吉田草紙庵(読み)よしだそうしあん

改訂新版 世界大百科事典 「吉田草紙庵」の意味・わかりやすい解説

吉田草紙庵 (よしだそうしあん)
生没年:1875-1946(明治8-昭和21)

小唄作曲家。本名は吉田金太郎。幼少のころから長唄を学び,16歳ごろ清元に転じて菊之輔の名を受けたが,自信喪失におちいって芸界を退き,茶道教授に専念する。草紙庵の名は裏千家藤谷宗仁から与えられた雅号である。小唄の作曲は,当時の粋人の趣味であったが,友人の歌舞伎俳優市川三升(10世市川団十郎,小唄の作詩もした)の勧めでその仲間に入り,300曲近い小唄を作曲した。長唄と清元の下地があるため,作風は器楽部分に下座(げざ)音楽をとり入れ,唄は豊後節系の節回しが特徴であり,しかも,歌舞伎舞踊の舞台への出(で)を想定した〈前弾き〉(普通の小唄にはない)と,舞台からの入(いり)を想定した〈送り〉の付いている作品が多い。このために,日本舞踊家の好むところとなり,〈舞踊小唄〉という新しいジャンルを生じた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田草紙庵」の意味・わかりやすい解説

吉田草紙庵
よしだそうしあん
(1875―1946)

小唄(こうた)作曲家。本名は金太郎、草紙庵は元来茶道の号であったが、もっぱら小唄作曲に用いた。初め長唄を習ったが、16歳から清元(きよもと)に転向。初世菊輔(きくすけ)に師事して菊之輔の名をもらう。小唄処女作は30歳ごろで、1916年(大正5)ごろ結成された「東京小唄会」では作曲を受け持ち、家業の左官職に戻ってからも作曲を続けた。とりわけ歌舞伎(かぶき)、新派の当り狂言の作曲は草紙庵の「歌舞伎小唄」として定評を獲得した。さらに旧来の座敷小唄をホールや劇場で演奏する「舞台小唄」にまで進展させ、取材分野の拡大によって新風を吹き込むなど、近代小唄界の隆昌(りゅうしょう)に多大の功績を残した。

[林喜代弘]

『英十三・磯部東離監修『草紙庵の小唄解説集』(1963・江戸小唄社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田草紙庵」の解説

吉田草紙庵 よしだ-そうしあん

1875-1946 大正-昭和時代の作曲家。
明治8年8月8日生まれ。長唄から清元の三味線方に転じて清元菊之輔を名のる。引退して茶道をおしえるかたわら,大正半ばから300曲ちかくの芝居小唄を作曲。歌舞伎を題材とするものがおおく,「草紙庵の歌舞伎小唄」とよばれた。昭和21年12月5日死去。72歳。東京出身。本名は金太郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田草紙庵」の意味・わかりやすい解説

吉田草紙庵
よしだそうしあん

[生]1875.8. 東京
[没]1946.12.5. 東京
小唄の作詞,作曲家。本名吉田金太郎。家業は左官職であったが,若くして清元菊之輔の名で三味線弾きとなり,29歳頃より作曲を志した。 30歳頃より小唄の作曲を始め,58歳頃の大正末期には舞台演奏用の小唄を目指して「芝居小唄」を創始,流行させた。代表作緋鹿の子』『吉三節分』『道は二筋』。

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世界大百科事典(旧版)内の吉田草紙庵の言及

【小歌(小唄)】より

…従来の小歌,小唄と区別して〈江戸小唄〉と呼ぶようになったのはこのころである。この他,歌舞伎を題材とした芝居小唄をはじめ300曲近くを作曲した吉田草紙庵も一派を成した。昭和初年からは小唄に合わせて踊る〈小唄振り〉も行われ始めた。…

※「吉田草紙庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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