日印(読み)ニチイン

デジタル大辞泉 「日印」の意味・読み・例文・類語

にち‐いん【日印】

日本インド。「日印関係」

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日印」の意味・わかりやすい解説

日印
にちいん
(1264―1328)

鎌倉時代の日蓮(にちれん)宗の僧で、越後(えちご)(新潟県)本成(ほんじょう)寺の開山。越後国の人。もと天台宗に属していたが、1294年(永仁2)鎌倉で日朗(にちろう)の『摩訶止観(まかしかん)』第一の講義を聞いて改宗し、日印と名を改め摩訶一阿闍梨(あじゃり)と号した。蒲原(かんばら)郡に本成寺を創建したのをはじめ、北陸地方で伝道活動を展開する。のちに日朗門流から離れて別立し、本成寺をその本寺と定め、会津(福島県)に退隠して65歳で没した。

中尾 尭 2017年9月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「日印」の解説

日印

没年嘉暦3.12.20(1329.1.20)
生年:文永1(1264)
鎌倉後期の日蓮宗の僧。日朗門家から分立して巡教に専心した。越後(新潟県)に生まれ,初め天台僧であったが,鎌倉で日朗の『摩訶止観』第一の講述を聴いて改宗入門し日印と名乗る。永仁6(1298)年,越後に青蓮華寺(のち本成寺)を開創。天台,真言僧を帰伏させて日順,日暹と改めさせ,日順は黒瀬本法寺,日暹は氷見蓮成寺を建立した。日印は日朗没後,鎌倉に本勝寺を開く一方,元亨1(1321)年の日蓮の忌日十月十三日逮夜(忌日の前夜)の仏事を独自に執行して別立を示した。以後,本勝寺を弟子日静に譲り越後本成寺に帰還晩年は会津妙蓮寺に隠棲,入滅。

(佐々木馨)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日印」の解説

日印 にちいん

1264-1329* 鎌倉時代の僧。
文永元年生まれ。日蓮宗。はじめ天台宗に属したが,鎌倉で日朗の講義をきいて改宗。青蓮華寺(のちの本成寺)を越後(えちご)(新潟県)に,本勝寺を鎌倉にひらく。のち日朗門流から別立した。嘉暦(かりゃく)3年12月20日死去。65歳。越後出身。俗姓朝倉通称は摩訶一阿闍梨(まかいちあじゃり)。著作に「奉造立供養本尊日記」「本成寺置文」など。

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世界大百科事典(旧版)内の日印の言及

【日静】より

…俗姓は上杉氏,妙竜院と号する。駿河本覚寺日位について出家,のち摩訶一房日印に師事した。師日印は日朗(にちろう)没後,鎌倉に本勝寺を建てたが,これを日静に付して越後に帰り,1328年(嘉暦3)その死に臨んで,さらに越後本成寺を付属した。…

※「日印」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」