たのみであるが,朱元璋の陵墓(孝陵)や建国功臣の陵など,明初にゆかりの遺跡が多い。また都城は南唐の金陵城の東と北を大きく拡大し,東部に宮城である紫金城を設け,さらに紫金山にも及ぶ巨大な外廓を建設した。しかし当初の計画と異なり,京師は北へ移されたので,拡張された部分は市街地とならず,空地のままの所も多かった。しかし京師ではなくても,南京は特別な取扱いを受け,官営施設の充実は他都市の及ぶところではなかった。特に宋・元以来の基盤をもつ絹織物は,高級品の部門でとりわけ発達し,宮中,国事の用に使われた。これらの工房は城南の聚宝門(中華門)付近に集中していた。また南京には国子監が設けられていたが,そこでは書物が大量に印刷され(南監本),国内印刷業の中心となった。長江中流域より筏で流す木材を材料とする造船業も重要な産業の一つで,官船はここで造られた。鄭和が航海に用いた大型船もここで造られたという。このように官府の需要や官設施設を背景に,南京は江南屈指の産業都市となっていった。
文化の面でも歴史の浅い北京に比べて,江南の伝統を基盤にした南京は独立した地位を有し,南京国子監は第一の学校として,全国から,また外国からも学生を集め,官学の中心となった。さらにマテオ・リッチをはじめとする宣教師の受入れも,北京を離れた南京が行い,西洋科学との接触はこの地を舞台にした。天文台(観象台,欽天台)が初めて設置されたのも南京であった。
革命の都
清代になり,南京は明代のように副都扱いをされなくなり,南直隷は江南省に,応天府は江寧府に改められたが,基本的性格に変りはなかった。1840年(道光20),アヘン戦争に際してはイギリスの軍艦が南京城下にまで迫り,1842年長江沿岸の下関で条約が結ばれ(南京条約),南京も開港されることに決まった。同じころ華南に発生した太平天国の乱はしだいに北上し,1853年(咸豊3)南京は太平天国軍に占領されて天京と改められた。西洋の列強と国内の農民反乱という,清末の中国に衝撃を与えた二つの勢力がともに南京を目ざしたのであった。しかし前者は南京が両江総督の治所であるところから迫ったもので,本来の経済的目的からは南京より上海を重視したのに対し,後者は政治権力の掌握,清朝への打撃という点から,南京こそ最大の目標であった。やがて太平天国軍は曾国藩によって鎮圧されるが,次に清朝の行ったのは,金陵製造局をはじめとする近代的工業の導入であった。つねに外圧,あるいは官設のものによって変貌を余儀なくされるのが,南京の宿命であった。その意味では,1911年に辛亥革命が武昌蜂起によって成功したあと,12年元旦に孫文が中華民国大総統に就任して,南京を臨時首都としたのも,この流れに沿うものであるといえよう。まもなく10ヵ月後,袁世凱(えんせいがい)は北京に遷都してしまい,27年反共クーデタを断行した蔣介石は,国民政府を南京に置くが,また10年後,日本軍の進攻で南京は放棄されてしまうのである。
このように清末から近代にかけて,中国の経験したさまざまの革命はこの南京を通りすぎていった。そのたびに多くの血が流された。中華門外南にある雨花台は低平な小丘であるが,地層中に美しい瑪瑙(めのう)質の石を含む。六朝のとき僧侶の読経に感じた天が,雨のごとく花を降らしたといわれるが,ここは南京攻防の要地であり,古くから多くの戦いの場となってきた。太平天国軍の農民兵士,辛亥革命に立った市民,国民党に処刑された革命家,日本軍に虐殺された無名の人々,これらの人々の血によって赤くなったともいわれるが,孝陵,中山陵を擁して城東に美しくそびえる紫金山と見比べるとき,雨花台とその石は,巨大な政治の浪に翻弄されてきた南京とその住民を象徴しているようにみえる。
南京市
1927年,国民政府の所在地になるとともに南京は特別市となり,西洋的な都市計画を取り入れた。しかし,日本軍の攻撃で市街は破壊され,南京大虐殺で市民の人口も激減し,その後解放にいたるまで安定した都市開発は行われなかった。のち人口は362万(2000),面積は4718km2(うち市区は867km2),市区のほかに江寧,江浦,六合の3県を含む。省都としての中心機能のほか,ある部門では北京と並ぶ地位を有する。解放後は特に重工業の開発に力を注ぎ,58年から南京鋼鉄厰を建設している。南京市はまた水陸交通の接点をなし,下関の港と京滬(けいこ)鉄道(北京~上海),寧銅鉄道(南京~銅陵)とを結んでいる。また長江をまたぐ南京長江大橋は,新中国の建設を示すものとして,新しい観光地となっている。
執筆者:秋山 元秀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報