インド(読み)いんど(英語表記)India 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド」の意味・わかりやすい解説

インド
いんど
India 英語
Ganahantra Bhārat ヒンディー語

総論

インドは1947年8月15日、2世紀に及んだイギリスの植民地支配から独立した共和国である。バーラトBhāratともよぶ。南アジア地域の中心を占め、総面積328万7263平方キロメートル、日本の9倍弱の広大な国土をもち、11億1773万4000(2006推計)、12億1085万4977(2011センサス)と、世界屈指の人口を擁する。独立後優れた指導者ネルーのもとに、非同盟主義諸国のリーダーとして、国際社会で重要な役割を演じてきた。国名の「インド」は、かつてギリシア人が、インダス川流域地方をインドスIndosとよんだことに由来する。紀元前2000年ごろより波状的にインダス川流域に進出したアーリア人(アーリアン)は、この地方をシンドゥーSindhuとよんだ。これをイラン地方でヒンドゥーHinduとよび、さらにギリシア語ではインドスになったものとされる。またバーラトは、前6世紀ごろのバラモン教聖典に記された「南に開けた国」(バーラトワルサBhāratvarsa)に由来し、太古にインドを統一したとされる理想的聖王の名である。

 10億人を超える人々が生活を営む国土は、北に世界の屋根ヒマラヤ山脈を、東にベンガル湾、西にアラビア海を従え、インド洋に逆三角形の型で突き出した本土と、ミャンマーの南海上に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島、および本土南端の西岸沖合いのラクシャドウィープ諸島で構成される。本土は北緯8度4分から37度6分、東経68度7分から97度25分の北半球に広がる。国土の最長距離は、南北3214キロメートル、東西2933キロメートルもあり、国境線は1万5200キロメートル、海岸線は6100キロメートルにも及ぶ。国土の北半のうち、東はミャンマーおよび中国と国境を接し、バングラデシュを包み込む。北はネパールを挟み中国と接し、西はパキスタンと国境を接する。このように多くの国と接する国境線の平和的維持は、国民経済の発展に深くかかわっており、政府と国民にとって大きな課題となっている。

 現在の国土領域をもつ国家は、1947年インドの独立によってインド亜大陸に初めて出現したものであるが、この領域を舞台に繰り広げられた歴史は、世界の四大古代文明の一つ、インダス文明を起源とする。前2000年ごろより、カイバー峠を越えてインダス川流域へ進出したアーリア人は、先住民のインダス文明と遭遇し、これを滅ぼした。その後、ガンジス川流域やデカン高原へと生活圏を広げていった。この過程は、遊牧民アーリア人が先住の定着農耕民を侵略し、融合する形となり、これを正統化するための哲学としてバラモン教が成立した。これに反発した先住の農耕民は、自らの土着的哲学を体系化し、仏教やジャイナ教を誕生させた。しかし、長い歴史のなかで両者の思想は融合・統合され、インド文化の形成をみたのである。7世紀初め、砂漠の国に生まれたイスラム教はまたたくまに勢力圏を西アジアに広げ、8世紀には諸王朝が豊饒(ほうじょう)なインド亜大陸に幾多の遠征軍を送り、略奪を繰り返した。ついに13世紀初頭に、攻撃的イスラム教徒であるゴール朝の武将クトゥブッディーン・アイバクが、亜大陸の戦略上要衝の地デリーにイスラム勢力の王朝を確立した。これ以降、1858年にムガル王朝(ムガル帝国)がイギリスによって滅ぼされるまで、亜大陸はイスラム教徒諸王朝の興亡の場となり、その間は、イスラム文化とヒンドゥー文化の葛藤(かっとう)の時代であった。他方、17世紀以降、イギリスの東インド会社によるインドの植民地化は拡大の一途をたどり、1857~1858年のインドの大反乱(セポイの反乱)後は、イギリス直轄植民地とされた。そして、1947年に独立を迎えるまで、植民地支配に苦しめられながらも、地方行政制度、教育制度、および鉄道、道路網などの整備が積極的に進められていった。インド史はけっして栄光に彩られたものではなく、アーリア人の進出を皮切りに、異民族の波状的侵攻による文化の再編成の歴史であった。こうして、それぞれの時代を生きた民衆は、異文化の軋轢(あつれき)に苦しみ、そのなかから新しい哲学や宗教を創造してきたといえる。この世界でもっとも長い文明史のなかで、現代のインドは、多言語、多民族の社会となり、それに起因する社会的生活規制であるカースト制度や被差別民を生み出すなど固有の性格を備えることになり、「多様性のなかの統一性」と特徴づけられている。

[中山修一]

自然

地形

インドの本土は四つの大地形区に分けられる。すなわち、氷河を抱くヒマラヤ山脈、聖なる大河ガンジス川とインダス川の上流に形づくられたヒンドスタン平野、開発を許さない乾燥地帯であるタール砂漠、および半乾燥のデカン高原である。ヒマラヤ山脈は、6億年の昔には海底にあったもので、およそ7000万年前ごろから、大規模な褶曲(しゅうきょく)運動と断層運動によって隆起を始め、現在の巨大な山体をなした新期造山帯である。その規模は、東西に約2500キロメートル、幅240キロメートルの広がりのなかに、エベレスト山(8848メートル)をはじめ多くの世界の高峰をもつ。ヒマラヤの名は、ヒマHima(雪)とアーラヤĀlaya(館(やかた))の合成語で、「雪の館」の意であり、万年雪に覆われた雪原の面積は4万平方キロメートルで、世界一の規模をもつ。ヒンドスタン平野は、ガンジス川を中心に、東にブラマプトラ川下流、西にインダス川上流を従え、これら三大河川の流域により形成される。東西に長く約2400キロメートル、南北には240~320キロメートルの幅で広がり、全体としてきわめて低平な平野をなす。ガンジス川河口のベンガル湾岸から西に約1600キロメートルも離れた、ジャムナ川河畔の首都ニューデリー付近でも、標高は約200メートルにすぎない。その面積は約77万平方キロメートルに及び、日本の2倍強という規模である。ヒンドスタン平野地域は、更新世(洪積世)のころには海底にあったもので、それ以降、北側のヒマラヤ山脈と南のデカン高原から運ばれる大量の土砂により埋め立てられたものとされ、堆積(たいせき)層は最深部で6000メートルを超えている。ヒンドスタン平野を形づくる土壌は、更新世中期以降の古い地層をバーンガルとよぶ。また、河岸の氾濫原(はんらんげん)などに堆積する比較的新しい土壌を、ウッタル・プラデシュ州ではカダールとよび、パンジャーブ州ではベートとよばれる。デカン高原は、世界最古のゴンドワナ陸塊である。広義には、ガンジス川以南の半島部に位置する高原群と山脈群の総称である。狭義には、マハラシュトラ州、カルナータカ州およびアンドラ・プラデシュ州に含まれる高原部分をさし、テーブル状の残丘と波状地形に特徴づけられる。その面積は約70万平方キロメートルで日本の約1.9倍の広さがある。デカン高原の西境には、約1600キロメートルにわたって平均標高1200メートルの西ガーツ山脈が南北に走り、東境には平均標高600メートルの東ガーツ山脈がある。これらの山脈がモンスーンの雨雲の動きを妨げ、とりわけ高原西部は年降水量600ミリメートル前後の半乾燥地帯となる。また高原は全体として標高1200~300メートルで、西から東にかけて高度を階段状に下げる。したがって、北部のナルマダ川やタプティ川を除くと、主要河川はすべて西ガーツ山脈に源を発し、東流してベンガル湾に注ぐ。土壌は、北西部のデカン溶岩流地帯の黒色土を除くと、地味のやせた赤色土やラテライト(紅土)土壌が一般的である。

[中山修一]

気候

アジア大陸の南端にあって北半球の広大な面積を占め、「世界の屋根」ヒマラヤ山脈とインド洋によって取り囲まれたインドの気候は、こうした地形によって全体としてモンスーン気候(季節風気候)の典型的な特徴を示す。季節は、冬、夏、雨期、秋の四季に分かれる。冬(12~2月)は、西地中海から中央アジアを経て中国東北地区に至る高圧帯の影響で、高層を冷気が東に向かって流れ、快晴、低温でしかも1日の較差が大きい毎日となる。しかし、月に4~5回の割合でイラン高原方面に発生する低気圧が、冬雨前線を伴ってヒンドスタン平野を東進するため、雨をもたらすとともに、その後に寒気団が通り抜け、気温が0℃前後に落ち込むこともある。この雨は、北インドの冬小麦作のできばえに大きな影響を与える重要な要素である。やがて太陽が北回帰線へ向かって北上するに伴い、気温の上昇が始まって夏(3~5月)が訪れる。気温の上昇は南インド(3月に平均38℃)から始まり、4月には中部インドで38~43℃となり、5月には北インドで45℃以上と恐るべき酷暑となる。ヒンドスタン平野では高温のため激しい上昇気流が発生し、全体として低圧帯となる。そこにデカン高原方面より強い南寄りのルーとよぶ熱風が吹き込み、ときには砂嵐(すなあらし)や雹(ひょう)を伴う雷雨も襲う。これが生活を押しつぶすような乾燥熱暑の夏である。

 5月末にはヒンドスタン平野での気温上昇と低圧帯は極限状態に達し、これに向かってインド洋の湿気をたっぷりと含んだ南西からの貿易風が吹き込み始める。これが南西モンスーン、つまり雨期(6~9月)の到来である。6月初旬にインド南端地域から雨期に入り、雨域は日を追って北上する。6月中旬には全インドが雨期に入り、雨また雨のうっとうしい毎日が続く。この季節に北インドでは、年降水量の90%がもたらされる。9月の2週目に入るころ、貿易風が弱まり始め、インドを広く覆っていた低気圧が、ベンガル湾へと後退し始め、10月には高気圧が張り出してくる。そして秋(10~12月)が訪れる。北インドは乾燥したさわやかな毎日を迎えるが、南インドの東岸では、ベンガル湾の南に下がった低気圧の活動によってサイクロン(台風)が発生する。平均して3年に一度は、発達したサイクロンが南東部沿岸に上陸し人畜に多大の被害を与える。ときには、東海岸から西に向かいデカン高原を横断し、西海岸のケララ地方に大被害をもたらしたのち、アラビア海に抜けて消滅することもある。インドのモンスーンによる雨は、農業発展を規制する決定的要因である。しかし、年平均1000ミリメートル以上の多雨地域は、西ガーツ山脈の西側海岸平野、東ガーツ山脈の東側海岸平野および東インドに限られる。残るデカン高原の主要部と北西インドには半乾燥地域が広がり、農業開発の大きな妨げとなっている。

[中山修一]

生物相

広い国土と多様な地形、温帯から熱帯までの気候に恵まれ、インドの植生は3万種の豊かさを誇る。地域別にみると、(1)乾燥熱帯落葉樹林地域、(2)乾燥地有刺低木樹林地域、(3)湿潤熱帯落葉樹林地域、(4)温帯高地林地域の4区の特徴ある植生区を生み出している。乾燥熱帯落葉樹林地域は、インドで最大の面積を占め、パンジャーブ平原からガンジス川流域、デカン高原の北西部と南端部に広がる。おもな樹種は、ヒンドスタン平野でインドボダイジュ、サラソウジュ、デカン高原では、チーク、シタン、ゲッケイジュなどである。乾燥地有刺低木樹林地域は、ハリアナ、ラージャスターン、グジャラートの各州とデカン高原中央部に広く分布する。アカシア、ニーム(樹高10メートル以上になる街路樹)、カエンジュなどはインド西部に多く、ビャクダンやニームがデカン高原中央部で広くみられる代表的な樹種である。湿潤熱帯落葉樹林地域は、ネパール国境に沿うテライ地方、アッサム丘陵、デカン高原東部、西ガーツ山脈にみられる。この樹林は、年降水量1000~2000ミリメートルの地域に特徴的に現れ、乾暑期の6~8週間に落葉する。樹種はチーク、ゲッケイジュ、シタン、サラソウジュなどに代表される。温帯高地林地域は、西ヒマラヤ地域に広く分布し、ヒマラヤスギ、クロマツ、エゾマツ、モミなどが多く、さらに高くなると、シラカンバ、ネズなどがみられる。また、市街地や集落の周辺で全国的に広くみられる樹種として、北インドでは、インドボダイジュ、バンヤンおよびニーム、南インドではヤシ科の樹種、とりわけココヤシがあげられる。独立後、政府は年降水量400~800ミリメートルの半乾燥地域で、広域にわたってユーカリの造林事業を意欲的に進めている。インドの国土は耕地面積が広いため、森林面積は17%程度と少ないが、そのうち90%強が官有林であり、造林事業は政府の重要課題とされている。

 自然環境に恵まれるインドでは、哺乳(ほにゅう)動物約500種、鳥類約2万1000種、昆虫3万種もの多くの動物が知られる。哺乳動物のうち家畜を除くと、ゾウ、野生スイギュウ、イッカクサイ、トラ、ライオン、各種のシカなど、大型獣が多く生息することで有名である。しかし、古来、王侯や地方領主が狩猟(インドではシカールとよぶ)を好み、さらに植民地時代にはイギリス人も狩猟を楽しんだため数が減少し、近年では大型獣の生息地も、ほとんどが国立公園や自然動物保護区に限られてきた。主要動物の地域別生息地をみると、カシミール地方のヒマラヤ山脈には、野生ヤギ、クマ、カシミールシカ、ヒョウなどが多い。パンジャーブ平原には一部でカモシカ類が残っている。東インドでは、アッサム丘陵の森林地帯に、野生スイギュウ、シカ、それに世界唯一のイッカクサイが生息する。有名なベンガルトラは、ガンジス川河口の密林でいまもときおり村人を脅かす。また、マハナージ川ではワニの生息が知られる。アジア唯一のライオン生息地として西インドのグジャラート州のギル保護区は有名である。カルナータカ州北部ベルガム県の森林は、ゾウ、トラ、野生スイギュウ、ヒョウ、クマ、シカなどが生息する。また、同州南部の西ガーツ山脈東麓(とうろく)の森林にゾウや野生スイギュウが生息し、国道には「ゾウに注意」の警告板が出されている。さらに南のニルギリ山地には「ニルギリヤギ」とよばれる野生ヤギも生息する。なおインドでは、トラが国民獣に、クジャクが国民鳥に指定されている。自然動物保護法(1972施行)のもとに、トラは2500頭以上の生息を目標に、全国11の保護区で増殖事業が実施され、ワニについても1974年より3000頭を目標に国連機関の援助を受け、12保護区で増殖事業が進んでいる。こうして動物や鳥類は、全国の450を超える国立公園、自然動物保護区において手厚い保護が加えられている。

[中山修一]

地誌

インドの地域別特徴をみるのに、地形の形態を指標として地域区分すると、ヒマラヤ山脈、ヒンドスタン平野、デカン高原、および沿岸・島嶼(とうしょ)の四大地域に分けられる。

[中山修一]

ヒマラヤ山脈

インドのヒマラヤ山脈は、ネパールを挟んで西ヒマラヤ地方と東ヒマラヤ地方とに分かれる。西ヒマラヤ地方は、ジャム・カシミール州、ヒマチャル・プラデシュ州およびウッタル・プラデシュ州の北部を含む地域をさす。東ヒマラヤ地方は、アルナーチャル・プラデシュ州とシッキム州を中心とする。両地方ともヒマラヤの急峻(きゅうしゅん)な山岳地形に支配される共通性をもつものの、降水量や歴史的開発過程に大きな違いを示す。西ヒマラヤ地方がカシミール盆地を中心に比較的開発が進んでいるのに対し、東ヒマラヤ地方はインドでもっとも低開発地域の一つとなっている。農業では、米、トウモロコシおよびキビ類が両地域の主作物であるが、東ヒマラヤ地方ではいまでも焼畑耕作が残っている。また西ヒマラヤ地方のリンゴ生産は、その冷涼な気候に恵まれ近年ますます発達しつつある。西ヒマラヤ山地は二つの顔で国民の心をひきつける。その第一は、カシミール盆地を中心とした避暑地としての顔であり、第二はヒンドゥー教の聖地としての顔である。カシミール盆地は、州都スリナガルをはじめ近郊のパハルガム、アマルナート、ソナマルクなどの山岳景勝地をもち、「真珠にエメラルドをちりばめた清流と湖の楽園」と評され、酷暑のヒンドスタン平野やデカン高原から避暑に訪れる観光客は年々増加の一途をたどっている。40℃を超える酷暑にみまわれる平野と高原の住民にとって、真夏でも20℃強の深山幽谷のカシミール盆地は、まさしく「地上の楽園」である。また、家内工業で生産されるカシミールじゅうたんは、国内のみならず世界に知れわたる特産品である。西ヒマラヤのカメート山(7756メートル)は、聖なるガンジス川の発源地であり、そこはヒンドゥー教三神の一神であるシバ神(破壊の神)の御座所として崇(あが)められ、6000メートル以上の高地にバドリナートやケダルナートといった聖地が古くから開かれ、雨期を除いて訪れる巡礼も多い。なお、西ヒマラヤ地方ではパキスタンと中国、東ヒマラヤ地方では中国との間で国境線が確定しておらず、国境紛争は独立以降も絶えることがない。

[中山修一]

ヒンドスタン平野

北のヒマラヤ山脈と南のデカン高原に挟まれ、東西に約2400キロメートル、南北に240キロメートル以上の幅をもつ広大なヒンドスタン平野は、国土の約33%を占めるが、ここに人口の約45%(2001)が居住し、世界でもっとも人口の稠密(ちゅうみつ)な平野地域の一つとなっている(人口密度1平方キロメートル当り488人)。この平野は、西にパンジャーブ、ラージャスターン、ハリアナの各州を、中央にウッタル・プラデシュおよびビハール両州を、東に西ベンガル、アッサムの諸州を含む。ヒンドスタン平野は、世界の大河によって形づくられ、中央部をガンジス川上流、西をインダス川の上流、東をブラマプトラ川の下流流域が占め、恵まれた肥沃(ひよく)な土壌にイネ、小麦、キビ類の穀倉地帯を形成する。緯度的には北回帰線から北緯30度ほどに位置するが、ヒマラヤ山脈を北に東西に長いことと内陸性気候に支配されるため、アッサム地方の熱帯多雨地から、タール砂漠の乾燥酷暑の地域まで、多様な変化をみせる。この気候の多様性が、インド起源のヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シク教などをこのヒンドスタン平野の地から生み出したといえる。インド史を大きく決定づけたイスラム教徒のインド亜大陸支配は、13世紀にこの平野の西部に位置するデリーから始まり、17世紀に入ってのイギリスの植民地化は東のカルカッタ(現、コルカタ)から起こった。第1回の反英独立戦争であるインドの大反乱(セポイの反乱)は、1857~1858年この平野を舞台に戦われ、1947年の印パ分離独立は、人口稠密でそのうえ生産力の高い豊かなこの平野の政治的分割であった。

 ヒンドスタン平野は現代の経済活動でも顕著な地域的特徴を示す。西部のラージャスターン州は石膏(せっこう)、銀、石綿の生産地として、また、パンジャーブ州は小麦とイネ、それに機械器具工業の生産地として知られる。中央部では、ウッタル・プラデシュ州のサトウキビ、ビハール州は石炭および鉄鉱石、銅、雲母(うんも)など各種鉱物資源の宝庫で、全インド鉱業生産の40%を生産する。東部では、西ベンガル州のイネ、ジュート(黄麻(こうま))および茶、加えて製鉄、化学工業などが盛んである。また、アッサム州は紅茶生産の中心地であり、さらに石油と天然ガスで国産の50%を産出するなど、いずれもインドの代表的生産地を形成する。

[中山修一]

デカン高原

デカン高原は、インド亜大陸の半島部のほとんどを占める広大な地域である。高原は多くの山地や残丘をモザイク状にちりばめ、標高300~1200メートルの波状地形に特徴づけられる。西縁に西ガーツ山脈を、東縁に東ガーツ山脈を配しているため、モンスーンによる降水が少なく、年降水量が西部で600ミリメートル前後の半乾燥地となるほか、全体として1000ミリメートル以下の少雨地域となり、農業発展の大きな障害となっている。

 デカン高原は北と南で文化圏を二分し、さらに南部でそれぞれ特徴ある3亜区に分かれる。北のマディヤ・プラデシュ州とマハラシュトラ州はアーリア語文化圏で、とりわけマラータ人は、中世のイスラム教徒支配に強く抵抗したヒンドゥー教民族主義の性格を強く残している。南部のアンドラ・プラデシュ州、カルナータカ州およびタミル・ナド州は、先住民族系のドラビダ語族圏を構成する。しかし、中世以降イスラム教徒の強い支配が続いたアンドラ・プラデシュ州民とタミル民族主義の色彩が強いタミル人、加えて3州のうちではもっとも乾燥地が広く、進取の気性に富むカルナータカ州民とは、それぞれ政治・経済行動に特徴を示す。アンドラ・プラデシュ州はイスラム色が強いため、反中央政府的であり、資源にも恵まれないことから、独立後の経済発展から取り残されてしまった。タミル・ナド州は半島南端部に位置することから、これまで中央政府から疎外されがちであった。しかし古来、東南アジア各地に多くの移民を送り出したことによって国際感覚に優れ、タミル文化の優越性とタミル人の団結を誇示する性格を備えた。そのために中央政府に対していっそう強い自治意識をもち、自主独立の気風が根強く浸透している。他方カルナータカ州は古来デカン高原の南部中央という地の利を得て、東と西の両沿岸地方ににらみをきかせることができた。しかし、半乾燥気候のもとで農業への投資が進まず、商工業の発達に力を入れた。近世には、名将ティプー・スルタンが、イギリスによる植民地化に最後まで抵抗し、インドの英雄となったし、20世紀初頭には偉大な企業家で政治家でもあるウィシュベス・ワラヤを輩出した。彼は南インド初の水力発電所を建設し、またクリシュナ・ラージ湖を築造して、同州南部に大規模な灌漑(かんがい)用水路網を完成させ、農業発展に大きく貢献した偉人である。

[中山修一]

沿岸・島嶼

アジア大陸からインド洋へ突き出した形の国土は、約6100キロメートルの長い海岸線をもち、半島南端のコモリン岬を境に東海岸と西海岸に分かれる。また、チェンナイ(マドラス)の西方約1500キロメートル、ミャンマーの南海上にアンダマン・ニコバル諸島があり、ケララ州のコジコーデ(カリカット)西方の沖合い約350キロメートルのアラビア海にはラクシャドウィープ諸島がある。両諸島とも中央政府直轄地区とされ、前者はポート・ブレアに、後者はカバラティ島に政庁を置く。島民は漁業とココヤシ生産に力を入れ、自給用米作りに励んでいる。

 沿岸地域をみると、東海岸は隆起海岸平野で、南に行くほど幅が広く100キロメートルに達する。この地域は、古くからコロマンデル海岸とよばれ、米の穀倉地帯として栄えてきた。西海岸は、西ガーツ山脈が断層によってアラビア海に落ち込んだ沈水海岸で、マラバル海岸とよばれ、平均の幅は25キロメートルと狭い帯状の平野である。南西モンスーンがこの山脈にぶつかるため、年降水量が2000~6000ミリメートルの多雨地帯となり、イネとココヤシの栽培が盛んである。沿岸地域は海洋を介して古来外国と接し、インド固有の歴史を築くことに果たした役割はきわめて大きかった。古代から中世にかけてインドと西アジア、アラビア方面とを結ぶ海上交通の門戸は、北西インドのグジャラート州沿岸であり、とりわけスーラトは西海岸で最大の港町であった。15世紀末には、カリカットに来航したバスコ・ダ・ガマの喜望峰回り航路の発見ののち、ポルトガル勢力が西海岸に来航し、ボンベイ(現、ムンバイ)、ゴアをはじめ、ダマン、ディウなどの港町を開いた。また、東海岸に来航したフランスはポンディシェリ(現、プドゥチェリ)に、イギリスはマドラス(現、チェンナイ)やカルカッタ(現、コルカタ)に商館を設けて、インド商人と交易を始めた。現在、東海岸に発達するおもな港湾都市は、北からコルカタ、ハルディア、パラディープ、ビシャカパトナム、チェンナイ、ツチコリンなどで、とりわけビシャカパトナムは、日本への鉄鉱石積み出しを目的に港湾整備が進められた。また西海岸では、北からムンバイ、マルマガオ、ニュー・マンガルール、コーチ(コーチン)などの重要港湾が並んでいる。

[中山修一]

政治

政治の全般的特徴

インドは1947年にパキスタンと分離しながらイギリスからの独立を達成した。これによって主権がイギリス人の手からインド人の手に移るなど重要な変化がもたらされた。その一方で、官僚機構や軍隊の制度など多くのものはあまり変更を受けずに引き継がれて今日に至っている。独立当初の2年半ほどは、インドはカナダ、オーストラリアなどと同じくイギリス連邦内の自治領で、形式上はイギリス国王が元首であり、その任命する総督を頂いていた。しかし独立以前とは違って政治の実権はすでに総督を離れて中央政府の閣僚たちに移っていた。1950年に施行された憲法によって、インドはイギリス国王を元首とすることをやめ、大統領制をとることになったが、イギリス連邦には加盟国としてとどまっている。1951年から1952年にかけて男女同権に基づいた最初の普通選挙が行われた。このときから中央と各州とに、イギリスにおいてみられるような議院内閣制が成立し現在に至っている。

 概して自由な選挙がほぼ定期的に実施されている。総選挙によって中央政府がかわることがあるということは、アジアでもインドがほとんど唯一の例であり、第三世界のなかできわめてまれである。これはひとりでにもたらされたものではなく、インド国民の多くが、自由な選挙がインドの統一と向上のために必要であると考え、大きな努力によってそれを維持してきた結果である。ほかのアジア諸国に多くみられた独裁国家と比べて、民主主義では経済発展をもたらさない、あるいは、逆に民主主義と発展とが両立する例をインドに示してほしいという見解もみられたが、1991年の自由化政策以来、このような声はいずれも下火になっている。

 イギリス式の議院内閣制であるということは、元首である大統領ではなく首相が政治の中心に位置するということであるが、独立後50年間の8割近くにあたる期間を通じて、首相の座はわずか3人によって占められていた。すなわち、マハトマ・ガンディーとともに独立運動で大きな役割を果たしたジャワハルラール・ネルー(在任1947~1964、1964年病没)、そのひとり娘インディラ・ガンディー(在任1966~1977、1980~1984、1984年10月31日暗殺)、インディラの長男ラジブ・ガンディー(在任1984~1989、1991年5月21日暗殺)である。これが「ネルー王朝」ということばの由来である。ネルーのもとで国民会議派(以下会議派と略す)を与党とする政府は「社会主義型社会」の目標を打ち出し、五か年計画の実施にとりかかった。インディラ・ガンディーは、与党である会議派を分裂させて多くの長老政治家を追放するなど(1969)、父よりもさらに現状改革派的ポーズをみせた。しかし両者ともに国内の左翼諸政党とは一線を画し、これらを封じ込めようとした。この特徴はとくにインディラの場合に強くみられた。同じくインディラにみられた特徴は、縁故者や側近を重用しながら個人的独裁の傾向を強めたことである。1975~1977年の非常事態の期間にはこれらの特徴が一段と顕著にみられ、インド政治にきわめて大きな特異性をもたらした。

 1947年に独立を獲得したときインドが直面したおもな課題は、植民地的な経済構造を変え生活水準を引き上げる、政治経済社会の全分野において民主化を行う、宗教によって人々が対立しその結果パキスタンと国が分かれたという不幸な歴史を克服する、の三つに要約することができる。インドの政治はこれらの主要な課題をめぐって動いてきたのである。

[山口博一]

憲法体制と実態

インドの元首は大統領であるが、これは名目的な地位で、政治の実権はない。大統領は、連邦と州の両方の議会の議員によって選挙され、任期は5年である。1997年までの9人の大統領の宗教別の内訳は、ヒンドゥー6人、ムスリム(イスラム教徒)2人、シク教徒1人で、6人のヒンドゥーのうち4人までが南インド出身である。大統領選挙が社会構成の複雑さに配慮しながら行われていることがわかる。多数派のヒンドゥーのなかで人口の多い北部出身者が少ないのは、1997年までの12人の首相がいずれもヒンドゥーで、2人を除きいずれも北インドの出身であることを考えあわせる必要がある。

 大統領の場合に比べると首相および首相を長とする閣僚会議に関する憲法の規定は非常に簡単なものであるが、実際には首相と閣僚会議が執行権力の中心である。閣僚の数は非常に多いが、そのなかのおもな顔ぶれを一括して非公式に内閣とよんでいる。首相は大統領が任命し、その他の閣僚は首相の助言に基づいて大統領が任命する。閣僚会議は連邦下院に対して連帯責任を負い、またどの閣僚も6か月続けて連邦議会に籍をもたないことを許されない。つまり原則上は、議会が政府をコントロールするということである。

 連邦議会は両院制であるが、直接選挙によって構成される下院の重要性が圧倒的に大きい。連邦下院の総選挙は2004年まで14回実施されている。会議派に即してみると、最初の3回はネルーの指導下に、次の4回はインディラ・ガンディーの指導下に戦われたが、6回目(1977)には敗れてインディラが首相を辞任し、7回目には雪辱を遂げて彼女が首相に復帰している。その間の3年近くの期間は、会議派が中央で与党の地位になかった最初の時期である。

 首相に復帰したインディラ・ガンディーは、パンジャーブ州に多いシク教徒のなかの一部過激派への対策を誤り、アムリッツァルにあるその黄金寺院を軍隊で攻撃した(ブルースター作戦)ことが直接のきっかけとなって、首相官邸で自らの護衛であるシク教徒に暗殺される。その後を継いだ長男のラジブ・ガンディーは5年の任期をまっとうしはしたが、政権が安泰であったのはその前半だけであった。1989年の総選挙では北インドの中間諸カーストをおもな基盤とするV・P・シンVishwanath Pratap Singh(1931―2008)の勢力にとってかわられた。このころからインドの政局は目だって流動性を増す。V・P・シン、チャンドラ・シェカールChandra Shekhar(1927―2007)の両政権はいずれも短命で、政党間の関係も変化が激しく、1991年にふたたび総選挙となった。その最中に、ラジブはかつて自らが首相としてスリランカの民族対立に介入したことが原因となって(1987年から1990年までインド軍をスリランカに派遣)、タミルのテロリストによって殺害された。

 この総選挙では、ラジブの弔いという意味もあってか、会議派が勝利してナラシンハ(ナラシマ)・ラオP. V. Narasimha Rao(1921―2004)政権が誕生し、財務相に就任したマンモハン・シンの手で自由化を中心とする一連の大幅な経済改革が推進された。経済活動はこれまでになく活発になり、外資が流入し、多くの人々がこのようにして得られた機会をつかむことに熱心となった。しかしその反面、貧富の差はむしろ拡大している兆候がある。このことを反映して1996年の第11回総選挙では自由化政策を進めてきた当の会議派が敗北した。

 1991年の総選挙のときに生まれた、会議派、インド人民党(BJP、ヒンドゥー至上主義の勢力)、統一戦線(中間諸カーストを代表する有力地方政党やCPIM=インド共産党マルクス主義派を中心とする左翼諸政党が提携したもので反会議派・反ヒンドゥー主義を旗印とする)の三大勢力という政治地図は1996年にも変わらなかった。第一党となったBJPが、A・B・バジパイを首相としていったんは政権についたが、13日間で辞任し統一戦線の政権が続いていた(首相はデーベ・ゴウダDeve Gowda(1933― )を経てI・K・グジラールInder Kumar Gujral(1919―2012))。1998年の第12回総選挙によって、インド人民党が第一党の地位についたが、過半数に達しなかったため、地域政党との連立で政権を握った(首相はバジパイ)。ヒンドゥー至上主義の勢力であり、大国主義を誇示する同党は、1998年5月11日、13日の2日間で5種類の核実験をラージャスターン州で実行した。これに続いてパキスタンが核実験を行い、核廃止の方向に向かう世界を揺るがすこととなった。

 その後、1999年4月に全インド・アンナ・ドラビダ進歩連盟がインド人民党から離反したことにより、バジパイ率いる連立与党は1票差で不信任され、下院は解散、1999年9月に第13回総選挙が行われた。これによって定数545議席のうちインド人民党が182議席を獲得、バジパイ率いる与党連合が過半数の296議席を確保し、バジパイ政権が続投することとなった。

 2004年5月の第14回総選挙では、バジパイ率いるインド人民党は敗北、国民会議派が与党第一党となり、マンモハン・シンが首相に就任した。インド初のシク教徒の首相であり、過去にラオ内閣時代の財務相など経済分野の要職を多く務めた。経済改革、貧困対策、パキスタンとの対話路線の継続を表明、2009年に行われた第15回総選挙では国民会議派が勝利し、第二次シン政権が発足した。しかし2014年1月に今期での首相退任を表明し、同年5月の総選挙後、退任した。選挙はインド人民党が単独過半数を超えて大勝し、ナレンドラ・モディNarendra Modi(1950― )が首相に就任した。

 連邦下院の選挙は、1選挙区の議員定数が1人という小選挙区制によって行われる。任期は5年。10年ごとの国勢調査によって選挙区の調整がなされる結果、各選挙区の有権者数はほぼ均等になっている。指定カースト、指定部族(後述の「社会」の項参照)のためにその人口比にほぼ比例した数の選挙区が留保されている。2008年に改正された選挙区割りでは全国543選挙区のうち84が指定カーストに、54が指定部族に留保され、これらのグループに属する人々でなければ立候補することができない。これは指定カーストや指定部族の向上を保障するための制度であるが、独立後の期間を通じて彼らがその他の一般選挙区から当選した例は非常に少ない。また、2議席は大統領が指名する。

 連邦を構成する政治単位は州と中央政府直轄地区で、28州と8直轄地区がある。ただし後者のなかのデリー首都圏の地位は州にほぼ等しい。州は言語別に構成されているが、ヒンディー語だけは特別で、これを用いる州が6ある。州には名目上の長官である州知事の下に、州議会に対して連帯責任を負う州閣僚会議(その長は州首相)があって、州における執行権力の中心をなす。州議会はやはり小選挙区制に基づいて選出される。指定カースト、指定部族への議席留保はここでもなされている。要するに中央での制度を小型にしたものであるが、州知事は中央政府の意向に沿って大統領が任命するのであるから、州政府の政策が中央政府と異なる場合には、州政府を監視し、場合によってはこれを解任する機能を果たす。また州議会の立法権には制約があり、州の財政基盤の弱さと相まって、連邦制ではあるが中央の立場は非常に強力である。州の下には県Districtがあり、その数は全国で約520である。

 中央と州の政治を支える大きな力になっているのは、IAS(Indian Administrative Service、インド行政職)とよばれる約5000人の高級官僚群である。IASあるいはIPS(Indian Police Service、インド警察職)のような中央政府が管轄する高級官僚群の存在は、中央の州に対する立場を強くするのに役だっている。

 司法制度は多くの面で植民地時代のそれを継承している。その頂点にあるのは、デリーに置かれている最高裁判所で、その下に全国18の高等裁判所がある。これらはいずれも人事その他の点で連邦の管轄下にある。高等裁判所の下に州が管轄する諸裁判所がある。最高裁判所と高等裁判所の判決は判例とみなされる。司法権は独立しており、裁判所には違憲審査権が与えられている。

[山口博一]

外交政策

独立直後にパキスタンがカシミールに侵入したことが直接の原因で、インド、パキスタン両新生国家の間に戦争が起こった(1947~1949)。その後も両国の関係は改善されず、1965年と1971年にも戦争が起きている。1971年の戦争はバングラデシュ独立戦争が拡大したもので、東パキスタンがバングラデシュとして独立した結果、インド亜大陸におけるインドの比重は非常に増大した。

 インドが共和国となった(1950)のちもイギリス連邦にとどまったことは、のちにアフリカなどでのイギリス領植民地が独立した際に、これらをイギリス連邦につなぎとめるうえで重要な意味をもった。1947年のインド、パキスタン、1948年のセイロン(現、スリランカ)の加盟によって、白人諸国だけの集団としてのイギリス連邦の性格はある程度崩れたが、1960年代前半のアフリカ諸国の大量加盟によってイギリス連邦の様相は一変した。

 ネルー外交とよばれた非同盟主義、アジア・アラブ・アフリカ諸国との友好重視の政策は、1954年のネルーと中国の周恩来による平和五原則の発表、1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議の前後にもっとも光彩を放った。ネルーの晩年にはそれは、1957年からの対アメリカ経済援助依存の強化と、ダライ・ラマのインド亡命がからむ1959年からの中国との不和、とくに1962年の中国との国境戦争における敗北によって陰りをみせた。しかし1961年以降の非同盟運動でインドが果たした役割は無視できない。1983年には第7回非同盟諸国会議がニュー・デリーで開かれた。

 ガンディー政権下のインドはソ連寄りとみられていて、1971年に締結された有効期間20年の印ソ友好平和協力条約は、インドの対外関係におけるもっとも重要な軸となっていたが、西側に対しても閉鎖的ではなかった。ベトナムの解放闘争を支持し、1980年にはカンボジアのヘン・サムリン政権を承認した。

 1979年のソ連のアフガニスタン侵攻の際に大量の西側の武器がパキスタン経由でアフガニスタンの反ソ・反政府勢力に流れたことは、インドとパキスタンの関係をさらに緊張させた。インドにとって「冷戦の終結」とはアフガニスタンをめぐる米ソの対抗という要因の消滅であり、またインド亜大陸における中ソ対立の消滅であった。これらの結果、パキスタンおよび中国との領土問題についての対話の条件が生まれたが、パキスタンとの間ではカシミール地方の帰属がいまなおおもな懸案であり(カシミール問題)、中国との間では国境線の問題が1962年には戦争にまで発展した。これらの解決にはさらに時間を要すると思われるが、経済面での関係強化が続いており、中国とは海軍や陸軍の共同訓練も行われている。

 1985年12月にバングラデシュのダッカで最初の南アジア7か国首脳会議が開かれ、南アジア地域協力連合(SAARC(サールク):South Asian Association for Regional Cooperation)が結成された。以来、SAARCはほぼ毎年首脳会議を開催している(事務局はネパールのカトマンズ)。また、インドはインド洋沿岸諸国間の経済協力の促進にも関心を示している。

 インドは国連安保理事会の非常任理事国にはこれまで6回当選し、1992年からは常任理事国となる希望を表明している。しかし1996年には非常任理事国の席を日本と争って142票対40票という大差で落選した。これは包括的核実験禁止条約(CTBT)に反対し、孤立したことが響いていると思われる。このCTBTに対するインドの反対は核保有国である中国の脅威に対するもので、核実験の禁止は期限を明確にした核兵器廃絶と結びつけるべきであり、それができなければインドは核兵器をもつという選択権を放棄しないというものであった。そして1998年5月、インド人民党を第一党とする連立政権(首相はA・B・バジパイ)のもと、ラージャスターン州で核実験を行い、続いてパキスタンが核実験を行った。両国ともに同年9月にCTBTへの署名を表明したが、同時に進めているミサイル開発の停止は両国とも拒否している。

[山口博一]

国防

植民地時代のインド軍は、官僚機構と同じく、1947年にインドとパキスタンの間で分割された。インドの軍隊はこれを母体としており、階級制度もイギリスのそれと同一である。

 憲法上は大統領が軍隊の最高指揮権をもつが、実際は首相と国防相がこれを管轄している。国防相は文民で、文民統制と軍隊の中立性はこれまでのところよく守られている。

 兵役の義務はなく志願制で、三軍の総兵力は128万8000人、内訳は陸軍110万人、海軍5万5000人、空軍12万5000人などである。陸軍は機甲師団3、緊急展開師団4、歩兵師団17、山岳師団10などからなり、戦車約3660台をもつ。海軍はイギリス製の航空母艦1隻を中心とし、空軍は作戦機565機、ヘリコプター20機で、ミグ、スホイ、ミラージュなどを含む(2006年)。兵器の国産化はかなり進んでいる。軍事費は、1962年の中国との戦争および1965年のパキスタンとの戦争によって急激に増大した。その後パキスタンや中国との関係がそれほど改善されていないので、軍事費を削減する可能性はあまりない。この点では、国内の見解にも大きな対立はない。

[山口博一]

経済・産業

概論

かつてインドといえば、混合経済体制の殻に閉じこもり、閉鎖的で停滞的なイメージの強い国であった。しかし1980年代の規制緩和(部分的経済自由化)を経て、1991年に経済改革を導入して以来、従来の面目を一新する変貌(へんぼう)を遂げるようになった。独立後、インドの国内総生産(GDP)は年平均3.5%(ヒンドゥー成長率)の成長レベルに甘んじていたが、1980年代、1990年代を通じて5%台に上昇し、21世紀を迎えてさらに加速するようになった。2003年から2007年までの5年間、インドは年間8.8%の高レベルの経済成長を記録しており、21世紀の世界経済を牽引(けんいん)する勢力として、中国、ブラジル、ロシアとともにBRICs(ブリックス。2011年からは南アフリカ共和国が加わりBRICS)の有力な一角を形成している。

 2008年時点で、人口11億5400万人のインドのGDPは1兆1217億ドルであり、世界第12位(購買力平価換算では世界第4位)の大きさにある。他方、その1人当り所得をみれば、インドは中国の3分の1強に相当する1070ドル(購買力平価換算では2960ドル)のレベルにとどまっており、貧困線(収入が、生活に必要な最低限の物を購入することができる最低限の水準にあることを表す指標)以下の約3億人の絶対的貧困層を抱える世界最大の貧困国でもある。成人の36%は栄養失調であり、3歳以下の幼児の46%は標準以下の体重しかない状況にある。また雇用人口のうち、組織部門(従業員10人以上の事業所)に所属する人々の割合は14.7%、さらに年金・社会保障が提供される公式部門に所属する人々の割合は7.6%にすぎない(2004)。しかしながら1990年代以降、貧困線以下の人々の割合は36%(1993)から28%(2004)に低下する一方、平均寿命は58歳(1991)から69歳(2016)、識字率も52%(1991)から65%(2001)へと確実に向上してきており、今後とも経済的拡大が順調に進展するなかで、貧困問題や基本的人権がさらに改善されることが期待される。

[小島 眞]

経済改革

1947年の独立後、インドの経済開発において貫かれた二大目標は、貧困の解消と経済自立であった。17世紀初めに東インド会社が進出して以来、インドは長期にわたる植民地支配の苦い経験を余儀なくされてきた。そのためインドでは経済自立への志向がきわめて強く、すでに独立以前の段階で民族資本が台頭し、国産品愛用運動(スワデーシ運動)が叫ばれた。独立後、インドの経済開発を大きく規定したのが、ネルー時代(1947~1964)に確立された混合経済体制であった。そのバックボーンをなしていたのが、公共部門拡大優先の原則、産業許認可制度を軸とした民間部門に対する広範な経済統制、さらには閉鎖的な対外政策であった。1950年代から1960年代前半にかけて、インドでは産業基盤の形成に力が注がれ、公共部門主導型の重工業化が推進された。同期間中、工業部門は比較的順調に拡大したが、農業部門はその脆弱(ぜいじゃく)性を露呈する結果となり、1965年の第二次印パ戦争、さらには1965年、1966年の2年続きの旱魃(かんばつ)が原因となって、インド経済はやがて停滞期(1965~1980)に突入した。この間、インドの工業成長は長期にわたって減速したが、それは第一次インディラ・ガンディー政権(1965~1977)の下で閉鎖的で統制主義的な経済運営が強化された時期と重なっている。その一方で、農業重視の姿勢が積極的に打ち出され、緑の革命が着実に進展したことによって、1980年代を迎えるころまでには、米、小麦などの穀物自給を達成している。

 1980年代を迎えて、インドではもはや従来の行きすぎた統制主義のもとでは生産性向上や生産拡大を図ることが困難であるとの認識が強まり、第二次インディラ・ガンディー政権(1980~1984)、それに続くラジブ・ガンディー政権(1984~1989)のもとで産業政策や外資・貿易政策において規制緩和措置が導入されるようになった。しかしながら混合経済体制の枠組みが引き続き温存されたため、経済自由化はアドホック(限定的)な形でしか導入されず、また財政支出の拡大や汚職の蔓延(まんえん)など経済運営における規律も緩みがちになった。さらには主要貿易相手先であった旧ソ連の崩壊、湾岸戦争に伴う中東からの海外送金の激減など国内外の要因が重なり、財政赤字や経常収支赤字といったマクロ経済不均衡が拡大する結果となり、インド経済は1990年代を迎えて大きな岐路に立たされた。そうした最中、1991年4~5月の総選挙で国民会議派のナラシンハ・ラオNarashimha Rao(1921―2004)政権が成立し、同年7月に経済改革が導入された。

 経済改革のねらいは、マクロ経済不均衡の是正を図りつつ、既存の混合経済体制の政策的枠組みの変更を促して大胆な経済自由化を後戻りすることなく実施することにあった。それによってインド経済は従来の閉鎖的な殻を打ち破り、世界経済と密接にかかわりながら大きく前進するという新たな段階を迎えるようになった。公共部門に留保されていた分野への民間部門の参入がほぼ全面的に認められ、公共部門優位の政策が撤回されるとともに、民間企業の活動を大きく束縛していた産業許認可制度が事実上撤廃されるに至った。また対外政策も従来の閉鎖的、内向型から開放的、外向型へと転換され、貿易自由化や外資自由化が着実に進行するようになった。貿易面についていえば、平均関税率は1991年の77.2%から1997年には30.6%、さらに2007年には9.2%に低下するとともに、輸入数量制限は2001年に事実上撤回された。外資面では、多くの産業分野が外資に開放されるとともに、外資出資比率の引上げを通じて外国直接投資の流入拡大が図られた。競争原理の導入は価格低下、品質向上をもたらし、国内市場の拡大、ひいてはインド産業の競争力強化に大きく貢献するようになった。

 中道左派連立政権(1996~1998)の期間中、経済改革は一時的に逡巡(しゅんじゅん)をみせた時期もあったが、その後1998~2004年の期間中、バジパイを首班とするBJP連立政権(国民民主同盟)のもとでさらなる前進が図られた。「1999年新通信政策」はその後の企業間競争による携帯電話普及の道を開き、「2003年電力法」は電力部門改革に必要な道筋を示した。さらには「財政責任・予算管理法」(2003)の成立に伴い、財政健全化に向けて着実な営みが開始されるようになった。

 その後、2004年の総選挙でマンモハン・シンを首班とする国民会議派連立政権(統一進歩同盟、2004~2014)が成立した。同政権では貧困層の底上げを目ざして、すべての人々が経済成長の過程に参加し、その恩恵にあずかることができるような包括的成長inclusive growthが提唱され、2004年には貧困線以下の農民を対象に100日分の雇用提供を目ざす全国農村雇用保障スキームが導入された。同政権が目ざした経済改革は概して漸進的なものであり、硬直的な労働法の改正、小売業への外資参入、保険分野での外資出資比率の引上げといった懸案事項が残された。

[小島 眞]

サービス主導型発展

1990年代以降、インドでの高レベルの経済成長を牽引してきたのはサービス部門であった。実際、サービス産業の成長率は1980年代の6%台から1990年代には7%台、さらに2000年から2007年にかけて9%台の高レベルの成長を示すに至っている。サービス部門は商業、金融、運輸・倉庫、不動産、行政サービスなど多くの分野から構成されており、1990年代以降、とりわけ顕著な成長を遂げているのが通信、保険、ビジネス・サービス(ITサービスを含む)、ホテル・レストランといった分野である。GDPの部門別構成をみても、サービス部門のシェアは1990年の43.8%から2000年には50.6%、さらに2007年には52.4%に拡大している。サービス部門主導発展の中心的存在として、インド経済の新しい顔として一躍台頭したのがIT産業である。

 インドは世界でも屈指の高等教育人口を抱える国である。ネルー時代にインド工科大学(IITs)が創設され、理工系人材の育成に力が注がれた。自らの才能を発揮できる有利な雇用機会を求めて、1980年代以降、多くの優秀なインド人学生がアメリカに留学するようになり、やがて彼らは1990年代におけるアメリカでのIT革命に遭遇し、存分に活躍する機会を得た。IT革命が進行したアメリカでは、海外アウトソーシング先としてインドが注目されるようになり、アメリカ在住のインド系住民をパイプ役として、人材大国としてのインドはその本領を発揮するようになったのである。1990年代を通じてIT産業は年間50%の成長を示し、21世紀を迎えてからも2007年までの期間中、年間約30%の成長を続けた。インドIT産業の売上高は2009年に731億ドルに達し、GDPの6.1%に達するとともに、輸出は501億ドルを記録し、インド最大の外貨獲得源になっている。

 インドIT産業の特徴はハードウェアよりもソフトウェア、さらには国内市場よりも輸出に大きく傾斜していることにある。輸出先の大半は英語圏であり、アメリカが全体の60%を占め、第2位のイギリスが19%を占めている。ITサービスのデリバリーとして、当初、IT技術者が顧客先に赴き、サービス提供を行うインサイト方式が圧倒的であったが、衛星通信を活用して人件費の安いインドから直接サービス提供を行うオフショア方式のほうがしだいに優勢になってきた。

 インドIT産業の動向として注目されるのは、年々急速に進化・拡大を遂げているとともに、それぞれの分野でより付加価値の高い分野へと移行している点である。IT技術者が享受する所得は他業種に比べて格段に高く、しかもその雇用数は年々急激に拡大しつつある。IT技術者の雇用数は2009年には230万人、さらに輸送、ケータリング、建設、警備、雑務などの間接雇用は820万人に及んでいる。インド国内においてIT産業は購買力をもつ中間層の多くの担い手を輩出し、第二次・第三次産業にまたがる各種財・サービスに対する需要拡大においても重要な役割を果たすとともに、産業横断的に進行するIT化を通じて製造業、金融など他産業の業務効率化にも大きく貢献する結果になっている。

[小島 眞]

製造業の新たな台頭

1991年の経済改革の実施に伴い、インド経済は新たな段階を迎えたが、経済成長を牽引する主役はサービス部門であり、工業部門は脇役的存在にとどまっていた。しかしながら2002年以降、工業部門は新たな拡大を示し、サービス部門と並んで、経済成長のエンジンとしての役割を果たすようになった。実際、2004~2007年の4年間、工業部門は年平均8.8%の高レベルで成長し、2006年には11.0%の成長率を記録した。とくに注目されるのは、経済全体への波及効果の大きい自動車、鉄鋼の両産業である。1980年代前半におけるスズキのインド進出は、インドに日本的経営や生産方式をもたらし、自動車産業に新風を吹き込む結果となった。1991年以降、経済自由化が本格化するなかで、国内市場の潜在的規模に対する期待が高まり、日米欧韓の大手自動車メーカー(そして大手部品メーカー)のインド進出が活発化するようになった。1998年には民族系商用車メーカーとして豊富な経験を生かしてタタ・モーターズが新たに乗用車部門に進出し、企業間競争が激しさを増すようになった。2001年以降、インドの自動車生産は2けた成長を遂げており、四輪車の生産台数は2003年に126万5000台と初めて100万台を突破し、2007年には232万7000台に達した。2008年には金融・経済危機の影響によって生産台数が一時的に225万5000台に低下したが、2009年には291万8000台へと力強い回復を示すようになった。現在、インドは小型車生産の国際拠点、さらには自動車部品の輸出国として、その地位を着々と固めつつある。また自動二輪の分野ではインドは中国に次ぐ世界第2位の地位にあり、2009年には、その生産台数は1051万3000台に及んだ。

 また鉄鋼業の場合、経済自由化と対外開放の進展は、鉄鋼生産の拡大を刺激するとともに、生産性向上、品質改善に向けて大きな刺激を与えることになった。独立後、インド鉄鋼業の最大手は、公共部門のインド鉄鋼公社(SAIL)であったが、1990年代以降、鉄鋼生産拡大の主役を担ったのは民間部門である。大手鉄鋼メーカーのタタ・スチール以外にも、JSWスチール、エッサール・スチール、イスパット・インダストリーズ、ジンダル・スチール&パワーといった中堅鉄鋼メーカーが大きく台頭するようになった。粗鋼生産は1992年の1520万トンから2008年には5452万トンへと拡大し、世界第5位の鉄鋼生産国になっている。2009年時点で、各鉄鋼メーカーが新規製鉄所の建設のために州政府と取り交わした合意書は222件(2億7600万トン)に及んでおり、インドの鉄鋼生産能力は2011年ころには1億2000万トンに達することが期待されている。

[小島 眞]

拡大する中間層

近年、インドでは一定の購買力をもった中間層が大きく台頭し、消費財市場の拡大に弾みを与えている。中間層を一義的にとらえることは必ずしも容易ではないが、インド応用経済研究協議会(NCAER)によれば、世帯年収20万~100万ルピー(2001価格)の所得階層である。こうした中間層は、家電や自動二輪は容易に購入でき、また自動車購入にも手が届く所得階層であり、かつては高所得世帯に該当していた所得階層である。実際、中間層の人口規模は1995年には2500万人、2001年には5800万人程度でしかなかったが、その後、2007年には1億2300万人、さらに2009年には1億5300万人に増加している。実際、インドの中間層は21世紀に入ってから、きわめて高いペースで増え続けている。2001年から2009年までの期間中、その年平均成長率は12.9%に及んでおり、世帯別シェアも5.7%から12.8%に拡大している。また新中間層(世帯年収9万~20万ルピー)の場合、世帯別シェアは21.9%から33.9%に増えている。2007年時点で、中間層の自動車所有世帯は、都市では40%以上、農村でも24%に及んでいる。また中間層のテレビ所有世帯は、都市では96%、農村では62%に及んでいる。

 インド国内市場拡大にかかわる新たな動向として、とくに注目されるのは次の2点である。第一に、低コスト・モデルの活用が広がり、中間層のみならず、後続の新中間層(2009年時点で4億人強)も新たな有力な購買層として登場し、国内市場の裾野(すその)が確実に広がりつつあるということである。実際、携帯電話の場合、その加入件数は2004年3月の3369万件から、2010年3月末には5億8432万件に拡大しており、インドは中国について2番目に大きい携帯電話の市場になっている。第二に、インドでは購買力をもつ人々が必ずしも都市のみに集中しているのではなく、農村にも広く分布しているということである。2009年時点での中間層、新中間層に占める農村のシェアをみても、それぞれ33.4%、61.2%と推計されており、マーケットとしての農村の重要性はきわめて大きいものがある。

[小島 眞]

産業の担い手

独立後、インドでは基幹産業の中枢を担うべく、新規設立ないしは民間企業の国有化を通じて多くの公企業が誕生し、経済の管制高地(中心的役割)を占めることが期待されてきた。1991年以降、公共部門拡大優先の原則が撤回されたことに伴い、インド経済のなかでの公企業の相対的地位は低下するようになったが、石炭、石油、電力、通信(固定電話)の分野では依然として公企業は支配的な地位を保っている。インドの売上高ベスト10の企業には、インド石油、バーラート石油、ヒンドゥスターン石油、インド・ステイト銀行(SBI)、石油天然ガス、インド鉄鋼公社の6公企業が含まれている。公企業は中央政府公企業と州営企業から構成される。2008年3月時点で、中央政府企業は242社存在し、その売上高はGDPの23%に相当するレベルにある。また州営企業の場合、実働中の州営企業は837社存在するが、その多くは慢性的赤字に陥っている。

 インドでは独立以前からタタ(1868設立)やビルラ(1857設立)などの有力な老舗財閥が存在していたが、混合経済体制下では産業許認可制度、さらには「独占・制限的商慣行法」(1969)に基づいて、一定規模以上の民間企業、とりわけ財閥系企業の活動は厳しく抑圧されていた。1991年以降、上記の規制が解除され、民間部門の活動範囲が広がるなかで、既存の財閥に加えてリライアンス(1966設立)などの新興財閥が多数台頭し、インド経済拡大の牽引役として重要な役割を果たすようになった。リライアンスは石油化学事業を通じて1990年代以降に急成長した財閥であり、21世紀に入って以降、タタと並んでインドを代表する財閥に成長した。ちなみにインドの財閥は後継者問題で分裂するケースが多く、1990年代にビルラが複数のグループに分裂し、またリライアンスについても、創立者であるディルバイ・アンバニDhirubhai Ambani(1932―2002)の死去に伴い、2人の息子の対立が表面化し、2005年には兄ムケシュMukesh D. Ambani(1957― )率いるリライアンス・グループ(石油化学、石油・ガス採掘、石油精製)と弟アニルAnil D. Ambani(1959― )率いるリライアンス・ADAグループ(通信・電力・金融)の二つに分割された。

 上記の三大企業グループ以外にも、エッサール(鉄鋼・電力)、ラーセン&トウブロ(重機械)、ITC(タバコ・食品・ホテル・IT)、マヒンドラ(自動車・IT・金融)、アヴァンタ(旧タパール、パルプ・食品・電力)、バジャージ(二輪車・三輪車)、キルロスカ(機械・トラクター)、ヒーロー(二輪車)、ゴドレージ(機械・食品・日用品)、シュリラム(金融)、バールティ(通信・小売業)、JSW(鉄鋼・電力)など有力な企業グループが多数台頭し、しのぎを削る競争をしているのがインドの現状である。ちなみにタタの場合、2008年度の売上高はGDPの6.1%に相当する708億ドルに及んでおり、その64.7%は海外事業によるものである。同グループの活動はエンジニアリング、鉄鋼、電力、IT、ホテル、紅茶など幅広い分野に及んでいる。旗艦企業としてのタタ・スチール、タタ・モーターズ、タタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)の3社の場合、グループ全体の売上高の76%(2008)を占めるとともに、それぞれ鉄鋼、自動車、ITの分野でインドを代表する最有力企業である。

[小島 眞]

インフラストラクチャー

インド経済が高レベル経済成長を着実な拡大を続けていくうえで、そのかぎを握っているのがインフラ部門(道路、鉄道、空港、電力、通信、上下水道、灌漑、倉庫など)である。近年、民間部門の参入によって通信設備は急速に整備されつつあるが、大きな課題として残しているのが電力部門、それに鉄道、道路、港湾の物流部門である。道路は鉄道にかわってすでに輸送面での主役の座にあるが、総じてインドの道路事情は劣悪である。都市部では交通混雑が深刻さを増す一方、農村部では全天候型の道路が整備されていないため、雨期には外部との物流面で支障をきたす地域が少なくない。総額3兆ルピーをかける大規模な全国ハイウェー開発計画が進行中であり、その象徴的存在として注目されているのが、「黄金の四辺形」(デリー、ムンバイ、チェンナイ、コルカタを結ぶ総延長距離5546キロメートル)、「東西・南北回廊」(東西・南北の両端を貫く総延長距離7300キロメートル)である。2010年6月末時点で、前者は99%、後者は71%の工事が完了しており、一部の箇所はBOT方式に基づいて、シンガポール、マレーシアなど外資を含めた民間部門が参入している。

 インドの鉄道については、すでに飽和状態に達し、安全性や輸送能力の面で多くの問題を抱えているとの見方が支配的であったが、コンテナ輸送において民間参入が認められるなど、急速ピッチで効率性向上が図られるようになってきた。第十一次五か年計画中には、本邦技術活用条件(STEP。日本の技術、ノウハウを活用し、途上国への技術移転を通じて「顔の見える援助」を促進する目的で創設されたタイド円借款)方式に基づいて、デリー・ムンバイ、デリー・ハウラー(コルカタ)間で高速貨物専用鉄道の建設が着手される見込みである。インドの港湾についても、外国貿易に伴う物流コストが高くつき、産業全般の国際競争力を損ねているという見方が一般的であったが、中央政府管轄下の12の主要港、その他の港を含め、PPP(官民パートナーシップ)方式に基づいて、専用港建設、さらには港湾施設の増強や取扱処理能力の向上が図られている。また需要増大に対応できず、施設増強が急務とされている空港についても、ベンガルール(バンガロール)、ハイデラバードでは新空港が建設されるとともに、デリー、ムンバイ両空港ではPPP方式に基づく改良工事が行われた。

 インフラ分野で改革が容易に進まず、工業成長に対する最大の制約要因として作用しているのが電力部門である。2009年時点で、ピーク時の電力不足は12.7%に達している。日常的に停電など、不安定な電力供給にみまわれ、そのため工場・事業所の多くは自家発電・UPS(無停電電源装置)の設置を余儀なくされている。また2008年時点で、各家計への電気の普及を示す電化率はいまだ60%(農村では45%)にとどまっている。電力不足解消という観点から、石炭火力に基づいた4000メガワット級の9件のウルトラメガ・パワー・プロジェクト(入札に基づいてすでに4件が決定)が予定されるとともに、2008年に原子力供給国グループの了承を経て米印民生用原子力協定が正式に成立したことに伴い、今後、原子力発電所の増設に弾みがつくことが予想される。留意されるべきことは、電力部門の主要事業体である州電力庁(SEB)が軒並み深刻な経営赤字に直面しており、そうした構造上の問題にメスを入れない限り、問題の本質的解決にならないという点である。SEB改革の最大の焦点は、配電ネットワークのオープンアクセスや配電部門の民営化を含む配電部門の改革にある。利用者負担の原則の徹底を図りつつ、SEBの配電部門改革を軌道に乗せることができるのか、大きな課題が横たわっている。

[小島 眞]

対外経済関係

独立後、インドは長年にわたって先進国、国際機関からの大口の経済援助を受け入れる一方、自給色の強い保護主義的な対外政策が採用されてきたが、1991年以降、グローバリゼーションの時代に即した対外志向型の経済開発が目ざされるようになった。その結果、インドの輸出依存度(商品輸出/GDP)は1980年代には4.5%であったのが、1990年代には7.7%、さらに2007年には15.3%に上昇するに至った。また貿易相手先としては、長らくEU、アメリカ、旧ソ連、それに日本が上位を占めていた。1990年代以降、全方位外交を基調としつつも、ルックイースト政策が唱えられ、近年、ASEAN、中国、韓国との貿易が急速に拡大しており、また2010年よりインドASEAN・FTA(自由貿易)協定、インド韓国CEPA(包括的経済連携協定)が発効している。

 2008年時点で、インドの商品輸出は1853億ドルに及んでおり、その品目別構成をみると、宝石・宝飾品、石油製品がそれぞれ全体の15.1%、14.9%を占め、以下、輸送機器(6.0%)、アパレル(5.9%)、機械類・器具(5.9%)、医薬品・化学品(4.7%)となっている。また商品輸入は3037億ドルに及び、原油・石油製品がトップで全体の30.1%を占め、以下、一般機械(8.7%)、エレクトロニクス製品(7.7%)、金銀(7.2%)、真珠・貴石・貴金属(5.5%)、輸送機器(4.4%)となっている。インドの主要貿易相手国は、輸出先ではアラブ首長国連邦(UAE)がトップで13.2%を占め、以下、アメリカ(11.4%)、中国(5.0%)、シンガポール(4.6%)、香港(ホンコン)(3.6%)となっており、輸入先では中国がトップで10.7%を占め、以下、UAE(7.8%)、サウジアラビア(6.6%)、アメリカ(6.1%)、イラン(4.1%)となっている。

 インドの貿易収支(商品貿易)は慢性的に大幅な赤字を計上している一方、貿易外収支(サービス、投資所得、経常移転)は顕著な黒字を計上しており、経常収支全体の赤字幅がかなり軽減されている。世界輸出におけるインドの存在感が強まっているのは、商品輸出よりもサービス輸出のほうである。1995年当時、世界輸出に占めるインドのシェアは商品輸出、サービス輸出のいずれとも0.6%程度であったのが、2007年時点で、商品輸出では1.1%、サービス輸出では2.6%に拡大している。2008年、サービス輸出(ソフトウェア・サービス、ビジネス・サービス、運輸、旅行、金融サービスなど)は1020億ドルに及んでおり、その半分近くを占めているのがソフトウェア・サービスである。またインド人が海外で多数活躍していることは、在外インド人による国内送金、およびNRI(非居住インド人)口座への預金などで、多額な経常移転収入をもたらしており、2008年には435億ドルに及んでいる。2009年時点で、アメリカ、中東など世界各国に約2500万人の在外インド人が存在しているといわれる。

 外国投資に目を転じると、従来、投資先としてインドはそれほど注目される存在ではなかったが、巨大な国内市場、生産拠点としての重要性が高まるなかで、新たな展開がみられるようになった。対内直接投資は2002年の50億ドルから2006年に236億ドル、さらに2007年には368億ドルに拡大し、リーマン・ショックに伴う世界同時不況の影響を受けた2008年の場合でも363億ドルを記録した。またポートフォリオ投資は2002年の10億ドルから2003年には114億ドル、さらに2007年には236億ドルに拡大した。2008年には世界同時不況の影響を受け、ポートフォリオ投資の海外からの引揚げがみられたが、2009年には回復傾向を示している。

 対内直接投資と並んで注目されるのは、対外直接投資の拡大である。インド企業の活発なグローバル事業展開を反映して、インドの対外直接投資は2004年には18億ドルであったのが、2007年には135億ドル、さらに2008年に179億ドルへと拡大した。インド企業の海外進出は、とりわけIT産業、鉄鋼業、それにエネルギーの分野において顕著である。実際、タタ・グループはグローバル事業の拡大を成長戦略の重要な柱の一つに位置づけ、2000年のタタ・ティーによるイギリス紅茶メーカーのテトリー買収を手始めとして、2007年にはタタ・スチールによる129億ドルでのヨーロッパ第2位のイギリス・オランダ鉄鋼メーカーのコーラスの買収、さらに2008年にはタタ・モーターズによる23億ドルでのイギリス高級車ブランドのジャガー、ランドローバーの買収を手がけ、インド企業のグローバル展開を世界に強く印象づけるできごととなった。

[小島 眞]

社会

社会構造の全般的特徴

インドの社会を彩る大きな特徴は、その構成要素の多様さということである。それを宗教、カースト、民族の三つの面から考えることができる。

[山口博一]

宗教

インド人の約75%はヒンドゥー教徒である(指定部族は除く)。パキスタンがまだインドから分かれていなかった植民地時代には、その比率はこれほど高くはなかった。ムスリム(イスラム教徒)が全体の25%を占めていたからである。1870年代以後に発展したインドの民族運動は、ヒンドゥーの中産階級をおもな担い手としていた。マハトマ・ガンディーに代表されるその指導者たちは、従来のヒンドゥー教の教義をそのまま信奉したのではなく、これを解釈し直して新しい時代の要求に合致させようとした。しかしそれはムスリムや不可触民の反発を招いた。ムスリムは人口の12%で、絶対数ではインドネシア、パキスタン、バングラデシュに次ぐ世界第4位である。独立のときに旧インドのムスリムの約3分の2が東西両パキスタンに属することになったが、約3分の1はインドに残された。つまり、植民地インドの両端のムスリム多数派地域をパキスタンとして独立させたのである。1971年には東パキスタンが独立してバングラデシュとなった。

 これらのことは、宗教と民族を同一視しそれによって国家をつくろうとする試みが無理であったことを示している。パキスタン(とくに東パキスタン)に残されたヒンドゥーと、インドに残されたムスリムはともすれば疎んぜられ、スケープゴートにされることが多い。ヒンドゥーとムスリムに次いで多いのは人口の8%を占める指定部族である。これは、奥地の丘陵地帯などに住む人々を政府がこのように認定したものだが、宗教的にはヒンドゥー化が進んでおり、経済生活のうえでもその他のインド社会とあまり区別がなくなっている。このほかにキリスト教徒、シク教徒、ジャイナ教徒などがいる。仏教徒は1956年から不可触民の改宗者が増えている。

 最近の注目すべき動きはヒンドゥー至上主義勢力の台頭である。これはインドの当面する困難をムスリムの存在のせいにし、インドをヒンドゥー的に純化することを要求するもので、多様性に富む社会に単一の尺度をもち込み、宗派間に緊張をもたらし、上位カーストの立場を強化する意味をもっている。1992年12月6日にこの勢力はウッタル・プラデシュ州アヨーディヤーにあるイスラム寺院の破壊を強行した。

[山口博一]

カースト

バラモン(ブラーマン)、クシャトリア、バイシャ、シュードラの四つに不可触民を加えた五つがカーストであると普通に考えられている。これは間違いではないが、カーストの理念を示しているだけであり、現実のカーストははるかに複雑で、サブカーストがほとんど無数に存在する。人々の接触と結婚の範囲を決めているのはサブカーストであり、職業とサブカーストの結び付きもまだ強く残っている。農村では地主あるいは有力な農民のサブカーストを中心として生産活動が営まれている。バラモンなど上位のサブカーストは一般に肉食を忌み嫌い、肉体労働をしないなど特定の生活様式をもっている。そこでそれ以外のサブカーストの人々が集団で肉食をやめるなど上位カーストの生活様式を採用し、そのうえで自分たちは上位のカーストに属すると主張するということが始終起こっている。つまり個々人にとっては、その所属するサブカーストは生涯変えることはできないが、サブカーストが集団として上位あるいは下位に移動することは可能であった。最近は中位の有力な農民のサブカーストが上位カーストの行動様式を模倣するのではなく、逆に自分たちはバラモンなどによって低い地位に追いやられていたとして、指定カースト(SC)や指定部族(ST)並みの保護を要求する動きもみられる。

 憲法では特定の人々を不可触民として差別することは処罰の対象であるとされている。つまりカーストの廃止は規定されてないが、不可触民は公式には存在しないことになっている。しかし彼らへの偏見と差別はまだ根強くみられる。政府は、人口の約16%にあたる範囲の人々を、従来不可触民として差別されてきたとして指定カーストに認定し、指定部族と同じくさまざまな保護を与えている。しかしこれはヒンドゥーとシクだけについてであって、他の宗教に属する不可触民を含んでいない。カーストは理念上はヒンドゥーだけのものであるが、多かれ少なかれほかの宗教にも類似のものがみられる。

 指定カーストと指定部族には、議会選挙、公務員採用、公立学校入学などで一定の割合が留保されているが、中間諸カーストからも同様の優先措置を求める声が高まり、1990年にV・P・シン政権によってそのための方策がとられた。指定カースト、指定部族以外のいわゆる「その他の後進諸階級(OBC)」への保護である。ヒンドゥー至上主義の動きはこれへの対抗という面をもっている。OBCは人口の半数を占める大勢力であるが、その内部は一様ではなく、上位カーストに対立する面をもつ一方で、下位カースト、SC、STを抑圧する面ももっている。

 1997年7月に10人目の大統領に副大統領であったナーラーヤナンが選出された。彼は南インドの指定カースト出身である。

[山口博一]

民族・言語

インドの各州は1950年代からは言語別に構成されそれぞれの公用語をもっている。ヒンディー語だけは六つの州で用いられている。言語が違うそれぞれの集団を民族と考えることができる。つまりインドは多民族社会、多民族国家である。

 28の州間の人口規模の差は非常に大きく、1億を超えるウッタル・プラデシュ州をはじめ、1000万人以上の州が18ある反面で、200万人未満が5州ある(2001)。憲法には、1000万人以上の州の公用語となっている11の言語、すなわちヒンディー語、マラーティー語、ベンガル語、テルグ語、タミル語、カンナダ語、グジャラート語、オーリヤー語、マラヤーラム語、アッサム語、パンジャーブ語に、広くムスリムの間で用いられるウルドゥー語、ジャム・カシミール州の公用語カシミール語、現在パキスタンに属するシンド州からのヒンドゥー難民が用いるシンド語、古典語のサンスクリット語を加えた15語の尊重がうたわれている。1992年の第七十一次憲法改正によりあらたにコンカン語、マニプル語、ネパール語が付け加えられた。インドの紙幣にはマニプル語とシンド語を除くこれらのすべての言語および英語の計17語で金額が記されている。州が言語別に構成されているといっても、州の区画と住民の言語的な区分はかならずしも一致しないので、各州はそれぞれ少数言語集団をいくつも含み、それぞれが多かれ少なかれ多民族的構成になっている。したがって、州の人口とその州の公用語である言語の実際の話者人口とは一致しない。ヒンディー語は連邦の公用語であるが、これを公用語とする六つの州(ヒンディー・ベルトとよばれる)の人口の比率は42%、実際の話者人口は39%前後である。

 インドは一国でヨーロッパ並みの広さをもっているから、主要な言語が18あるといっても不思議ではない。それにサンスクリットの影響が強いから、多くの言語の間にはある程度の共通性がある。しかし各民族がそれぞれの言語に強い誇りをもっているので、中央政府がヒンディー語を単に連邦の公用語から、より国語に近づけようとする方向に動くと、かならず反発が起きてきた。当分は英語が共通語として重要な役割を果たし続けると思われる。他方で各州が言語的な閉鎖状況に陥ると、民族間の通婚や州間の人口移動がそれだけむずかしくなる。

 インド社会を構成する要素はこのように複雑であるが、その中身は政治的、経済的な動きを反映して変化しつつあるのであり、これを固定的なものとみてはならない。このような複雑さをもつインドの社会が一つにまとまりうるものであるかどうかは大きな問題であるが、政治と宗教の分離、諸民族と諸言語の平等、政治・経済・社会の各分野にわたる民主的発展によって可能になると思われるし、インド国内でも多くの人々がそれを望んでいる。

[山口博一]

国民生活

インドは10年ごとに国勢調査を行っている。1991年のそれによると人口は8億4393万で、前回の1981年に比べて23%、1億6000万人増えている(2001年には10億2701万5247、2007年推計では11億6901万)。増加の絶対数は非常に大きい。しかし増加の年率は1990年代に入って2%を切るようになり、2000年代前半(2000~2006)では1.6まで落ちている。人口の動態からは、今後に人口増緩和の期待をかけられる面がでてきている。乳児死亡率は2006年には57まで低下し、これを反映して同年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に何人の子供を生むかの予測指数)も2.5に下がっている。

 人口動態では州間の差が大きい。乳児死亡率はケララが最低で17であるのに対し、最大の人口をもつウッタル・プラデシュ州では98、最高のオディシャ(オリッサ)では120であった。

 死亡率の低下は天然痘の絶滅(1977年4月)など保健衛生状態の改善によるところが大きい。2016年の平均寿命は男67.4歳、女70.3歳である。1986年に当時の首相ラジブ・ガンディーが発表した20項目の政策(20ポイント政策)にも、清潔な飲料水の確保と、ハンセン病、結核、マラリア、甲状腺腫(こうじょうせんしゅ)、視力喪失その他の主要な病気の克服があげられていた。最近はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染者の増加も指摘されている。

 これだけの人口をまかなうための食糧(穀物および豆類)の生産は1980年代末からモンスーン(季節風)に恵まれて順調に伸びている。しかし人口増加が続いた場合の不安は残るうえ、1人当りの消費量にも目だった増加はみられない。

 より重要な課題は雇用である。1980年代だけをみても、14歳までの人口比は4%減少し、その分だけ15~59歳人口比が増加した。しかし、これに見合うだけの雇用の創出がなされたとは信じがたい。1976~1991年の15年間をとると、新規雇用の大部分は公共部門(政府部門)でなされている。この傾向は長続きしないであろうし、好ましいことでもない。同時に農村でも農業への基礎的投資と雇用拡大とを結びつけることが望まれる。

 識字率は1981年の36%から1995年の52%、2007年の66%へと上昇したが、男子が76.9%であるのに対し女子は54.5%で、その差が縮まっていない。識字率は州間の差が大きくビハール、マディヤ・プラデシュ、ラージャスターン、ウッタル・プラデシュなどのヒンディー・ベルトの大きな州で低い。頭文字をとって「BIMARU(ビマル)」とよばれるこの4州はいろいろな意味で問題が多く、合計特殊出生率が高く、女性の識字率が極端に低いのもこの4州である。

 男女の差に関して一つ奇妙なことは、国勢調査のたびに男子人口に対する女子人口の比率が減少していることである。これは女子を意図的に少なく数えるからだという説もある。

 国連の人間開発指標でインドは世界のなかでかなり下位に位置づけられている。世界の貧困層の3分の1近くを抱えているといわれ、1991年からの経済改革もその効果を膨大な人口のうえに及ぼすに至っていない。その意味で大きな社会経済格差を残したままの自由化には問題が多い。土地の劣化など環境の悪化も進んでいる。BIMARU諸州などの現状は指定カーストや指定部族の問題を含めて、カーストを基盤とする身分制度的な状況の存続をうかがわせる。その反面で経済の活性化と絡み合って、インド人によるNGO(非政府組織)活動が目だつようになっている。

 都市人口と農村人口の比は1990年代なかばで27対73であった。100万人以上の都市が1981年の12に対し1991年の国勢調査では23あり、都市化の傾向が早まっていることを示した。しかも1981年から1991年のこれら23都市の人口増加率は36.5%に達し、予想を上回った。10万人以上の都市は約300あったが、そのなかには10年間で人口が2倍以上となった都市も少なくない。2001年には人口100万人以上の都市は35を数えるようになった。多くの都市が過剰人口を抱え、なかばスラム的な様子をみせている。ムンバイ(ボンベイ)、コルカタ(カルカッタ)、デリー、チェンナイ(マドラス)の四大都市を通常メトロポリスといっている。

[山口博一]

教育

インドの学校制度は、大学を別にすれば、5年の初等教育、5年の前期中等教育、2年の後期中等教育となっている。最初の8年間が義務教育で、入学者は増加しているが、強制就学ではなく、登校しなくなる児童も多い。しかしこの12年間をあわせて「10プラス2」といわれるようになったのは、一定の年数の教育が必要であるという考えに基づくものである。

 そのあとの高等教育機関はカレッジとユニバーシティである。カレッジの数は1950年の542から急増して8000を超えている。その大部分はそれぞれユニバーシティの管轄下にある。前者が学部教育を行い、後者が大学院教育を受け持つ関係にあるといってよい。ユニバーシティは222ある。独立後の就学率と就学者数の増加は上級の学校になるほど大きく、カレッジの場合にもっとも顕著である。植民地時代の教育の欠陥がこのようにして是正されているのである。しかし義務教育も十分に普及していない状況では、このこと自体が格差拡大の一面となりかねない。また、カレッジやユニバーシティを卒業しても適当な職が得られない者が非常に多い。これは、経済発展の速度が遅いためもあるが、同時に高等教育が文科に偏っていて、当面インドでもっとも必要とされる中小企業や農村での働き手の養成に適していないことも一因である。

[山口博一]

出版とマスコミ

インドは出版活動が盛んな国で、毎年の書籍の刊行点数も多い。文学作品はそれぞれの言語で書かれることが多いが、学術書は主として英語で書かれている。これは、全国の高等教育機関で教科書や参考書として用いられるには、英語で書かれていることが望ましいし、国際的な流通も保証されるからである。

 インドでは日刊紙2130(2006)をはじめ多くの新聞が発行されている。日刊紙を言語別にみると、ヒンディー紙がもっとも多く、ついでウルドゥー紙、タミル紙、英語紙の順となっている。日刊紙の発行部数の合計は8886万3000部(2006)で、約12人につき1部の割合である。有力な新聞のなかには民間の財閥の所有になるものが多い。

 新聞の発行や書籍の出版は都市の高等教育を受けた住民をおもな対象としている。これに対しラジオあるいはテレビは識字を前提にしないため、より普及する可能性をもっている。これらはいずれも国営で、テレビはDDI(Doordarshan India)、ラジオはAIR(All India Radio)が、独占的に運営している。中央政府の情報放送省が管轄しているが、1997年9月、DDI、AIRを政府から切り離して、独立の放送機関とするための「インド放送協会法」が発効した。テレビは人口の85%が住む地域をカバーしている。しかし、DDIの調査によると、1998年には6500万世帯にテレビがあり、テレビを見ることのできる人は2億9600万人であった。テレビのない家庭が圧倒的に多かった。1990年代に入ってケーブルテレビもスタートした。ケーブルテレビ事業者数は約6万、1998年末で加入世帯数は2160万であった。2006年のテレビ保有世帯数は8807万、ケーブルテレビ加入世帯数は6800万となっている。

[山口博一]

文化

インド文化の特質

インドの自然が寒冷と猛暑、乾燥と湿潤の両極端をあわせもった多様性を示すと同様に、インド文化にもさまざまなレベルにおける多様性がみてとれる。それは生態系に見合った生活文化の多様性とも対応するが、端的にいって、車で1時間も行くとことばが異なるという言語や民族文化の圧倒的な多様性にもみてとることができる。しばしば人は、インド国民としての意識よりも、自らの属する母語集団ないしは民族集団に強い帰属意識をもつが、各集団がそれぞれ数千、数百年の独自の歴史をもつことを考えれば、それはあまりに当然のことといえよう。しかも東西ヨーロッパをあわせたに等しい広大なインド亜大陸の広がりを考慮するとき、そこに単一の「インド文化」や「インド人の国民性、民族性」を求めることは至難である。

 しかしインドの人々は、自らのよりどころたる各地方ごとの自民族文化に固執する一方で、北方の二辺を山に囲まれ、南方の二辺を海によって限定されたこの広大な大地を、一つの「母なるインド」(バーラト・マーター)として古くから意識してきた。いかに広大ではあれ、この巨大な菱(ひし)形をなす文化地理的単位は、るつぼのように、さまざまに異質な文化を受容しつつ、独自の文化的枠組みを醸成、確立していった。西方からは古くは先史時代の先進農耕・牧畜文化、抽象的な思考を特徴とするアーリア文化、さらにはグレコ・ローマン、ペルシア、中央アジア、イスラムなどの諸文化、より近年はイギリスをはじめとするヨーロッパ文化を次々と受け入れ、また東方からはチベットや東南アジア北西山地などからの文化要素をも受容しつつ、インド独自の文化的枠組みは、崩れるどころか、ますますそのしなやかな構造を複雑にしつつ、内容を豊富にし、しかもインド的な発展を新たに遂げていったのである。

 その際、インドの枠組みにあわぬものは、結局は受容されずに終わるか、もしくは原型をとどめぬほどにインド化した形においてのみ、そしゃくされた。インドはいかなる異質の文化にも積極的な受容の態度をとった一方、その枠組みのもつ同化力はきわめて強靭(きょうじん)である。ことにインドでは、衣食住や思想、芸術などのうえで、異種の文化要素をそのままの形で共存させることをほとんど許すことがない。音楽を例にとれば、インドの音階にそぐわないピアノのような鍵盤(けんばん)楽器はかならずしも定着せず、かえって自在に音をつくれるバイオリンがインド楽曲の演奏用に受け入れられた。女性たちがサリーに固執し、また料理はいわゆる「カリー」に限定されていることも、よく知られている事実である。インド文化の特質の一つによく「寛容性」があげられるが、実はそのオープンな構造は、かならずしもすべてをそのまま受容するというよりも、自らの枠組みにあわせたうえで積極的にそしゃくするというその強靭性にこそ特徴があるといえる。

 またこのしなやかな構造は、外からの異文化に対してのみならず、本来インドがそのうちにあわせもった多種の文化諸類型に対してもその力を発揮する。すなわちそれは、一見両極端にみえるような事象をも、同じ一つのことの両局面とみて許容するからである。たとえば、不殺生、非暴力(アヒンサー)はインドの宗教、思想を通じてよく強調される特徴であるが、一方ではヒンドゥー教シャクティ派寺院などにみられるように、祭時には日に数十頭のヤギが首をはねられ、かつては人身御供(ひとみごくう)まで行われることがあった。無私無欲、徹底した苦行すらが強調される一方では、『カーマスートラ』に典型的にみられるように、徹底した愛欲の追求が是とされた。高度に抽象的な哲学教理は現世利益を願う呪術(じゅじゅつ)的儀礼と共存し、現世は幻であると同時に真であり、色と空、動と静なども結局は不二なる存在としてとらえられることが多かった。

 このようにインドでは、善悪、光陰、正邪のような明確な二元的対比論は概して退けられた。光あっての陰であり、創造あっての死、男あっての女、というように、両者は相補的な関係にあるか、一つのものの両面にすぎないものと考えられ、多様は一元へと収斂(しゅうれん)した。ヒンドゥー教が一元的多神教とよばれるのもこのゆえんである。そしてかかる思潮は、生と死の輪廻(りんね)観、永劫(えいごう)の時間観念、浄・不浄観などとともに、宗教や哲学のみならず、社会、文化、衣食住などの生活のあらゆる局面においても意識され、インド独自の風習を形成しているのをみてとることができる。いわゆるカースト制の原理も、食事慣習、衣服の着用法、家屋敷の配置なども、すべてがこれらの観念によって分かちがたく、一つの生活文化を渾然(こんぜん)と形成している。芸術においても同様であり、かならずしもそれは、文芸、美術、芸能などに、もしくは彫刻、絵画、建築、あるいは音楽、舞踊、演劇などに分かちがたい。ただし一方では、これら一つ一つのジャンルにおける極端なまで微細にわたる分類、細分を行うのもインド文化の特色であるが、それもこの大きな枠組みあってのことであることを忘れてはならない。

[小西正捷]

日本との関係

明治以降の日印関係を文化交流に重点を置いて振り返る場合に、大まかにいって第二次世界大戦以前とそれ以後との2段階に区分しておくのが重要である。

[中村平治]

第二次世界大戦前の日印関係

明治期から太平洋戦争の終わる1945年(昭和20)までは、日本は主として経済面で英領インドから綿花、鉄鉱石を輸入してきた。とくに綿花輸入は1893年(明治26)にボンベイ航路が開設されてから急上昇し、1930年代末、太平洋戦争が始まるまで続けられた。文化交流の面ではベンガルの民族的詩人でノーベル文学賞を得たラビンドラナート・タゴールが来日し、大正末と昭和初期の右傾化が進む日本の思想・文化界に衝撃を与えた。

 そのタゴールは日中戦争の開始とともに日本の「知識人」と絶交するが、その深い意味を受け止めるべき条件は、当時の日本の政界やアカデミズム、言論界には欠落していた。「アジアの指導者である日本」といった軍国主義日本と、植民地的な地位からの脱却を目ざすインドとの間に対話の場は存在しなかった。太平洋戦争期、日本のインド侵略が目前に迫った1943年(昭和18)、インドの風俗・資源の紹介を中心に50冊を超える書物が刊行されたが、インドの民衆が提起する本源的な要求に目を向けていないという点で、すべて紙屑(くず)同然のものでしかなかった。その意味では、文化交流以前の段階に日印関係は置かれ、わずかに矢内原忠雄(やないはらただお)『帝国主義下の印度』(1937)が科学的なインド認識の礎石となっているにすぎない。

[中村平治]

第二次世界大戦後の日印関係

太平洋戦争での日本の敗北と新生インドの誕生とは、日印関係をまったく新しい段階に導いた。経済関係では鉄鉱石輸入が主軸となり、それは日本の高度経済成長を下から支えた。他方で文化・学術面での交流は飛躍的な発展をみせるに至った。

 とくにインドを含めたアジア・アフリカ諸国の独立と革命は、日本の文化・学術のあり方に対しても少なからぬ影響を及ぼした。それは、ヨーロッパ中心主義の日本の文化・学術に対して、内容的にも体制的にも一種の自己批判を迫るものであり、アジア諸国への停滞的な視点の克服を求めるものであった。インドに即していえば、在来の文献学的インド研究、とくに印度学、仏教学の研究分野に加えて、広く人類・考古学、歴史学、経済学の分野からするインド研究の必要性が強調され、事実、その方向での研究蓄積が1960年代以降において日本でなされつつある。

 こうした研究蓄積の背景には、日印双方による学術・文化交流の努力があった事実を見逃すわけにはいかない。すなわち、独立して数年後の1951年からインド政府留学生制度が導入され、日本の研究者はインドで直接学習する条件を確保するに至った。この制度は今日まで継続されているが、国家建設途上のインド政府の払った努力は高く評価されよう。日本側は1950年代末から、インド人留学生を迎える体制を組み、それが続行されて今日に及んでいる。こうした状況に加えて、日印間には学術交流も盛んであり、歴史・考古学、地理学、経済学の諸分野からする学術調査団がインドに派遣され、その業績はインドの学界でも注目されている。これらの調査活動は、インド側の当局者、とくに大学・研究所などの協力なしには不可能の事柄であり、その面で、じかにインド側研究者との交流も大きく発展する時期にきている。

 1970年代の後半以後、タゴールの著作集の刊行を含め、インド音楽、舞踊、映画などの諸領域での交流は一段とその幅を拡大し、厚みを増していることも付言しなければならない。とくに日本の一部には、こうした面で積極的に交流を促進する努力があり、欧米一辺倒の思想・文化状況のなかで注目すべき流れを準備しつつあるといえよう。

 経済関係では、1986年以降日本は最大の援助国である(以下イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、デンマークなど)。1997年までの累計でみると、有償援助が1兆8772億円、無償援助は699億円である。1998年以降は、1998年5月のインド核実験の実施を受け、緊急、人道などを除く新規案件に対する無償資金協力と、新規円借款を停止した。1998年の援助実績は、有償が115億3700万円、無償が3億9800万円であった。2008年は有償2360億4700万円、無償4億2400万円となっている。

 日本にとっては、インドとのバランスのとれた多面的な交流の促進が望まれている。

[中村平治]

『『文化誌世界の国5 インド・南アジア諸国』(1973・講談社)』『織田武雄編『世界地理4 南アジア』(1978・朝倉書店)』『石田寛・中山晴美訳『世界の教科書シリーズ11 インド その国土と人々』(1978・帝国書院)』『中村平治著『南アジア現代史 Ⅰ』(1977・山川出版社)』『大内穂編『インド憲法の基本問題』(1978・アジア経済研究所)』『大内穂編『危機管理国家体制――非常事態下のインド』(1980・アジア経済研究所)』『中村平治著『現代インド政治史研究』(1981・東京大学出版会)』『山口博一編『現代インド政治経済論』(1982・アジア経済研究所)』『佐藤宏ほか編『もっと知りたいインドⅠ』(1989・弘文堂)』『近藤則夫編『現代南アジアの国際関係』(1997・アジア経済研究所)』『堀本武功著『インド現代政治史』(1997・刀水書房)』『近藤則夫編『インド民主主義体制のゆくえ』(2009・アジア経済研究所)』『佐藤宏編『南アジア――経済』(1991・アジア経済研究所)』『伊藤正二・絵所秀紀著『立ち上るインド経済』(1995・日本経済新聞社)』『小島眞著『インド経済がアジアを変える』(1995・PHP研究所)』『小島眞著『インドのソフトウェア産業』(2004・東洋経済新報社)』『小島眞著『タタ財閥』(2008・東洋経済新報社)』『絵所秀紀著『離陸したインド経済』(2008・ミネルヴァ書房)』『三上喜貴著『インドの科学者 頭脳大国への道』(2009・岩波書店)』『辛島昇・奈良康明著『生活の世界歴史5 インドの顔』(1975・河出書房新社)』『山崎元一著『インド社会と新仏教』(1979・刀水書房)』『山折哲雄著『インド・人間』(1980・平河出版社)』『山際素男著『不可触民の道』(1982・三一書房)』『山口博一編『現代インド政治経済論』(1982・アジア経済研究所)』『臼田雅之ほか編『もっと知りたいインドⅡ』(1989・弘文堂)』『佐藤正哲・山崎元一編著『歴史・思想・構造』(1994・明石書店)』『小谷汪之編著『西欧近代との出会い』(1994・明石書店)』『内藤雅雄編著『解放の思想と運動』(1994・明石書店)』『柳沢悠編著『暮らしと経済』(1995・明石書店)』『押川文子編著『フィールドからの現状報告』(1995・明石書店)』『押川文子編著『南アジアの社会変容と女性』(1997・アジア経済研究所)』『田辺明生著『カーストと平等性インド社会の歴史人類学』(2010・東京大学出版会)』『辛島昇編『インド入門』(1977・東京大学出版会)』『小西正捷著『多様のインド世界』(1980・三省堂)』『奈良康明・山折哲雄監修『神と仏の大地インド』(1982・佼成出版社)』『辛島昇編『ドラヴィダの世界――インド入門2』(1994・東京大学出版会)』『小西正捷編『アジア読本・インド』(1997・河出書房新社)』『大形孝平編『日本とインド』(1978・三省堂)』『大形孝平編『日中戦争とインド医療使節団』(1982・三省堂)』


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改訂新版 世界大百科事典 「インド」の意味・わかりやすい解説

インド
India

西はトバカカール山脈,北はカラコルム,ヒマラヤ両山脈,東はアラカン山脈によって画され,南はインド洋に大きく逆三角形状に突出する一大半島部は,アジア大陸の一部ではあるが,亜大陸と呼ぶにふさわしい規模と相対的独立性とをもち,インド亜大陸と呼ばれる。そこは南アジアとも呼ばれ,インド(バーラト),パキスタン・イスラム共和国,バングラデシュ人民共和国,ネパール王国,ブータンスリランカ民主社会主義共和国およびインド洋上のモルジブ共和国の7ヵ国からなる(現代の各国についてはそれぞれの項を参照)。その総面積は449万km2で,旧ソ連邦を除くヨーロッパ大陸の494万km2にほぼ匹敵する。人口は約12億5000万人(1996)で,世界人口の約21%に達し,中国と並ぶ人口の集住地帯をなす。このうちインド(バーラト)だけで,亜大陸面積の73%,人口の76%を占めている。

インド亜大陸は,大陸部と島嶼部とに大別される。大陸部の地形は,(1)デカン高原,(2)北方の第三紀褶曲山脈帯,(3)両者の間のインダス・ガンガー(ガンジス)流域平野,(4)インド半島両岸の海岸平野,の四つに分かれる。

 デカン高原の北限は,アラバリ山脈,デリー市南方,ラジマハール丘陵を結ぶ線にあたる。デカン高原の地質は,先カンブリア時代の片麻岩・花コウ岩層を基盤とし,北西部では白亜紀以降の断層運動の際に噴出した玄武岩台地(デカン・トラップ)をのせている。この玄武岩の風化土がレグール(熱帯黒色土壌)と呼ばれる肥沃な黒色土である。デカン・トラップより南に向かうにつれて,土壌はラテライト化した赤色土が多くなっていく。デカン高原は,両端を西および東の両ガーツ山脈が走り,周縁部が高くなった楯状地をなす。標高は前者が1000~1500m,後者が500~600mであって,全体として西高東低の傾動性地塊をなしている。このため高原上を流れる河川は,西ガーツ山脈に水源をもちベンガル湾に向けて東流する。

 第三紀褶曲山脈帯は,アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する。ここは中生代まではテティス海であった。主として第三紀にはいってから,ゴンドワナ大陸から分離し北へと漂移したデカン高原の安定陸塊に対して,アジア大陸からの横圧力が働き,それによる造山運動に伴う褶曲作用がその成因である。ヒマラヤ山脈はその主脈で,南から順にシワリク丘陵,小ヒマラヤ山脈(標高2000~3000m),大ヒマラヤ山脈(6000m以上)と移行していく。

 インダス・ガンガー流域平野は,アラビア海のインダス河口デルタから,パンジャーブ,ヒンドゥスターン両平原を経て,ベンガル湾のガンガー・ブラフマプトラ河口デルタへと至る弧状の大沖積平野である。ここは,デカン高原と第三紀褶曲山脈帯とにはさまれた大地向斜帯(褶曲の凹部)にあたり,前記の三大河川水系からの莫大な土砂堆積によって形成された。堆積層は厚く,場所による変動はあるが,深さ2000m以上にも達することがある。平原上はきわめて低平で,ガンガー河口から約1500kmへだたったデリーの標高は216mにすぎない。

 海岸平野はインド半島西岸のマラバル,同東岸のコロマンデル両海岸に沿って延びる。ともに狭長で海岸線も単調である。東岸部では,デカン高原上から流下する諸河川が河口部に大きなデルタを形成する。

 一方,島嶼部はセイロン島,ミャンマーのアラカン山脈から大スンダ列島へと連なる第三紀褶曲山脈列上に位置するアンダマン,ニコバル両諸島,およびサンゴ礁からなるラカディーブ,モルジブ両諸島を主とする。このうちセイロン島は,第三紀の形成になる北西部の平たん地帯を除いて,デカン高原南端部と同じ性格の安定陸塊を基盤としている。

インド亜大陸は典型的なモンスーン気候帯に属している。そこでは気温の変化よりも,卓越風向の転換による雨季と乾季の変化が季節を生み出す。北インドを例にとれば,3~5月:プレモンスーン期(その末期が最も暑い),6~9月:南西モンスーン期(雨季),10~11月:ポストモンスーン期,12~2月:北東モンスーン期(乾季)の4期に分かれる。このうち最も重要なのは南西モンスーンである。インド洋上で多湿となった赤道西風が,6月ごろヒマラヤ山脈周辺を北上するいわゆるモンスーン・トラフmonsoon trough(北熱帯低圧部NITCにあたる)に引き寄せられて北東へと方向を転じる。赤道西風が西ガーツ山脈にぶつかって西海岸に大量の雨を降らせて後,ベンガル湾にはいる。そこで同湾を北上してきた気塊と合体して,アッサムからヒマラヤ山脈沿いにヒンドゥスターン平原を北西上するのが,南西モンスーンである。したがって西ガーツ山脈の山陰にあたるため比較的乾燥したデカン高原西部地方を除くと,南西モンスーンが早く到来する所ほど,雨季が長く降水量も大となる。南西モンスーンの開始日と後退日は,マラバル海岸南端部では5月末と11月下旬,カルカッタ(現,コルカタ)周辺では6月上旬と10月上旬,デリー周辺では6月下旬と9月中旬となる。年降水量も,それぞれ3000mm以上,約1600mm,約700mmとなる。ベンガル湾頭から北西上するとき,南西モンスーンは,デカン高原の西高東低の非対称性地形に助けられて,内陸部に広く雨をもたらす。しかしインダス川の中・下流域になると,南西モンスーンの雨も極端に少なくなり,タール砂漠が広がる。その西方は西アジアにつづく乾燥地帯に属し,そこでは冬に少ない雨が地中海方面からくる低気圧(西方攪乱)によりもたらされる。

 北東モンスーンは,ヒマラヤ山脈が障壁となるため,南西モンスーンに比べて弱い。ベンガル湾を通過した北東モンスーンが吹く南インドの南東部,セイロン島北東部を除くと,この時期のインド亜大陸はほぼ全域的に乾季となる。

インド亜大陸の最も重要な産業は農業である。亜大陸の農業は,北インドでは,ほぼ南西モンスーン期を作期とするカリフkharifと10~4月の乾季を作期とするラビrabiに大別される。ラビ作の主要作物は小麦,大麦などの麦類と菜種などの油料作物を主とし,残りの重要作物はカリフ作に属している。米,トウモロコシ,モロコシ,トウジンビエ,シコクビエなどの雑穀はカリフ作の主穀作物である。そのためカリフ作の豊凶に亜大陸の農業は依存している。しかし南西モンスーンは,その開始日,降水間隔(間隔が長期になるといわゆるモンスーン・ブレークmonsoon breakとなる),降水量などが年により変動し,不安定である。このためインド亜大陸の農業は,〈モンスーンの賭〉と呼ばれる。

 作物の分布をみれば,米は年降水量1200mm以上線以東の夏雨型地帯に多く,東・西海岸平野とベンガル湾頭から北西に三角形状に延びている。同じく夏雨型でも降水量の少ないデカン高原はトウジンビエ(タール砂漠に近い乾燥地帯),モロコシ(黒色土地帯に対応し,北部では綿花地帯と重合している),シコクビエ(南端の赤色土地帯)の生産地である。これらの北西方にあたる冬雨がかったガンガー川上流域からアフガニスタン国境部にかけて,小麦の生産地帯が広がっている。以上の主穀作地帯では,ヒヨコマメや緑豆類などの豆類の作付けも多く,雑穀作の場合には同じ畑に混播・間作形式で栽培される。

 インド亜大陸諸国とりわけインドでは,独立以後の国家建設の目標を工業化と並んで〈農業国でありながら,増大する人口に追いつけない食料生産〉という矛盾の打開においてきた。そのため土地改革と並んで,灌漑化,優良品種・化学肥料の供給などの諸政策を講じてきた。とりわけ大規模な多目的ダムによる河川灌漑また井戸灌漑の拡充が重視されてきた。しかし全耕地面積に占める灌漑面積の割合は,インドでは29%(1978)にすぎない。亜大陸の伝統的な灌漑形式は,インダス・ガンガー流域平原の河川灌漑に対してデカン高原の溜池灌漑であった。ヒマラヤ山系から流下する河川は,南西モンスーンの雨だけでなく融雪水も水源としうるので,流量の季節差は南インドの諸河川より小さい。そのため旧英領時代,独立以後を通じて,パンジャーブ,シンド,ウッタル・プラデーシュ西部では大規模な灌漑用水路の建設が進められてきた。現在そこは世界有数の灌漑農業地帯となっている。1960年代末からの〈緑の革命Green Revolution〉が最も成功したのはこの一帯であり,カリフ作の米とラビ作の小麦の相互乗入れによる米麦二毛作の拡大がみられる。

 主穀と綿花以外の重要農作物としてサトウキビがある。サトウキビの作期は12ヵ月以上と長く,灌漑なしには栽培できない。インド亜大陸は世界最大のサトウキビ産地であるが,その多くは村で粗糖に加工されて消費される。そのほかアッサムやスリランカ山地部の茶,西ガーツ山脈南部のコーヒー,コショウなどのプランテーション農業がある。

インド亜大陸諸国はいずれも非産油発展途上国にあたり,中東諸国からの大幅な入超に苦しんでいる。石油・天然ガスの資源探査が進められた結果,インドではアッサムと西海岸のキャンベイ湾周辺で油田が,またパキスタンでは北西辺境地方東部で油田,シンド地方で天然ガス田が発見・開発されている。しかし国産エネルギーの中心は石炭で,インド北東部のダモーダル炭田は世界有数の埋蔵量をもつ。農村での燃料としては乾燥牛糞が広く使用され,乾燥地帯では唯一の燃料源となっている。その他の鉱産資源では,オリッサ州北東部とゴアの鉄鉱石がある。

17世紀にはインド亜大陸は,世界における綿・絹工業の中心であった。その伝統は今も各種の農村工業・家内工業に残っている。第2次大戦前の主要な近代工業は,19世紀中期にさかのぼるカルカッタのジュート工業,ボンベイ(現,ムンバイー)やアフマダーバードの綿工業,および1911年創立のジャムシェドプルの製鉄業などにすぎなかった。第2次大戦中には非鉄金属,機械,化学肥料,薬品などの諸工業が各地に成立した。これを引き継いで独立以後,各国は数次の五ヵ年計画により工業化を推進した。インドを例にとれば,1950-51年を100とした1977-78年の生産指数は,銑鉄563,電力1739,窒素肥料2万2367,自動車508,綿糸211,綿布193となっている。その結果インドやパキスタンでは,工業は国民総生産の15%(1979)を占めるにいたったが,その比率はなお農業の半分以下である。各国とも工業の大都市への地域的集中ははげしく,インドではボンベイをもつマハーラーシュトラ,カルカッタをもつ西ベンガル,アフマダーバードをもつグジャラート,マドラス(現,チェンナイ)をもつタミル・ナードゥの上位4州で工業生産額の55%(1976)を占めている。パキスタンでも最大都市カラチ周辺に集中している。
執筆者:

インド亜大陸は,その自然環境のみならず,そこに住む諸民族の社会・文化が織りなす複雑さの点でも,他に類例をみないほどの驚くべき多様な世界を呈示している。

 この多様性は,この亜大陸の独特な地理的位置と,この地を舞台として繰り広げられた長い歴史とにまずその理由を求めることができよう。有史以前から,数多くの民族移動の波が相次いでこの地に打ち寄せてきた。類型は必ずしも明確に区分できないが,人種的には,ベッドイド,ニグロイド,モンゴロイド,コーカソイドの大きな人種型がこの地に併存し,また混交している。歴史的にみると,まず有史以前の先住民としてニグロイド型とベッドイド型の人種が存在した。後者は,インド半島全域に広がっていたものと推察されている。その上に,西北方から侵入してきたコーカソイド型の人種がいくつもの波となって重なり広がっていた。インダス文明(前2300-前1800)を形成した人びとの中に多数のこの型の人種が含まれている。また,インド・アーリヤ族(前1500-前1200ころに侵入)はこの型の別の種族であった。ベッドイド型の人種は,今日ではスリランカ南部,インド南部の森林地帯の少数部族,さらにインド中部の丘陵地帯の多くの部族にその特質がみられる。ニグロイド型は,典型的な形質ではインド亜大陸内部には見いだされず,わずかにアンダマン諸島民の中に存在している。一方,インド北部の大部分の地域とパキスタンにかけてはコーカソイド型が多数で,南インドの大部分の住民も基本的にこの型に属するとされている。最後に,モンゴロイド型はヒマラヤ地域とこれに隣接するインド東北部に分布が集中していて,インド半島部にはその痕跡はない。

 地理的な特徴をみると,インド亜大陸は峻険な山脈によって区切られ,広大な海によって囲まれて,他とは隔絶したひとつの巨大な閉鎖空間を形づくっている。すなわち,半島部の東西にはベンガル湾とアラビア海,南にはインド洋をひかえ,内陸部の北には雪峰の連なるヒマラヤ山脈が何重もの大きな壁を形成し,またその東西に走る支脈が,亜大陸を外から包みこむ形に広がっている。陸路を通ってこの地に入るには,西北あるいは東北のわずかなルートしか存在しなかった。これらの経路から侵入してきた各民族は,ほとんどの場合,彼らの本来の根拠地との密な連絡をもはやもつことなく,亜大陸の中に定住してゆく。各民族は,その人種的・文化的な性格を保ちながらも,他民族と混住し,相互に影響を及ぼしつつ共存していった。わずかの例外(たとえば,東南アジアへの移住)を除いては,この地からの他地域への進出はなかったといってよい。かくして,この地域はひとつの文化圏として独自の文化の形成と発展をはぐくんでゆくこととなった。

 現在のインド亜大陸の文化の多様性を最もよく表しているのは,この地域で使用されている言語の数の驚くべき多さである。たとえばインド(バーラト)の1961年度の国勢調査では,人々が自分の母語としてあげる言語の数は,実に1500を超える。話者人口が100万を超える言語だけでも33を数える。これらの言語は,言語学の系統分類の上では,インド・アーリヤ系,ドラビダ系,アウストロアジア系,チベット・ビルマ系の諸言語に分かれる。これらの現在の使用地域の概要は,最も話者人口の多いインド・アーリヤ系諸言語は,北インド全域,中部インド,パキスタン,バングラデシュ,スリランカで用いられ,次いでドラビダ系は南インドの全域で,アウストロアジア系は中部インド丘陵地帯の諸部族に,またチベット・ビルマ系諸語はヒマラヤ地域とインドの東北部山地諸部族でそれぞれ用いられている。ちなみに,先述の人種区分と言語集団との間には必ずしも一致した関係は見いだされない。その理由は,歴史の長い歩みの中で諸民族間の相互影響,混交が起こってきたからである。たとえば,南インドにおいては,ほぼ全域にわたってドラビダ系諸語が用いられ,これは形質遺伝の特性や民族のいかんにかかわらない。また,ベッドイド型人種に属するとされる中部インドのゴンド族の一部などはインド・アーリヤ系の言語を用いている。インド(バーラト)では,インド・アーリヤ語系のヒンディー語への国語化政策が進められており,現在はヒンディー語と英語が公用語とされている。ただし,1971年度国勢調査ではヒンディー語を母語とする人口は全体の約25%である。各地域の言語と公用語とのバイリンガル(二重言語併用)現象は当面避けられないであろう。

 宗教面にもこの地域の多様性は容易に見てとれる。インドを例にとると,ヒンドゥー教,シク教,ジャイナ教,仏教があり,またそのほかに各部族のそれぞれの宗教形式がある。中世以降に流入,伝播したものは,イスラムとキリスト教がおもなものである。これらの中でヒンドゥー教徒は,全体の約83%と圧倒的多数を占める。ヒンドゥー教の信仰とこれを基盤とする生活慣習は,インド亜大陸の住民の社会と文化に統一的な特徴を与えているということができる。他の諸宗教の人口分布が地域的にほぼ限定されたまとまりをもつのに対し,ヒンドゥー教はインドの全域にわたる広がりをもっている。ヒンドゥー教とは,侵入民族であるアーリヤ人が定着して社会の上層階級として統治を進める過程で,彼らの宗教形式と先住民族のそれとが融合されてしだいに形成されたもので,人びとの生活様式の全般にわたって規制をする点に特色がある。この意味で,ヒンドゥー教は言語,人種などを異にする多様な社会集団の文化にひとつの特色ある統一性を付与している。

 ヒンドゥー教と不可分に結びつくのが社会制度としてのカースト制である。独自の伝統文化を保持する,部族諸社会を除いて,亜大陸のほとんどすべての社会は,程度の差はあれ,カースト制の原理のもとにあるといってよい。その典型がヒンドゥー教社会である。ヒンドゥー教徒は生れによってヒンドゥーとなるのであり,社会的には多数のカースト集団のいずれかに帰属する。カースト制においては,人は生れによってカースト小集団(ジャーティ)に所属し,この地位は一生変わらない。ジャーティ集団は厳格な内婚制をとり,その成員の他集団との婚姻関係を認めない閉鎖性をもつ。経済的には,各ジャーティ集団には世襲の定まったひとつの専門職業があり,一定の地域社会の中で他の諸ジャーティと経済的に相互依存の関係に立つ。一方,宗教的には,〈浄〉〈不浄〉の観念に基づく上下の序列関係が諸ジャーティの間に設けられ,共同飲食の禁忌などの相互接触の規制が厳しく立てられる。社会・経済・宗教の三つのカテゴリー区分に基づくカースト制の枠組みは,すべてのヒンドゥー農村地域に共通している。さらにこの社会構造はヒンドゥー教社会に隣接する他の社会にも広く影響を及ぼしている。たとえば,パキスタンなどのイスラム村落社会でも基本的にはカースト的な社会構造が見いだされる。この意味で,ヒンドゥー教ならびにカースト制は,インド亜大陸に〈インド世界〉と呼ばれうる統一性を与えるものということができる。

 伝統的な〈インド世界〉の人々の思考枠組みは,自己の属するカースト集団とその集合体としての地域社会と文化の中に限られてきた。しかし,近代教育の普及や近代的職業の形成などによって,一方では,カースト制の変化の兆しも現れてきている。とりわけ,都市を中心とする新しい知識層(官僚,産業界・学界の指導層など)とこれまでになかった中産階級の形成は,地域的なカースト制の枠を越えたつながりをつくりだし,また,都市労働者の間にはカースト制に基づく行動様式に変化が起こりつつある。徐々にではあるが,伝統的なインド社会のあり方は形を変えてゆきつつある。
執筆者:

インド亜大陸は,過去数千年の間に見られた大規模な民族移動の主要な経路の一つの上に位置するため,古くから多数の人種・民族の波を迎えてきた。その結果,インド亜大陸で話される言語は,そこに到来した人種それぞれのもたらしたもの,およびそれら相互の接触から生じた言語が併存・干渉し,地理的にも社会的にも複雑な分布を示している。すなわち,

(1)アフリカから来て,アンダマン諸島,マレー半島方面に進んだネグリト系種族は,大集団としてインド亜大陸に定住することはなかったが,次に来た人種の言語に影響を与えている。

(2)次いで,地中海地方の種族の一支派でパレスティナ地方からやって来たとされる種族の言語にネグリト族の言語の影響が及び,アウストロアジア系の言語(アウストロアジア語族)となった。古くは広い地域に分布したらしいが,今日では中部と東部のインド,バングラデシュなどの山岳・丘陵地帯で,数万人から1万人ぐらいの少数部族民により話される言語となっている(サンタール語,カーシ語など)。インド亜大陸の総人口の1.3%を占める。

(3)3番目には,地中海地域から前3500年ごろにドラビダ族がインダス川流域に到達し,高度の都市文明を築いた。彼らはやがて,次に来たアーリヤ族に押されて南インドに下り,彼らの言語が分化してタミル語,テルグ語などになったが,ブラーフーイー語のように,もとのバルーチスターンに残存している場合もある。この系統の言語(ドラビダ語族)には千万人単位の話者人口をもつものが四つあり,全人口の21%を占める。

(4)4番目の種族は,チベット・ビルマ方面から入って来た人たちで,彼らのチベット・ビルマ語派系の言語はヒマラヤ山系と東北インド,バングラデシュの山岳・丘陵地帯に分布し,数十万人から1万人弱の少数部族民により話されている(ネワール語,マニプリー語など)。全人口の0.85%。

(5)5番目にインドに入って来たのは,ウラル山脈南方に源をもつ種族で,このうち前1500年ころにインドに定着した支派はインド・アーリヤ族といわれる。先住の諸種族を南部および周辺部に押し出し,南インドを除くインド亜大陸のほぼ全域に居住する。この種族の言語はインド・アーリヤ語といわれ,歴史的にベーダ語,サンスクリット語,諸プラークリット語,諸アパブランシャ語などの段階を経てしだいに分化し,10~13世紀ころには今日の北インドの主要な民族語を生み出すこととなった。ヒンディー語,ベンガル語,マラーティー語などがそれで,それぞれ数百万人から1億人の話者人口をもち,全人口の73%を占める(インド語派)。

 インド亜大陸にはこのように,5系統の種族が次々と移動して来て,あるいは通過し,多くはそこに定住して,相互に影響を及ぼし合った。このことに関する例を,先住諸種族の言語が,後から来たインド・アーリヤ族の言語に与えた影響という観点に限定してあげれば,ガンガー川の意の〈ガンガー〉という語は,アウストロアジア語系諸族が〈川,水路〉の意に用いた普通名詞であったし,インド・アーリヤ系の言語に早くから認められた反舌音はドラビダ系言語の特徴を受け入れたものであり,屈折語であったインド・アーリヤ語系の言語が今日では膠着語のような側面をもつようになったのは,内的変化のほかにドラビダ諸語の影響もあったと考えられる。

 上述のような歴史の過程から生じた今日のインドの言語事情が,かなり複雑であろうことは十分に予測される。北インドの俚謡に,〈4里(コース)ごとに水が変わり,8里行けば言葉が変わる〉というのがあり,イギリス統治下のインドの言語・方言を調査したグリアソンG.A.Griersonによれば,インドには179の言語と544の方言があるとされるのは,言語分布の複雑さを裏づけるものといえなくはない。しかしながら,先の俚謡は,同じ言語(方言)を話す人々の間でも,表現の微妙かつ部分的な差異に着目したときにしばしばなされる誇張であり,グリアソンのあげる179の言語のうち実に116は話者人口の比率が0.85%にすぎないシナ・チベット語族に属している。こういう心情的な誇張や数字の絶対化を除外して考えるなら,話者人口が多く文化的に重要な民族語は,インド(バーラト)ではヒンディー語ベンガル語,オリヤー語,アッサミー語,カシミーリー語,パンジャービー語,マラーティー語,グジャラーティー語,シンディー語(以上インド・アーリヤ語族),タミル語テルグ語,カンナダ語,マラヤーラム語(以上ドラビダ語族)の13,パキスタン・イスラム共和国ではパンジャービー語,ラフンダー語,シンディー語,バルーチー語の4,バングラデシュ人民共和国ではベンガル語のみ,ネパール王国ではネパール語とネワール語の2,スリランカ民主社会主義共和国ではシンハラ語とタミル語の2である。とはいえ,少数者の言語の一つとされるサンタール語は300万人の母語であり,いまはインドにほとんどいないネグリト族の言語もインドの言語の形成に少なからぬ貢献をしていること,および数万人という単位の話者をもつにすぎない言語に固有の民謡・民話などが伝えられていることに思いをいたすなら,話者人口が相対的に少なく,現時点で強力な文化的勢力をもたない言語といえども,ないがしろにすることはできない。

 上掲の言語を表記する文字は,インド,バングラデシュ,ネパール,スリランカにおいてはブラーフミー文字系統であり,パキスタンではアラム文字系統のアラビア文字を一部改めたものが使われている。少数部族民の言語は,上記の有力な文字のどれかを採る場合と,ローマ字を採る場合がある。

 これらの民族語とは別に,公用語,文化語などが民族語と一部で重なりながら存在する。サンスクリットは,バラモン文化の有力な媒体の一つとして今なおインド亜大陸の多くの地域で重んじられている。ペルシア語,アラビア語はこの地域のイスラム文化を担う人々には欠かせない存在であり,ヒンディー語のもとになった方言にペルシア語,アラビア語の語彙が取り入れられてできたウルドゥー語は,パキスタンの公用語であるほかインドの文化語でもある。英語は旧統治国イギリスの言語であるが,インド亜大陸の地域間の交流の媒体として今なおエリート層に重んじられ,亜大陸の国政・教育・文化などの面で機能しているので,単なる外国語とすることはできない。

 インド亜大陸内での人と物の往来が密になるにつれて,言語間の接触の機会が増えてくる。その結果,少数民族の構成員は周囲の有力な言語を併用し,有力な言語の使用者も出身地を離れて生活するときは行先の言語を併用する。出身地を異にする大集団を抱えこむ大・中の都市では,そこでの共通語のほかに各集団の民族語も日常生活で使われているので,デリーの市内でベンガル語,タミル語などの文字で書いた看板を見ることがある。これは,都市においても出身地域(民族)を同じくする人々が自分たちの集落を形成することがあるためで,民族語の観点からはモザイク状の分布を示すことになる。

 インド亜大陸の言語の中には,社会的な方言の差異をもつものがある。すなわち同じ村の中でも,北インドのヒンディー語圏では〈不可触民〉とその上の諸ジャーティの方言との間に音韻体系のような基本的な点で著しい違いがあり,南インドのカンナダ語圏では,バラモンとその下の諸ジャーティの方言の間に大きな差異がある。これらは,同じ地域にあっても社会が身分・階層により区切られ,また各集団が独自の生活習慣と価値基準を保持するべく志向しているためである。
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1921年にインダス川の流域において本格的な発掘が開始され,前2300-前1800年を中心に,現在のパキスタン領内のモヘンジョ・ダロとハラッパーを二大中心地として,高度に発達した都市文明が栄えていたことが明らかとなった。その出土品の中には当時の宗教や慣習を暗示しているものがあり,インダス文明の担い手は母神崇拝,樹神崇拝,動物崇拝,性器崇拝などを行い,ヨーガの修行や沐浴を実践していた可能性があるが,このインドの最初期の宗教に関しては推測の域を出ない。

 この文明の終末とほぼ同じころ,アーリヤ人ヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドに進入し,この文明の遺跡に近いパンジャーブ地方に定着して,前1200年を中心に《リグ・ベーダ》を編纂した。その後,前500年ころまでに主要なベーダ聖典が編纂され,いわゆるバラモン教の根本聖典が成立した。《リグ・ベーダ》の宗教は多神教であり,主として太陽神や火神などの自然神や司法神バルナ(水天)や武勇神インドラ(帝釈天)のような擬人化された神々が崇拝されている。しかし神殿や神像を用いず,祭主の家の中か草の生えている平地などに祭壇を設け,祭火を燃やし,神を勧請し,祭菓,動物(多くは牡ヤギ)の犠牲,神酒ソーマを供えて,神を喜ばせ,その報酬として勝利,子孫・家畜の増加,長寿を得ようと願った。祭式の規定はしだいに複雑化し,それとともに祭式万能主義的風潮を生み,それをつかさどるバラモン階級は最高位を占めるにいたった。しかしやがてそのバラモン中心の制度が崩壊していくが,それから起こる不安感から,厭世的気運が醸成され,苦行主義が広まった。かつて祭式に与えられた位置が苦行に与えられ,神秘的・瞑想的知識が重視され,祭式行為も内面化され,ついにベーダ聖典の終結部を成すウパニシャッドとして結実し,宇宙の根本原理であるブラフマンと個人存在の本体であるアートマンとは同一であるとする梵我一如の思想を生み出した。またウパニシャッドにおいては輪廻と業の思想が成立し,前7,前6世紀には急速に人々の間に広まった。

 このようなバラモン教の動向と社会変動を背景に,前6,前5世紀ころ多くの反バラモン教的自由思想家たちが輩出したが,その中でも共にクシャトリヤ階級出身のマハービーラとゴータマ・ブッダがそれぞれジャイナ教と仏教を創始し,勢力を拡大した。ジャイナ教はベーダを否定する無神論的多元論に立脚し,四姓制度を認めず,不殺生を強調し,苦行主義をとり,業を滅して解脱を求めるべきことを説いた。ジャイナ教はインド国内にとどまったが,今日に至るまでその勢力を保持し続けている。一方,仏教は形而上学的諸問題を,益なきこととしてその論争に参加せず,論争を超越し,人間の真に生きるべき道である法dharmaを追求した。いっさいは苦であると認識し,その根源を妄執(タンハーtaṇhā,渇愛)に見いだし,その妄執を断じて涅槃を実現するようにすすめた。四姓制度を否認し,苦行主義を捨てて八正道すなわち中道の実践を説いた。仏教はアショーカ王の保護のもとに,国外にも伝播し,多くの異なった解釈を生み,たくさんの部派に分かれ,ジャイナ教と異なって複雑多様な展開の跡を示すが,しだいに保守的傾向を強めていった。他方,前1世紀ころから,仏陀を信仰の中心に置いて,仏徳をたたえ,菩薩行を説く新しい運動が主として在家の信者の間から起こり,彼らは旧来の仏教を小乗と貶称し,自ら大乗と称し,膨大な大乗経典を編纂し,民衆の支持を得てその勢力は内外に及び,遠く日本にまで達した。しかし7世紀以降,相対的にその勢力は低下し,ヒンドゥー教の勢力が伸張する中で,8世紀になると密教が成立し,しだいにインドの土着的要素やタントリズムとしてのヒンドゥー教と融合していくうちに独自性を失い,ついにイスラム教徒のために,1203年,仏教の一大中心地であったビクラマシラー寺を破壊され,仏教修行者の拠点を失って,インド社会の表面から消滅した。

 ヒンドゥー教は,広義には,バラモン教をも含むが,狭義には,およそ前3,前2世紀に,まだ仏教が有力であったころから,土着の信仰・習俗などの諸要素をバラモン教の中に包摂し,新しい宗教として徐々に成立してきた複雑な複合体をいう。その崇拝の対象は多種多様であり,強大な勢力をもつ神々から山川草木に至るまでが対象となる。ベーダ聖典において有力であった神々は退き,ブラフマー(梵天),ビシュヌ,シバの三大神格を中心に展開したが,ブラフマーは中世以降多くの信者を得ることができなかった。しかしビシュヌはラクシュミーを神妃として化身(アバターラavatāra)の理論によってクリシュナ信仰やラーマ信仰や仏教をも包摂した。シバは,恐ろしいカーリーあるいはドゥルガー女神と同一視されるパールバティーを神妃とし,南インドではナタラージャとして,また広く男根リンガとして崇拝される。これらの神々を中心に宗派間の対立も見られるが,三神は一体であるという思想も現れた。またシバ神の神妃の性力シャクティの崇拝は,タントリズムの重要な要素を占め,中世以降のヒンドゥー教に特色を与えている。また牛などの動物,トゥルシーなどの草木,ガンガー川などの河川やワーラーナシーなどの聖地の崇拝も行われている。儀礼としてはベーダの犠牲祭(ヤジュニャyajña)に代わって供養(プージャーpūjā)が行われ,神々は神像の形で礼拝され,あたかもたいせつな客人のように扱われ,足を洗う水,香華,灯火,穀物などを供えられ,さまざまな供養を受ける。全国的な規模で行われる祭礼には春の祭りホーリーや収穫祭ディーワーリーなどがある。聖典としては,ベーダ聖典がシュルティ(天啓聖典)として最も権威あるものとされ,そのほかに《バガバッドギーター》を含む《マハーバーラタ》と《ラーマーヤナ》という二大国民的叙事詩,プラーナ文献,《マヌ法典》などの多数の法典類がスムリティ(聖伝文学)として尊重される。また高度の哲学的・神学的思弁を示す哲学的諸文献群や各宗派の聖典であるサンヒター,アーガマ,タントラなど重要な文献が多数作成された。ヒンドゥー教ではあらゆる種類の,しばしば相矛盾した思想・教義も説かれているが,中心的な思想はウパニシャッド以来の業・輪廻・解脱であり,輪廻からの解脱が人生の四大目標の中でも最高の目標と見なされている。四姓制度と結合したカースト制度や学生期をはじめとする四生活期(アーシュラマ)の制度はヒンドゥー社会を特色づけている。

 イスラム教徒(ムスリム)のインド侵入は8世紀ころにまでさかのぼることができるが,初めはヒンドゥー教のインドになんらかの痕跡を残すようなものではなかった。しかし11世紀以後に北インドに侵入したイスラム教徒は略奪,放火,破壊をほしいままにし,1206年インドに初めてイスラム王朝(奴隷王朝,1206-90)が成立し,1857年ムガル帝国が滅亡にいたるまでの約650年間,インドはムスリム政権の支配下に置かれた。しかしヒンドゥー教徒は,他の地域では見られないほど,宗教的にも社会的にも自由であったといわれている。それにもかかわらずムスリム人口の約9割はヒンドゥー教からの改宗者であったといわれ,大規模な改宗は15,16世紀に起こったようであり,改宗の理由はムスリム政権の確立と拡大などがあげられるが,最大の理由はカースト制度であったといわれている。外来の宗教の中で,絶対唯一神アッラーを崇拝する一神教であり,カースト制度を否認し,偶像崇拝を排するイスラムほどインドの社会や思想などに,大きな影響を与えたものはない。またイスラムについてみると,正統派ウラマーよりも,神と人間の一体性を説き,異端視されていたイスラム神秘主義者スーフィーたちの方がはるかに広く深い影響を与えた。スーフィー教団としてはチシュティー教団,スフラワルディー教団,カーディリー教団,ナクシュバンディー教団という正規の四大教団のほかに,変則的な教団や未組織の教団などもある。イスラムの浸透は,ヒンドゥー教の側に改革思想が生まれる契機となり,15世紀末偶像崇拝やカースト制度に反対する,ヒンドゥー教とイスラムとの混交した宗教であるシク教がナーナクによって創始された。

 キリスト教のインドへの伝播はかなり古い時代にさかのぼり,伝説では十二使徒の一人聖トマスがマドラス地方に伝道し,72年にマイラポールで殉死したといわれる。6世紀までにはシリアのネストリウス派のキリスト教徒がコーチンに来住し,現在もその伝統は存続しているが,その大部分はローマ教会に属している。ローマ・カトリックは1510年にゴアに定住したポルトガル人によって西部インドに伝えられた。17世紀にはプロテスタント宣教師が南インドに入った。また遅くとも10世紀ころまでにはユダヤ教徒がコーチンに来住した。また8世紀にアラブの支配から逃れて,ペルシアからインドに移住したパールシーPārsīと呼ばれるゾロアスター教徒もおり,17世紀以降インドにおけるイギリス勢力の拡大に伴って彼らの社会的・経済的活動は活発になっていった。19世紀以降,キリスト教宣教師の活動や西洋思想の移入の刺激を受けて,ヒンドゥー教徒の間に,ブラフマ・サマージ,アーリヤ・サマージなどの宗教・社会改革運動が起こったが,1875年にニューヨークに設立され,82年にその本部がマドラスに移された神智学協会の活躍も見のがせない。このほかに種々の部族の中で信仰されている諸宗教も存在する。1971年の国勢調査によると,インド(バーラト)の宗教別人口は次の通りである。

ヒンドゥー教徒 4億5329万   (82.7%)

イスラム教徒 6142万     (11.2%)

キリスト教徒 1422万      (2.6%)

シク教徒 1038万        (1.9%)

仏教徒 381万         (0.7%)

ジャイナ教徒 260万      (0.5%)

その他(パールシー,ユダヤ教徒など)

              222万(0.4%)

          計5億4795万

注目を引くのは仏教徒の人口である。1951年から61年の10年間に18万人から325万6000人に急上昇し,71年にはジャイナ教徒の数を凌駕するにいたったが,これは不可触民の間に四姓平等を説く仏教を広めようとした不可触民出身のアンベードカル(1891-1956)のネオ・ブッディスト(新仏教徒)運動によるのである。
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インドの政治と法律については,歴史の上からヒンドゥー,ムスリム(イスラム教徒),イギリス(植民地時代)の三つの制度に分けて述べるのが便宜である。

ヒンドゥーの古代国家は前6,前5世紀にガンガー中流域で形成された。王は農業の拡大を背景として権力を増し,それまでの部族的束縛を破って,都城を築き,自己の軍隊と官吏をもって領域を支配した。その中でマガダ国は近隣諸国を併合して最も有力な国家となり,その国家体制を完成させたのがマウリヤ朝の古代統一国家である。この発展過程で,ヒマラヤから大洋に至る広大なインド亜大陸はひとつの世界として意識され,ひとりの国王(チャクラバルティンCakravartin,転輪聖王(てんりんじようおう))が支配するのが理想とされた。だがマウリヤ帝国以後,グプタ帝国などの強大な王国が見られたが,南北インドを統一支配するヒンドゥー国家は出現せず,諸王朝の分立割拠が一般的状況となり,各王朝はそれぞれ地方の社会と文化と密着したものとなった。

 インドで政治・法律に関する著作が始まるのはマガダ国の拡大のころであって,2種の文献がバラモンによって作られた。その1種は領土の獲得と統治の指導書で,行政,司法,外交,軍事の広範な問題について原理と具体的施策を示したものである。それらは今日ほとんど残っていないが,唯一の文献はマウリヤ帝国の宰相カウティリヤの著作と伝えられる《実利論(アルタシャーストラ)》で,諸論著を集大成した傑作である。他の1種はダルマ・シャーストラ(法典)と呼ばれ,宗教的義務や生活規範ばかりでなく,王の職務や法律を規定し,《マヌ法典》がその最も有名なものであり,《実利論》よりも後世に大きな影響を与えた。これらの古典によれば,クシャトリヤたる王はバラモンの補佐を受けて統治し,国土と人民を保護し,その報酬として租税を享受する。王の職務として強調されたのは,太古から伝えられた法を実践し,とくにバルナ(種姓)の混乱を防ぎ,バルナによる社会秩序を維持し確立することであった。王の地位は世襲的であるが,長男子継承の原則は必ずしも定まっておらず,王子たちは中央・地方の要職を占め,女帝も例外的に知られている。王を補佐するのはプローヒタpurohita(宮廷祭官)などのバラモンであって,彼らは行政や軍事の職に多く採用された。これらの古典は3世紀までに完成し,バラモンの宗教と文化を採用したグプタ朝はこの政治理念を尊重し,それ以後長く踏襲された中央・地方の政治体制を樹立した。それと同時に,バラモンに対する村落,土地の〈施与〉が一般化し,バラモンは地方の社会秩序の維持にあたり,ヒンドゥー教とバルナ秩序の浸透に努めた。とくに8世紀以後には,各王朝は伝説上の太古の王の後裔と称して,王朝の権威と支配の正当性を誇示するようになり,諸王朝の割拠状態が著しくなるにつれ,各地方で領主層が台頭しその勢力が強まり,政治権力の分散化が進んだ。後世ラージプートと呼ばれるカーストが形成されるのもこの時期である。一方,村落には古くから自治自律的な機関が存在し,村長や村老によって運営された。とくに南インドの村落機関は有名であって,詳しい運営手続の規則が定められていた。都市の商人や職人も職業的な組合を組織し,その有力者たちは王朝の地方支配の一翼を担わされた。

13世紀以後のデリー諸王朝(デリー・サルタナット)は異民族出身のムスリムが築いたもので,彼らの故地がモンゴルに占領されたため切り離され,インドに定着した国家となった。諸王朝はムスリム国家の理念とイスラム法を尊重したが,大多数を占めるヒンドゥーには改宗を強制せず,またヒンドゥーの社会制度に干渉せず,彼らの政治制度を利用して支配した。ムスリムの行政制度はアッバース朝以来東方イスラム世界で発達した制度を踏襲し,中央には,宰相と軍司令官のほか,財政・租税を担当する大臣,外交などの文書を扱う大臣が重要であり,地方には中央に準じた組織が整えられた。ムスリムの貴族・官吏・軍人の支配層はさまざまな民族・部族の出身者から構成された。彼らには征服地の一部が給与として支給されたが,君主権の強大化を図った王は貴族たちを抑制し,徴税政策などを改めて財政の確保に努めた。だが支配層は部族を軸として党派を組んで党争し,しだいにトルコ系部族よりもアフガン系部族が有力となった。

 ムガル帝国では,第3代皇帝アクバルが支配体制を確立し,それはデリー諸王朝,とくにシェール・シャーの制度を発展させたものである。第1に,スーバ(州)からパルガナ(郡)に至る地方支配体制を整備し,中心的な地域では,土地を測量して生産物によって単位面積の地税を定め,それを銀貨で徴収するなど,安定した財政を確保した。第2に,軍事・行政の全家臣に対してマンサブ(位階)を定め,各マンサブにそれぞれ騎兵と馬を割り当て,給与としてジャーギールと呼ばれる土地を与え,そこからの租税でまかなわせた。アクバルのとき,高位のマンサブを与えられたのはムスリムが圧倒的であったが,ラージプートを主とするヒンドゥーをも優遇した。その後マンサブを与えられた者の数は増大し,とくにラージプート,次いで第6代皇帝アウラングゼーブのときにはマラータの数が多くなった。このとき,軍事支出の増大とジャーギールの不足から帝国の財政は悪化し,そのうえアウラングゼーブのヒンドゥーに対する強圧的な政治的・宗教的政策が加わって,ザミーンダール層(ザミーンダーリー制度)の反抗が強まり,それが帝国滅亡の原因となった。

イギリス東インド会社のインド統治は,国王の特許状によって権限が賦与され,政府と議会の監督のもとにおかれた。ムガル帝国からは領有の権原や地税徴収の原則などを引き継いだが,従来の統治と異なり,イギリスの独裁的統治であった。統治の最高機関はロンドンの会社理事会,インドでの最高責任者はベンガル総督であり,マドラスとボンベイの2管区の知事は総督のもとにおかれた。彼らはインド旧来の制度を蔑視し,インド人を信用せず要職につけなかった。この統治ではインドの富の収奪,イギリス製品の市場と原料供給地の確保が配慮されて,人口100万の県単位までイギリス人職員が配置され,徴税中心の地方支配体制が整備された。

 1833年,東インド会社は商業活動を廃止して純然たるインド統治機関となり,ベンガル総督はインド総督となった。そのもとに新たに立法参事会が設けられ,そこで制定される法律はイギリス議会制定法に準じた効力をもつことになり,それと同時にマドラスとボンベイの立法権は停止された。法についていえば,インド人の家族,カースト,宗教に関してはヒンドゥー法やイスラム法という各宗教徒の法が適用され,その古い法律文献が法源とされた。刑法ではボンベイ管区を除いて旧来の法であるイスラム法が採用されたが,イギリス人の理念に合致しない点はしだいに修正された。このほか,総督や知事が制定した法律は行政の細目と司法手続に関するものが多く,農民の土地の権利は規定されなかったが,徴税に関する法律はこれに多大な影響を与えた。東インド会社は全領域に行政・徴税機構と並んで裁判所機構を配置した。それ以外に管区都市に設置された国王の裁判所たる最高法院とロンドンの枢密院とが高い権威をもち,裁判所を通じて法の空白,不明確なところにしだいにイギリス法が導入された。この時期の政治と法には当初試行錯誤的な施策が多かったが,19世紀になるとベンサム学派の思想の影響が顕著になったことが指摘されている。

 次いで1858年,インド大反乱(セポイの反乱)の衝撃を受け,イギリスは東インド会社を廃止してインドを政府の直轄下におき,その後行政,軍事,司法の改革を行い,支配体制を再編成した。行政の面では,3管区以外にも州を新設して長官を派遣し,総督以下の管理体制を明確化して整備した。当時,小作人の権利の保護,農民債務の救済,飢饉など深刻な問題が山積し,政府はこれに対処せざるをえなかった。大きな問題はインド人の登用であった。イギリスの制度と文物を学んだインド人知識階級はその数を増して,彼らの政治的権利の要求,人種差別の非難は強くなった。イギリス側は統治の安定のためにもインド人を登用せざるをえず,中央・地方の立法参事会議員,高等裁判所判事や高等文官にインド人を任用した。この任用にはすでに宗教徒別の配慮が加えられていた。司法の面では,高等裁判所以下の裁判所制度と並んで,法体制を整備することが重要な課題であった。1860年インド刑法典をはじめとして,インドの状況に合致する範囲でイギリス法をもとにした法典が次々に制定されて,大規模にイギリス法が導入され,またパンジャーブなど諸地方の重要な法律が多く制定されて,インドは組織化された法体系をもつ国となった。

 20世紀に入って,ベンガル分割反対運動を経て独立運動が激化すると,イギリスは統治法改正によって一定の権限をインド人に委譲することで対処した。まず中央・地方の立法参事会のインド人議員を増加し,第1次大戦後の1919年には中央と州の議会議員を選挙によって選出し,州行政のうち農業,教育,衛生などの事項をインド人にゆだねた。次いで35年には,藩王国を含めてインド連邦制を構想し,連邦と州の立法・行政の大幅な権限をインド人の議会と内閣に委譲することにしたが,総督と州知事は最終的権限を握り,藩王国問題には手を触れさせなかった。この過程を通じて,議会選挙の有権者の範囲は拡大されたが,ムスリムに独自の議席を設け,宗教徒間の対立を醸成した。一方インド人の独立運動は国民会議派が主導して進められ,ガンディーの説くサティヤーグラハという非暴力抵抗が運動の精神となったが,20年代以後には社会主義が叫ばれ,また農民運動と労働運動が独立運動の要素となった。

 第2次世界大戦後,イギリス側は行政・軍事の面でインドを統治する実力を失い,高等文官を供給することができず,あらゆる官職のインド人化が急速に進んだが,パキスタンの分離を叫ぶムスリム連盟はムスリムを代表する政党と見なされ,国民会議派と激しく対立したため,インド独立は遅れた。46年には内閣使節団構想に基づいてインド人の中間政府と憲法制定会議が発足したが,後者にはムスリム連盟は参加せず,47年にインド,パキスタン2国が自治領として独立した。
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インド社会の特徴としては,しばしば合同家族,カースト制度,村落共同体の3者があげられる。インド社会の基礎単位は家族であり,合同家族とは結婚した息子たちが財産,生計,祭祀を共同にして生活する形態の大家族である。合同家族はとりわけ上層カーストの富裕な人々の間に多く見られるが,その他の家族でも合同家族を理想とし,その理念に基づいて互いに助け合っている。どの家族も必ず特定のカーストに属する。仏教やイスラムなどに改宗した非ヒンドゥー教徒でも,改宗前に所属したカーストに応じて新しいカーストをつくっているか,宗教徒集団自体がカーストと同様に見なされている。カーストは村落や都市をこえた地域で形成されており,主要な言語地域ではその数は100以上である。カーストの特徴をあげれば,(1)それぞれ他から区別される名称をもち,その成員身分は世襲的で生まれたときに決まり,カーストの規則を破って追放されるかあるいは明瞭な手続で改宗しないかぎり,死ぬまでそのカーストから変わることができない。(2)婚姻は同じカーストの成員の間で行われる。(3)カーストの名称の多くがそれぞれの仕事を示しているように,カーストは職業と結びつきをもっている。その成員はかつて同じ特定の職業をもっていたと信じ,今も多くの成員がこの伝統的職業に従事している。しかもこの職業から離れても,カーストの所属は変わらない。(4)同じカーストの成員は宗教儀式,食事をはじめとして慣習を共通にしており,食事をいっしょに食べることができる間がらであって,生活を相互に規律している。この規律を維持する自治的機関はパンチャーヤットと呼ばれる。とくに成員が共同して彼らの権益を主張し,あるいはそれを擁護する必要のある中層と下層のカーストの間では,パンチャーヤットの活動は顕著である。このような特徴をもつカーストは,バラモンを最上層,不可触民を最下層として,ヒエラルヒーをなし,各カーストはその中にランクづけられており,下層カーストに対してはけがれの観念によって宗教上・社会上の差別が行われ,その差別はカルマ()の理念に正当化されている。そして各カーストはバラモン,クシャトリヤ,バイシャ,シュードラの有名な四つのバルナ(種姓)か,その外におかれ差別を受けた不可触民のいずれかに属すると考えられている。このバルナ制度はさまざまなカーストを全インドにわたってランクづける枠としての機能を果たしている。だがバラモンと不可触民を別とすると,中間層のカーストのランクは必ずしも明瞭ではなく,村落によって相違することが多い。またあるカーストはバラモンと主張するが,地域社会はそれを認めずシュードラと見なしているように,各カーストとバルナ姓との関係には問題がある。

 村落共同体はいくつものカーストに属する家族によって形成される基礎的な地域的集団である。そこでは土地所有の上で優位を占めるカーストが支配的地位を占めており,これは支配カーストdominant casteと呼ばれる。このカーストを中心としてさまざまなカーストがあり,村落生活と農業生産のために必要な仕事を分業している。村落は人々の生活の単位であるとともに政治・行政の末端単位でもある。村長が徴税,治安,行政の責任者であり,村書記が徴税のため土地所有などの記録を保持しており,村長のもとで自治自律的機関たるパンチャーヤットが村落の社会的規律を維持している。村落形態はベンガルや西海岸地帯を除いて集村であり,村と村の居住区域間はふつう数kmも隔たっているが,村落は決して孤立したものではなく,数村落がまとまって一つの小さな経済圏・生活圏をなし,そこに市が定期的に開かれている。

 このインドの特色ある社会は決して太古から存在して変わらなかったわけではない。歴史的にいえば,村落社会は前7世紀ごろガンガー川流域の開拓の進展を背景として成立し,そのころバラモンによって4バルナ制度も樹立された。その後数世紀間この先進地域の国家と農業の発展,宗教と文化の進歩はめざましく,それらはしだいに諸地方に広まって,各地方ではそれぞれ独自の村落社会が形成された。4バルナ制度は《マヌ法典》において完成した規範がつくられたが,そのまま行われたわけではなく,バラモンのほかは,身分,階級,官職の名称をつけて記されるのがふつうであり,《マヌ法典》と違って,バイシャは商人,シュードラは農民という観念も生まれ,4バルナの外の不可触民はきびしく差別された。8世紀以後,土地所有階級が村落の農業生産を支配し,彼らの中から領主層が台頭すると,彼らは郷村で排他的な集団を形成してカーストとなり,バラモンと彼らの支配のもとで農業生産と村落生活のため手工業やさまざまな仕事に従事していた職業集団は世襲化して,それぞれカーストを形成した。こうして村落社会は諸カーストのヒエラルヒーをなす社会となり,けがれの観念とあいまって,差別の慣行は著しくなった。13世紀以後のイスラム教徒のインド支配は従来の政治・社会体制の上に乗ったため,カースト制度は温存されていよいよ厳格となり,また村落内の分業体制が進み,職人たちに対する報酬は一定額の穀物などを現物で支給することが慣行となり,土地所有者と職人との関係も世襲化した。こうして村落のカースト制度はムガル帝国時代の16,17世紀に完成したが,このとき貨幣経済の普及,市場の発達などによって崩壊もまた始まり,イギリス植民地時代の19世紀に大きな変化をとげた。
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インド亜大陸では,多数の民族が独自の言語と生活様式を保持しており,また多くの地域社会内で上下の身分差が著しいため,横にも縦にもコミュニケーションが制約されることがある。そこでは,意思・情報の相互的な伝達だけでなく,中央から地方へ,上位者から下位者へといった一方的な伝達も,重要な位置を占めることになる。

 今日のインド亜大陸では,伝統的なコミュニケーションの方法と近代的な方法とが併存している。村落での公示が今なお,太鼓をたたきながらふれ回るという方法でなされる一方で,村落をこえたレベルでは官報,新聞,ラジオといったメディアによって公示がなされているのである。村落での伝統的なコミュニケーションと意思決定は,同一ジャーティの構成員にかかわる問題の場合,そのジャーティの長老の協議によるのがふつうである。場合によっては,近隣諸村からも同一ジャーティのメンバーが加わることもある。複数のジャーティの構成員にかかわる事がら,全村的な問題については,村の支配層を形成する諸ジャーティの長老が協議する。いずれの場合も,上位者,長老の見解が方向を決する傾向が見られるが,詳しく観察するとその方法は必ずしも上意下達とは断じられない。というのは,階層,年齢,性別などの点での下位者は上位者に対して自分の主張をすることが少ないが,上位者は下位者の意向を察しそれを全体の決定に反映させることができるときに信望を得られるので,下位者への配慮を怠れないからである。さらに,村内の伝統的なコミュニケーションと意思決定は,当事者の主張と村内の事情を勘案して,決定・裁決というよりは調整・調停に近い方法でなされることが多い。

 しかしながら独立後は,形式的には民主的な村落自治制度が多くの地域で導入され,村内の全成年者の選挙により村長と村議員を選べるようになったため,上述の伝統的な慣習との間に種々の問題をはらむようになった。伝統的な秩序の中で経済的・身分的に上層の者が村政の中枢に位置するときは,慣習と新制度が一元的に機能しうるが,多数派でありながら身分的に下位のグループが村政を握った場合,上位者グループの協力が得られないことが多い。そこでは,上位者と下位者の対立が生じて有効な村政が行えないという事態にいたる。また,新旧制度および諸勢力の対立にまで及ばなくとも,新制度の発足に伴い,慣習的に村を統治していた層の構成員の,統治者としての責任と自負が薄れてきた一方,新制度には行政的にも財政的にも十分な裏づけがないという現実があり,村落のコミュニケーションは過渡期にあるといえる。そういう条件下でしばしば生ずるのは,村内の有力ジャーティの間の勢力争いである。これは,ある有力ジャーティがいくつかの下位ジャーティを抱きこみ,別の有力ジャーティが他の下位ジャーティを従えるというふうに村落そのものを分裂・対立にもちこむことが多い。同一ジャーティ内の有力者間の対立からも,同じようなことが生じる。

 都市には出身地を異にする人々が住み,近代的な条件のもとで暮らしているので,伝統的なコミュニケーションは成り立ちがたいように見えるが,現実には,大都市の上層民は別として,そこの中・下層民,中・小の都市在住者は,伝統的なコミュニケーションの方法にたぶんに依存している。大都市と古くからの中都市では,特定の地域の出身者がある区画に集中的に居住し,彼らの故郷の食物と生活様式を保存しながら暮らしていて,自分たちの出身地の言語を媒体とする学校を設立し,子弟の教育を行う場合もある。したがって都市の中にインドの各地方の居留地ができているという観を呈する場合がある。そこでは,全インド的な祭礼のほか,各地の祭礼が故郷におけるのと同じように行われるので,その都市全体としては日常生活を営んでいる中で,ある区画だけで祭礼の行列がにぎやかに進むという現象が見られる。中層民・下層民は,都市においてもこうして出身地域の人間とその生活様式の中で暮らす傾向が強いが,実業家,高級官僚,専門職などの上層民は,各自の出身地域の文化と生活様式だけでなく,英語を使って西欧化した生活を取り入れながら,出身地域の枠を超えた交際をする。

 コミュニケーションの手段には,ラジオ,新聞・雑誌,映画,テレビなどの近代的なものと,それらにいくぶん依存しながらも別の体系をなす,〈口コミ〉(口頭によるコミュニケーション)や巡礼といった旧来のものがある。ラジオは電池式の比較的安価な受信機が普及したため,電気の供給のない(あっても安定しない)村落でも広く聴取されている。音楽やニュースなどのほかに,農事番組が高い関心を呼んでいる。新聞は全国紙,地方紙ともインドの大きな人口に比して部数が少なく,普及率が低い。都市の上層と中層の人々だけのものにとどまっている。村落では,バス便に託して届けられるのを村一番のインテリが読むという場合があるが,多くの村では学校も含めて1部の新聞もはいってこない。このように新聞が普及しない原因は,外的には識字率の低さ,広大な国土での輸送の困難,所得水準に比べて高くつく購読料などがあげられ,新聞の内容からは,多くの全国紙が大都市中心の記事構成をとっていること(例えばデリーで発行された全国紙は,700km以上離れたワーラーナシーに配られる分も,停電・断水の予告,映画の案内をデリーについてのみ掲げ,ワーラーナシーとその近辺についての都市情報は皆無である),地方紙のうち英字紙はその地方の名門の人々の消息記事風のものを多く載せ,民族語による地方紙の記事の多くが全国的な英字紙の翻訳調のものであることなどに求められよう。ただし,民族語による地方紙の中には,ワーラーナシーで発行されているヒンディー語日刊紙《アージュ》のように,発行地だけでなく,地方都市,田舎町にまで通信員を派遣し,電報・郵便などによりきめ細かい記事を集めて読者の要請にこたえているものも,少数ながらある。雑誌は新聞社系のもの,出版社系のものに大別され,新聞社系のものは宅配,出版社系のものは街頭のスタンド売りにより読者の手に渡る。書店は数が少ないうえに雑誌を置かないところが多いので,雑誌の販路としてはほとんど機能していない。

 映画の普及と人気は大きい(インド映画)。人口1万人未満の田舎町にも常設館がある。大都市の上等の席は,上層の人たちの社交場でもある。都市の場末の映画館の安い席には,手軽な娯楽を求める低所得者が文字どおりひしめきあいながら押しかける。また,映画音楽はラジオを通じても広がり,民衆の夢を代弁している。有力な映画館や街頭で,主題歌の歌詞パンフレットを求め,後日それを読みながら歌う人が多い。したがって,映画を見ない人にも,映画音楽は愛唱される。テレビは,大都市と州都を中心とするごく一部の地域でのみ受像ができる。受像機がいまだに高価であることも原因で,普及率は低い。しかし近隣の交際が密なため,インドの劇映画の名作を放映する日曜の夜には,テレビのある家の居間に近所の人がおおぜい集まる。郵便は,山間僻地をもよくカバーしている。場所によっては1人の配達人が10ヵ村ぐらいを担当するので,到着に要する日数が長いうらみがあるが,故郷を離れて出稼ぎにきている人が都会の郵便局の前に座る代書屋に手紙を書いてもらい,また月給日になると仕送りをする人が為替の窓口に長い列をつくるのは,郵便がいかに普及し,重要な役割を果たしているかを物語るものである。

 これらとは異なるコミュニケーションの手段・方法では,巡礼が有力である。巡礼は,家族または近隣の人が何人か集まって日帰りで近くの聖地を訪れる場合,町会,職場の有志が団体で数泊の巡礼に行く場合,教団・教派の主催で本山やゆかりの地を数十日かけてめぐり歩く旅など,さまざまな形態があるが,そこでは行をともにする巡礼集団内でのコミュニケーションはもちろん,聖地で行きあった別の集団とのやりとり,聖地の住民と関係業者らとの交流が成り立つ。結婚式も,村落にあっては通常の身分秩序の枠をいくぶんゆるめた人の出入りがあること,都市では親類のほかにさまざまな職能の近隣の人々の応援を求める一方でその人たちを招待することにより,人の交流,情報の交換に大きく寄与している。中・上位層の家に嫁いだ女性が,主として雨季に1ヵ月以上にわたって毎年のように里帰りするのも,実家と婚家のコミュニケーションをよくしている。

 全体として今日のインドのコミュニケーションの情況を見るとき,公権力や大きな勢力をもつ集団は,情報を十分に発表しておらず,また発表された情報の伝達の方法も整備されているとはいえない。そこにはしばしば,情報不足に起因する欲求不満とデマが生じ,それが暴動にまでいたることがある。列車やバスの行先表示の不親切さ,運行情報の不十分さ,食糧の配給情報の不足と長時間にわたり待たされるやりきれなさなどは,日常的にやりばのない不満と弱者間の争いの原因になっている。そこでの自衛手段として人々が依存するのが〈口コミ〉である。公的なルートで十分な情報が得られない場合,公的機関内にいて出身地,階層などを同じくする人に接近して情報を得て,口づてにそれを流すのである。〈口コミ〉はまた,公的な情報の補完以上の役割も果たす。農産物の市況は,新聞,ラジオで迅速に伝えられるが,在村の富農層の間ではそれよりも早く仲間うちからの情報が流れ,適切な判断と行動の助けとなる。〈口コミ〉に一定の様式が付加されたときの情報伝達は,実にみごとである。巡礼地ブリンダーバンのある信徒会館で朝・昼・晩に分けて連日催される行事は,特別な掲示などはいっさいなされていないにもかかわらず,それぞれの開始時間になると近くの巡礼宿に泊まっている人,住民などが続々と集まって来る。主催者の努力で年中行事に近い形で定着してきていることが,〈口コミ〉情報と相まって有効に人に情報を伝えているのであろう。

 結局,インドでのコミュニケーションは,公的な機関,新しい制度による情報と機能の不足不備を,伝統的な方法が代替・肩代りすることによって,全体のシステムをなしているというのが現状であろう。
カースト
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文献から知られるインド亜大陸の歴史は,アーリヤ人の来住をもって始まる。それ以後今日に至る約3500年のインドの歴史は,次の4時代に区分されることが多い。(1)古代(ヒンドゥー時代) アーリヤ人の来住から13世紀初頭のイスラム教徒(ムスリム)の政権成立まで。(2)中世(イスラム時代) 13世紀初頭からイギリスのインド支配が開始される18世紀半ばまで。(3)近代(植民地時代) 18世紀半ばから1947年の独立まで。(4)現代 独立以後。以上の時代区分は,支配者の奉ずる宗教や支配民族の交代など政治的・宗教的な理由からなされたものであり,亜大陸の社会・経済の発達を示す区分とは必ずしも一致しない。

 18・19世紀のヨーロッパ人の間には,インドの社会を停滞的なアジア社会の典型例とみる学説が有力であったが,こうした停滞社会論は,今日では否定されている。近年,多くの歴史家によって,インド社会が一定の発達段階を経て今日に至ったことを立証する試みがなされてきた。そこでは,(1)インド古代を奴隷制社会としてとらえることができるかどうか,(2)グプタ朝末期以後のインド社会の変化(都市と商業の衰退,地域社会の自給自足化,領主層の台頭など)を封建制としてとらえることができるかどうか,(3)ムガル時代中期以後のインド経済の発達を資本制経済成立の前段階としてとらえることができるかどうかなど,さまざまな問題が検討されている。しかし史料上の制約もあり,新しい時代区分は学説として確立するまでにいたっていない。

インド亜大陸には洪積世の時代から人類が住み,各地に旧石器文化,新石器文化の遺跡を残している。今日の亜大陸に居住する諸民族のうち最も早くこの地に住みついたのは,中部・東部の丘陵地帯に分布するアウストロアジア系の民族である。その後,一説によると前3500年ころ,西方からドラビダ系の民族が到来し,しだいに亜大陸の奥深くまで居住域を広げていった。前2300年ころ,インダス川の流域を中心とする広大な地域に青銅器時代の都市文明(ハラッパー文化)が興り,前1700年ころまで栄えた。モヘンジョ・ダロ(モエンジョ・ダーロ)とハラッパーがこの文明を代表する二大都市遺跡であり,いずれも焼成煉瓦をふんだんに用い一定の都市計画のもとに建設されていた。この文明を担っていたのはドラビダ系の民族らしいが,文字の解読が遅れているため確実なことはわからない。また文明の起源と消滅の原因についても謎に包まれている。しかし当時の文化要素の中には,宗教的沐浴の風習,地母神,樹神,牡牛の崇拝,シバ神らしい神の崇拝をはじめ,後世のインド文化に引き継がれたものも多い。

インド・ヨーロッパ系の言語を話すアーリヤ人は,はじめ中央アジア方面で遊牧生活を営んでいたが,その一分派がインダス文明のすでに衰退した前1500年ころから徐々にパンジャーブ地方に移住した。そして部族の首長(ラージャン)に率いられ,ダーサと呼ばれる先住民を征服しつつ,牧畜を主とし農耕を従とする半定着の生活を始めた(前期ベーダ時代,前1500-前1000ころ)。当時の生活では牛が最も重要な財産であり,農作物としては大麦の栽培が中心であった。アーリヤ人はパンジャーブで先住農耕民との間に人種的・文化的な混血・融合を深めたが,やがてその一部は前1000年ころからガンガー川上流域へと進出し,この地で農業社会を完成させた(後期ベーダ時代,前1000-前600ころ)。前800年ころになると鉄器の使用が始まり,水稲栽培も広く行われるようになった。こうした経済の発達を背景に司祭階級や王侯が活躍し,前者によってバラモン教の諸聖典が編まれ,後者によって行政制度や徴税制度が整えられた。またこのころカースト制度の初期の形態であるバルナ(種姓)制度が成立し,社会はバラモン(司祭者)を最高位とし,クシャトリヤ(王侯,武士),バイシャ(庶民),シュードラ(隷属民)と続く四つの基本的身分に分けられた。

前600年ころになると,政治・経済・文化の中心はさらに東方のガンガー川中流域へと移った。また各地に都市が興り,それぞれの都市を首都とする諸国が互いに争うようになった。十六大国と総称される当時の有力諸国のうち,やがて君主制を発達させたマガダ国が強大となり,前5世紀初めころガンガー川中流域に覇を唱えた。貨幣の使用が始まったのもこのころであり,都市では商人の活動が盛んであった。また,厳格な身分制度と祭式至上主義に立つバラモン教に対抗して,思索や修行を重視する仏教,ジャイナ教などの新宗教が興り,都市で身分制度にとらわれずに活動していた王侯や商人に支持された。

 マガダ国はその後も着実に領土を広げ,前4世紀半ばにはガンガー川流域のほぼ全域を支配下に置いた。一方,インダス川の流域は長期にわたりアケメネス朝ペルシアの属州になっており,続いてアレクサンドロス大王に征服され(前326-前325),その帝国に併合された。しかしこの地のギリシア人勢力は,大王の死後ほどなく,マガダ国に興ったマウリヤ朝によって一掃された。この新王朝のもとでインド史上初めて両大河にまたがる統一帝国の成立をみた。マウリヤ朝は第3代のアショーカ(在位,前268-前232ころ)の時代に最盛期を迎え,帝国の版図は半島南端部を除く亜大陸のほぼ全域に及んだ。帝国はアショーカの死後に分裂と衰退への道を歩んだが,約1世紀にわたる亜大陸統一の結果,ガンガー川流域の先進文化が周辺地域に伝えられ,それぞれの地で根を下ろした。

マウリヤ帝国の成立に伴い亜大陸全域で経済と文化の発達が見られた。こうした経済的・文化的発達を背景に,帝国崩壊の後,亜大陸の各地でガンガー川流域の国家をしのぐ強大な国家が興った。その一つサータバーハナ朝は,最盛期(2世紀)にデカンのほぼ全域を支配し,半島東西の諸港を拠点とする外国貿易によって富み栄えた。西北インドでは,前2世紀の初頭以来ギリシア人,サカ族,パルティア人の侵入が相次いだ。その後,1世紀半ばごろバクトリア方面からクシャーナ族が侵入し,中央アジアから中部インドに及ぶ大国家を建設した(~3世紀初め)。クシャーナ朝は漢とローマを結ぶ東西交通路の中央をおさえて繁栄し,またこの王朝のもとで大乗仏教の確立とガンダーラ美術の開花とがみられた。

 マウリヤ帝国の滅亡からグプタ朝の成立に至る約500年間は,政治的にみれば異民族の侵入が続き諸王国が乱立する不安定な時代であった。しかし経済的にみれば都市の商業活動が盛んな時代であり,また文化的には仏教,ジャイナ教が栄え,バラモン教と土着の宗教とが融合したヒンドゥー教の形成が進んだ。ヒンドゥー教の聖典《マハーバーラタ》と《ラーマーヤナ》が現在の形にまとめられたのも,ヒンドゥー教徒の生活を規定した《マヌ法典》が編まれたのもこの時代である。

サータバーハナ朝とクシャーナ朝は3世紀に入ると衰えたが,4世紀の初めにガンガー川の中流域にグプタ朝が興り,北インドを統一し,デカン方面へも政治的影響力を及ぼした。グプタ朝時代はインド古典文化の黄金時代として知られる。宗教の分野ではバラモン教哲学が復興し,ヒンドゥー教が隆盛に向かった。ヒンドゥー教寺院が建てられるようになるのも,このころからである。仏教はそれまでの勢いを失ったが,教理研究は高度に発達した。文学ではカーリダーサがサンスクリット語の詩や戯曲を書き,美術ではグプタ式仏像やアジャンターの壁画に代表される洗練された純インド的様式が確立した。数学も発達し,このころ〈ゼロの発見〉がなされた。

グプタ朝は5世紀後半になると,フーナ(エフタル)族の侵略や諸侯の独立のために衰退し始めた。これ以後イスラム教徒の政権がデリーに成立するまでの約550年間,北インドはハルシャ王の時代(7世紀前半)などわずかな期間を除き,群雄が割拠する分裂状態に置かれていた。そうした群雄の中では,西部インド,中央インドに興ったラージプート族の諸王国が名高い。この間,都市と商業が衰え,農村社会の自給自足化が進んだ。多数のカーストの集合体から成るインド独自の村落は,この時代に徐々に形成されたものらしい。また都市の商工業者や王侯によって経済的に支えられてきた仏教が衰え,村落社会を基盤とするヒンドゥー教が王侯や一般大衆の間に完全に定着した。地方政権の分立したこの時代にはまた,各地で地方語が発達し,文学や美術の分野で特色ある地方文化が興っている。

ドラビダ人の住む南インドには,すでに前3世紀のアショーカ王の時代にいくつかの独立国家が存在していた。その後もドラビダ人は,北インドから伝わった諸制度を採用しつつ,大小多数の王国を建設してきた。南インドに興亡した諸王朝の中でも,9世紀中ごろタミル地方に興ったチョーラ朝がとくに名高い(~13世紀)。この王朝は,南はスリランカを征服し,北はガンガー川流域にまで兵を送った。さらに海上貿易を有利に導くため海軍を東南アジアに遠征させている。ドラビダ人はまた,彼ら独自の文化と仏教,ヒンドゥー教に代表される北インドの諸文化を融合させ,特色ある文化を発達させた。文学では,ドラビダ語の一派であるタミル語の文学(サンガム文学)が注目される。美術ではパッラバ朝(3~9世紀)の石刻寺院建築やチョーラ朝のブロンズ彫刻などの新しい様式を生み出した。ヒンドゥー教の改革派であるバクティ(絶対帰依)信仰は,8世紀ごろ南インドに興り,やがて全インドに広まった。南インドの住民の海上活動もまた歴史上重要である。ローマ,アラビアなどの西方世界との海上貿易や,東南アジア,中国との貿易には,南インド商人の活躍が目だった。

8世紀初めにウマイヤ朝のアラブ軍がインダス川下流域を征服したが,この後の3世紀間,イスラム教徒はそれ以上亜大陸内部に進出することはなかった。彼らの組織的なインド侵略が始まるのは,アフガニスタンにガズナ朝とゴール朝が相次いで興ってからである。トルコ系の両王朝は11世紀初頭から侵入・略奪を繰り返し,分立抗争していたヒンドゥー教徒の諸国を破って,しだいにインド支配の足場を固めた。そして1206年,ゴール朝の将軍で奴隷出身のクトゥブッディーン・アイバクが,デリーで独立してインド最初のムスリム王朝(奴隷王朝)を創始した。その後の320年間,デリーに都を置きデリー・サルタナット(デリー・スルタン朝)と総称される五つのムスリム王朝が交代した。デリーの政権は14世紀初めに南インドにまで支配権を及ぼしたが,同世紀の半ばに弱体化し,その結果,亜大陸各地にイスラム,ヒンドゥー教を奉ずる諸王国の独立をみた。そのうちのビジャヤナガル王国(14~17世紀)は,デカン南部に興り,近隣のイスラム諸政権に対抗しつつヒンドゥー教とインド古来の伝統を守った。この王国はまた海上貿易で巨富を得た。その繁栄のもようは15世紀末からこの地に来航したヨーロッパ人の伝えるところでもある。

 イスラム教徒は,インド侵略の初期にヒンドゥー教の寺院や偶像を破壊したため,社会の混乱は大きかった。しかし,インドの土地と住民の永続的な支配を目指すようになるとその態度を改め,旧来の社会や統治機構を崩さずその上に君臨するという現実的な政策を採用し始めた。この時代にイスラムに改宗するインド人も増えたが,それは権力者による強制を伴ったものではなく,主としてイスラム商人や,市井で布教にあたるスーフィー(イスラム神秘主義者)たちの平和的な宗教活動によるものであった。一方,南インドで発達したヒンドゥー教のバクティ信仰が北インドでも流行し,一部でイスラムとの融合もみられた。ドームとアーチを伴った建築様式が西方イスラム世界から導入されたのも,この時代である。また書写に紙を用いることが始まり,しだいに従来の葉や樹皮に取って代わった。

ムガル帝国

1526年,ティムールの直系子孫のバーブルは,アフガニスタンから南下してサルタナットの軍を破り,デリーに入城してムガル朝を創始した。彼の孫で第3代のアクバル(在位1556-1605)は,版図をデカンの一部を含む北インド全域に広げるとともに,税制・官僚制の改革,新都アーグラの建設,ヒンドゥー教宥和政策など意欲的な政策を実施し,帝国の基礎を固めた。アクバル以後,ムガル帝国の繁栄は続いた。しかし帝国の版図が最大となった17世紀末には,相次ぐ戦争の出費,宮廷の浪費,経済政策の失敗などのために財政状態は悪化しており,またヒンドゥー教徒に対する抑圧策が国内各地の反乱を招いた。18世紀に入ると帝位継承の争いや諸侯の離反・独立が相次ぎ,さらに西部デカンにおけるマラータ族やパンジャーブにおけるシク教徒の勢力の強大化,ペルシア軍,アフガン軍の侵入も重なって,帝国の領土は急速に縮小した。

 ムガル時代には,亜大陸の各地で商業が発達した。また地税の銀納化も行われ,農村地域における経済活動も活発化してきた。亜大陸各地におけるこうした経済的向上が,ムガル帝国の分裂と地方政権の成立を促したとみることもできる。

 ヒンドゥー教が多神崇拝と偶像崇拝を極度に発達させた宗教であるのに対し,イスラムは偶像を厳しく禁ずる一神教である。ヒンドゥー・イスラム両文化は,このように異質のものであったが,インドにおける長年の接触の結果さまざまな面で融合し,ここにインド・イスラム文化の成立をみた。インド古典のペルシア語訳が宮廷で読まれ,北インドの言語にペルシア語の要素が加わったウルドゥー語が発達した。宗教では,ヒンドゥー教の改革派で一神教的傾向をもつシク教が成立し,美術の面では第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代を頂点とする建築活動や,ペルシアの細密画の影響を受けたムガル絵画,ラージプート絵画などの流行がみられた。

1498年,バスコ・ダ・ガマの船隊がカリカットに来航し,ここにヨーロッパとインドは直接結ばれることになった。16世紀を通じてヨーロッパ人によるインド貿易はゴアに総督府を置くポルトガルに独占されていたが,17世紀に入るとイギリス,オランダ,フランスが貿易競争に加わった。1600年に設立されたイギリス東インド会社は,東南アジアでオランダと争って敗れた後インド経営に力を注ぎ,まずポルトガル,オランダを圧倒し,18世紀半ばにはフランスを退けた。インドに到来したヨーロッパ人の目的は,当初はインドの産物の入手という純商業的なものであったが,やがて軍事力を背景にインドの土地と住民に政治的な力を及ぼすようになった。1757年のプラッシーの戦はこうした侵略的なインド経営を象徴するできごとであり,この戦いでベンガル太守軍を破ったイギリス東インド会社は,インド植民地化の足場を固めた。

 18世紀のインドはムガル帝国の衰退期にあたり,各地に地方政権が乱立していた。軍事力に勝るイギリスは,こうした好機をとらえ,征服・併合および軍事保護条約締結(地方政権の藩王国化)という和戦両策を巧みに用いて土着政権を圧倒し,同世紀半ば以後の約1世紀間に亜大陸のほぼ全域を直接・間接の支配下に置いた。東インド会社はもはや貿易会社ではなく,インド人から徴収した地税収入を主たる財源とし,インドの土地と人民を統治する機関となっていた。〈インドの富〉はこうしてイギリスに流出し,イギリス本国の産業資本の育成に貢献した。

 イギリスにおける産業革命の進行に伴い,インドが原料生産地および商品市場として見直されるようになると,新興の産業資本家や商人の間に貿易自由化を求める声が高まった。東インド会社に対する監督を強化しつつあったイギリス本国政府は,こうした声にこたえて会社の貿易独占権を廃し(1813),続いて会社の商業活動を全面的に停止させた(1833)。またカルカッタ駐在のインド総督を頂点とする植民地支配の体制を固めた。

イギリスの進出はインド社会に大きな変化を引き起こした。綿布はかつてインドの最も重要な輸出品であったが,マンチェスター産の安価な機械織綿布との競争に敗れ,都市の木綿工業は大打撃を受けた。また,綿花,アヘン,インジゴ,ジュート,茶などの輸出用作物の栽培,商品経済の浸透,新しい土地制度・徴税制度の採用などによって,伝統的な村落社会は崩され,土地に対する旧来の権利を奪われた農民は,不安定な困窮生活を強いられた。一方,イギリスは植民地支配の一環として,資源の開発,道路・鉄道・灌漑施設などの建設,通信網の整備などに力を注ぎ,また新たな司法制度やイギリス流の教育制度を導入したりした。ヨーロッパ思想の刺激を受けた都市の知識人の中には,カースト社会を批判し女性の地位改善を求める運動や,ヒンドゥー教改革運動を始める者も現れた。

 イギリスの進出に対するインド人のさまざまな不満は,1857年にセポイ(シパーヒー)と呼ばれる東インド会社のインド人傭兵が起こした反乱を機に爆発した。反乱軍がデリーを占領してムガル皇帝を擁立すると,旧王族とその臣下,旧地主や農民などが,カーストと宗教の区別を超えて参加し,反乱は中部・北部インドに波及した。乱そのものは2年後にはまったく鎮圧されたが,広い層の人びとが参加したこの大反乱の中に,インド民族運動の第一歩を見ることができる。この反乱にくみしたムガル皇帝は廃位され,ムガル朝は完全に滅んだ。一方,いっそう強力な支配体制の確立を迫られたイギリスは,1858年に東インド会社を解散させ,インドを本国政府の直接の支配下に置いた。さらに77年にはビクトリア女王がインド皇帝を兼ね,ここに直轄領と藩王国とから成るインド帝国が完成した。

19世紀後半になると,インドでは土着資本による綿工業や,イギリス資本の近代工業が興った。インド人労働者の数が増し,彼らによる待遇改善運動も発生している。農村では地主への土地集中で貧困化した農民が,しばしば暴動を起こした。またヨーロッパ式の近代教育を受けた知識人の数も増えた。彼らは弁護士,ジャーナリスト,官吏などとして活動していたが,イギリスのインド人差別を不満とし,植民地支配に批判の目を向けるようになった。こうした情勢を背景に,85年にボンベイで第1回の国民会議が開催された。全インド国民会議派の誕生である。国民会議派の活動は初め穏健なものであったが,イギリスの帝国主義的な植民地政策が露骨化すると反英の傾向を強めた。そして1905年ヒンドゥー・イスラム両教徒を反目させ民族運動を分断しようとするベンガル分割法が施行されると,スワデーシー(国産品愛用),スワラージ(自治獲得)のスローガンを掲げて,イギリスに真正面から対抗した。綿工業をはじめとする産業に進出しつつあった民族資本家は,このスローガンを支持した。しかし,イギリスの弾圧と懐柔によって運動は分断され鎮静化した。分割法そのものも,11年に撤回され,また同年に首都が反英運動の温床カルカッタからデリーに移された。一方,ヒンドゥー教徒を主体とする国民会議派の運動に少数派としての不安を抱いたイスラム教徒の有力者たちは,分割統治を目指すイギリスの勧奨のもとに全インド・ムスリム連盟を組織した。イギリスはその後も,イスラム教徒に有利な宗教別分離選挙制度を導入するなど,巧みな分割統治政策を進めた。

 第1次世界大戦が始まると,インド人は多大の犠牲を払ってイギリスに協力し,その代償として自治権を漸次付与するという公約をかち取った。しかし戦後の19年に制定されたインド統治法ではその公約は十分に果たされておらず,かえって民族運動の弾圧を目的としたローラット法が施行されたため,インド人の失望は大きかった。この時期に反英運動の指導者として登場したのがM.K.ガンディーで,彼はローラット法に反対してハルタル(罷業)を宣言し,また20年から22年にかけて国民会議派とムスリム連盟を指導して非暴力不服従運動を展開した。ガンディーの指導のもとで民族運動は一般大衆を加えた全インド的な運動へと脱皮した。

国民会議派は,外部からたび重なる弾圧を受け,内部においては主義を異にする各派の対立に悩みながらも,反英運動の指導集団としての地位を失わなかった。そして1929年の大会で完全自治(プールナ・スワラージ)を決議し,30年から34年にかけて再びガンディーの指導下に不服従運動を展開した。また国民会議派はインド統治法の改正を目的として開かれた3回の英印円卓会議(1930-32)のうち2回をボイコットしたが,州自治制を認めた新統治法(1935)に基づく37年の第1回州議会選挙には打って出て,11州のうち6州で過半数の議席を取り内閣を組織している。しかし,第2次世界大戦が始まると,完全独立を要求してイギリスとの対決に踏み切った。イギリスはこれに対して弾圧で臨み,ガンディーをはじめとする指導者を投獄し,国民会議派を非合法団体とした。

 ムスリム連盟は,第1次世界大戦中から戦後にかけて,トルコのカリフを擁護する運動(ヒラーファト運動)の必要から国民会議派と提携し反英運動を進めたが,その提携も1922年には崩れ,両派は再び対立するにいたった。連盟はその後ジンナーに指導されて親英・反会議派の道を歩み,40年にはイスラム教徒の国パキスタンの建設を目標に掲げた。第2次世界大戦で疲弊したイギリスは,植民地インドを維持してゆく力を失っていた。大戦後,労働党内閣のもとでインド独立のための準備が進められたが,分離独立を主張するムスリム連盟と,これに反対し統一インドの独立を求める国民会議派との対立が激化した。調停は難航し,結局47年8月に,インド亜大陸に二つの国家,インドと,東西の両部分から成るパキスタンとが誕生した。
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百科事典マイペディア 「インド」の意味・わかりやすい解説

インド

◎正式名称−バーラト/インドBharat/India。◎面積−328万7263km2(ジャンム・カシミールおよびシッキムを含む)。◎人口−12億1057万人(2011年,ジャンム・カシミールを含む)。◎首都−ニューデリーNew Delhi(29万人,2001)。◎住民−インド・アーリヤ系72%,ドラビダ系25%など。◎宗教−ヒンドゥー教80.5%,イスラム13.4%,キリスト教2.3%,シク教1.9%,仏教0.8%(2001)。◎言語−ヒンディー語(公用語),英語(準公用語)のほか,テルグ語,アッサム語,マラーティー語,ベンガル語,タミル語など憲法にあげられている14の地方の公用語など800を超す言語。◎通貨−インド・ルピーIndian Rupee。◎元首−大統領,ムカジーPranab Mukherjee(2012年7月就任,任期5年)。◎首相−ナレンドラ・モディNarendra Damodardas Modi(1950年生れ,2014年5月就任)。◎憲法−1949年11月制定,1950年1月発効。◎国会−二院制の連邦議会。上院(定員245,うち12は大統領の任命,他は各州議会の選出,任期6年,2年ごとに3分の1改選),下院(定員545,うち2は大統領の任命,任期5年)(2015)。◎GDP−3兆2883億ドル(2008)。◎1人当りGDP−2762ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−58.3%(2003)。◎平均寿命−男64.7歳,女68.3歳(2013)。◎乳児死亡率−50‰(2009)。◎識字率−62.8%(2006)。    *    *南アジアの共和国。〔自然・住民〕 ヒマラヤ山脈の南,ガンガー(ガンジス)川流域の沖積平野がヒンドスタン平原で,西方でパキスタン領のインダス川流域に連なる。半島部はゴンドワナ大陸の一部とみられ,最古(先カンブリア時代)の地層をもち,この上に白亜紀〜第三紀に大量の玄武岩が流出,デカン高原を形成している。半島部の基部を東西に走るサトプラ山脈は,歴史上インドを南北に二分する文化的障壁となってきた。気候は北部山岳地帯を除き熱帯的で,大半が年平均気温24〜28℃。インド洋から吹き込む季節風の影響が支配的で,6〜10月に雨季,冬は逆に北東の季節風で乾季となり,特に半島部西側の西ガーツ山脈西斜面,アッサムの丘陵は雨季に世界一の降雨量を記録する。西部は乾燥地帯でタール砂漠がある。住民はドラビダ系(南部)とインド・アーリヤ系(北部)に大別されるが,人種,言語(1961年の調査で1652語),文化を異にする民族が複雑に混合している。公用語はヒンディー語であるが,英語が準公用語とされ,14の地方語の使用も認められている。住民の80%がヒンドゥー教徒で,ほかにイスラム教徒11%,キリスト教徒,シク教徒,仏教徒など。〔経済・産業〕 農業・牧畜が主で,住民の6割が従事。主要農産物は,米,小麦,サトウキビ,綿花,黄麻,タバコ,ラッカセイ。畜産は耕作用,乳用の牛,水牛が多い。鉱産資源は石炭,鉄,マンガン,雲母,ボーキサイト,銅,クロムなど。農業技術の後進性,土地改革の停滞などの悪条件のため,農業の生産性は低く,大幅な人口増加とあいまって,食糧不足に悩まされている。1991年―1996年のラオ政権は,規制緩和,競争原理導入など,大胆な経済の自由化政策を打ち出し,外国資本・技術の積極的誘致を図った。その結果,マクロの経済指標は好成績をあげ,先進のコンピューター・ソフト産業をはじめ自動車産業,鉄鋼業も急成長している。2000年台に入ってもIT産業が牽引して経済成長が続き,BRICsの一角として世界経済のなかで大きなウェイトを占めている。2005年から2007年の経済成長率は9%台,2008年も世界金融危機の影響を受けつつ6.7%,2010年・2011年度は8.4%と回復した。シン政権は社会的弱者救済をかかげ,農村開発,貧困対策,インフラ整備などを通じて,さらなる経済開発を目指している。基本通貨はルピー。〔政治〕 1947年独立後,イギリス連邦内の自治国となり,1950年新憲法が施行されて共和国となった。地方行政は28州,首都を含め7連邦政府直轄領からなる(2007年時点)。元首は大統領(任期5年,連邦議会議員,各州下院議員からなる選挙人団が選出),連邦議会は上院(定員245名,うち12名は大統領の任命,他は各州議会が選出,任期6年),下院(定員545名,直接普通選挙で選出,任期5年)の二院制で,下院が優位。1964年独立の父ネルー首相が病死,1966年後継のシャストリ首相が急死して,ネルーの娘インディラ・ガンディーが首相になった。1978年インディラ・ガンディーはガンディー派国民会議派を結成,1980年総選挙で同党は圧勝した。1984年インディラ・ガンディーがシク教徒とみられる首相警護員に暗殺され,長男のラジーヴ・ガンディーが後を継いだ。1991年ラジーヴ・ガンディーも暗殺され〈ネルー王朝〉は終焉した。1996年下院選挙で,ヒンドゥー至上主義のインド人民党(BJP。1980年結成)が第1党に躍進,2週間足らずながら政権の座につき,内政における緊張と波乱の要因になったが,1998年,1999年の選挙でも第1党の座を保持,連立政権を樹立した。2004年下院選挙では国民会議派(1998年以降,総裁は故ラジブ・ガンディー元首相の夫人ソニア・ガンディー)がインド人民党を破って勝利し,1991年に財務相として経済改革導入にあたった同党幹部のシンが首相に任命された。2009年5月の下院選挙でも国民会議派(近年ではゴングレス党とも称されている)は議席を増やし引き続き連立政権を率いた。シンはインド初のシク教徒の首相。2012年12月にデリーで起こった集団レイプ事件をきっかけに,インドにおけるレイプ事件の多さに注目が集まり内外に衝撃を与える事態となった。政府に対策を求める大規模デモも各地で起こるなど,経済成長を続けるインド社会のひずみへの対応が政治に求められている。2014年の4月から5月にかけての総選挙(有権者数は約8億1000万人で前回選挙より約1億人増)では,ナレンドラ・モディの率いるインド人民党(BJP)が単独過半数を獲得,10年政権にあった,ラフル・ガンジー(ネール・ガンジー一族)率いる国民会議派は結党以来の惨敗という結果だった。モディ首相についてはヒンドゥー至上主義的姿勢を懸念する声があるが,強い指導力で経済改革を進める手腕が期待されている。〔外交・国際関係〕 国際的には1950年代の非同盟中立主義は,1960年代の中印国境問題インド・パキスタン戦争でゆらぎ,国境未画定のカシミール問題でパキスタンと係争中であるが,1971年にはパキスタンを破ってバングラデシュ(旧東パキスタン)の独立を助けた。しかし,友好関係にあったソ連の崩壊,核開発問題などの外交環境の中で,その非同盟中立路線のありかたが問われた。この間,1985年には南アジア協力連合(SAARC)に参加。1998年5月,24年ぶりに2度目の核実験を強行,印パ間の緊張が一挙に高まった。2002年大統領に就任したカラムは〈ミサイル開発の父〉といわれる科学者。2007年に就任したパティル大統領は女性の地位向上と地方経済の開発に尽力。インドは,成長を続ける経済を背景に,中国と並んで国際政治でもきわめて重要な位置を占めている。2012年4月,核弾頭搭載可能で射程距離約5000kmの長距離ミサイル〈アグニ5〉の発射実験に成功。中国に対する抑止力強化が最大の目的とされている。なお,歴史については南アジアを参照。→留保制度
→関連項目インドの山岳鉄道群カジュラーホの建造物群経済連携協定BRICs

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド」の意味・わかりやすい解説

インド
India

正式名称 インド共和国。ヒンディー語の正式名称はバーラト Bharat。
面積 328万7469km2
人口 13億4414万1000(2021推計)。
首都 ニューデリー(→デリー)。

南アジアの中央部を占める国。インド連邦 Union of Indiaとも呼ばれる。政体は連邦共和国で,28州と 7直轄地からなり,中央に連邦政府,州に州政府をもつ。国土は,ヒマラヤ山脈をはじめ諸山脈が走る北端部から,全人口の約 3分の1が住むガンジス川流域平野を経て,インド洋に突き出す高原状のインド半島と,洋上のアンダマン諸島ニコバル諸島,ラクシャディープ諸島などの諸島に及ぶ。典型的な熱帯季節風気候で,3~5月の乾燥暑季,6~10月中旬の雨季,10月下旬~2月の乾燥冷涼季の三つの季節がある。前2500年頃,北西部のジャムナ川流域と西部のカティアワール半島周辺に及んだインダス文明を別にすれば,インドの歴史は前1500年頃からのアーリア人の侵入に始まる。その後,古代ヒンドゥー王朝時代,中世のイスラム王朝時代,近世のイギリス統治時代を経て,1947年8月独立。独立後,数次にわたる経済開発のための 5ヵ年計画により工業化を目指し,鉄鋼,機械,化学などの基幹産業が発達。1990年代末から IT(情報技術)産業が急速に発展,高い経済成長を達成し,BRICSと呼ばれる新興国の一角をなすにいたった。ムンバイ(ボンベイ),コルカタ(カルカッタ)周辺の工業地帯のほか,内陸部にも工業都市が形成されている。しかし,伝統的なカースト制度により,貧富の差はきわめて大きい。おもな輸出品は石油精製品,宝石・宝飾品,化学製品,ジュート製品,茶,綿製品など。人口は中国に次ぎ世界第 2位で,その約 72%がヒンドゥー教徒(→ヒンドゥー教),約 12%がイスラム教徒,そのほかはキリスト教徒,シク教徒,仏教徒,ジャイナ教徒などである。国内には方言を含めて 800種以上の言語があり,そのうち 22種が憲法で認められている。公用語はヒンディー語。補助公用語として英語が用いられる。独立以来,カシミールの帰属をめぐってパキスタンとの対立が続き(→インド=パキスタン紛争),1962年には中国との国境紛争(→中印国境紛争)も表面化した。国内でも各カースト間,ヒンドゥー教徒,イスラム教徒間の対立が根強い。(→インド史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インド」の解説

インド
India

インダス川に由来する言葉で,地理的名称としても国名としても使われる。地理的名称としては,ヒマラヤから南に向かってインド洋に突き出た楔形のインド亜大陸部をさす。この地域はサンスクリット文献では「バーラタヴァルシャ」(「バラタ族の国土」の意)などと呼ばれた。ペルシア語やウルドゥー語では「ヒンド」である。日本では古くから「天竺(てんじく)」として親しまれてきた。インドという地域は自然環境,言語,民族,宗教,社会慣習などあらゆる意味で多様性に満ちている。しかし前3世紀以降,一つの世界として意識されるようになり,一人の王が支配するのが理想と考えられた。遠心的な力と求心的な力がせめぎあう場がインドだといえる。インドの歴史は普通,古代(12世紀以前),中世(13世紀以降18世紀前半までのイスラーム諸王朝の時代),近代(18世紀半ば以降のイギリス植民地支配の時代),現代(1947年の独立以降)に分けられる。最近は,7世紀から12世紀を初期中世として捉えたり,18世紀を中心とする時代を近世として理解しようという考え方も出されている。元来インド亜大陸にはオーストロアジア語族の言語を話す人々が住んでいた。そこに前3500年頃ドラヴィダ諸語を話す人々(ドラヴィダ人)が進出し,さらに前1500年頃にはインド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々(アーリヤ人)が移住してきた。アーリヤ人の宗教であるバラモン教は徐々に非アーリヤ的な民間信仰や習俗と融合し,前2~後3世紀の時期にヒンドゥー教に発展した。また前5~前4世紀からイスラーム支配が始まるまでの間,ジャイナ教と仏教が盛んに行われた。13世紀以降北インドとデカンをイスラーム王朝が支配するようになると,イスラーム的な要素とヒンドゥー教的要素が融合したインド・イスラーム文化が花開いた。16世紀に起こったシク教も,二つの宗教の融合の所産である。イギリス植民地支配が始まる18世紀半ば以後は西欧文化の影響が強まり,今日に至っている。インドの文化の特色は,長い文化接触の歴史を背景にさまざまな文化が共存し,重層的・多元的な構造を持っているところにある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「インド」の解説

インド

アジア大陸中南部に位置し,インド洋に面した国。漢字表記は印度,古くは身毒(しんどく)・天竺(てんじく)とも。紀元前4世紀末からマウリヤ朝,グプタ朝,ムガル帝国などが継起した。17世紀初めからイギリス東インド会社の支配下となり,1857年の大反乱(シパーヒーの反乱)後,イギリスの植民地となる。第1次大戦後独立運動が高揚,第2次大戦後の1947年ヒンズー教徒を中核とするインド連邦とイスラム教徒を中核とするパキスタンの2国に分離独立した。50年連邦共和国となる。ヒンズー教のほかイスラム教・シーク教などの宗教問題,言語・民族問題,カースト制などの社会問題をかかえている。日本との関係は,第2次大戦前は綿花の原料市場,綿製品の輸出市場であったが,戦後は鉄鉱石輸入先で,日本からの重化学工業品の輸出が多く,技術協力も行われている。対印援助額は諸外国中日本が1位。正式国名はインド。連邦共和制。首都ニューデリー。

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