津山検校(読み)つやまけんぎょう

改訂新版 世界大百科事典 「津山検校」の意味・わかりやすい解説

津山検校 (つやまけんぎょう)

地歌・箏曲家。京都と大坂で異なり,大坂では5世まである。京都の津山は,富一。松川勾当を経て,1755年(宝暦5)検校に登官。のちに野崎きき一と改名。《琴線和歌の糸》《新曲糸の節》などを編集長歌紅葉尽し》,端歌神楽》などを作曲。《八段》の三弦も手付けている。

 大坂の初世津山(?-1836(天保7))は,慶之一または虎一。豊賀四度,中川勾当を経て,1795年(寛政7)検校となる。野川流長歌五十番の制度を定め,撥(ばち)の改良も行った。その撥は津山撥といわれ,後年川瀬里子などがさらに改良した大型で先端で薄くなっている現在の地歌の撥の基となった。また,享和版《糸の調》(1801)の校訂に参加。《江戸土産》(1812)などを作曲。《黒髪》を得意とし,津山ぶしといわれた。以下,津山の姓は,豊賀春寿一検校(1798-1853),豊賀虎一検校(1811か13-1869か71),津沢春寿一(生没年不詳。検校には登官せず),中木重一検校門下の中井(名不詳。1861-1917)と受けつがれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「津山検校」の意味・わかりやすい解説

津山検校
つやまけんぎょう
(?―1836)

生田(いくた)流箏曲(そうきょく)および地歌(じうた)の演奏家、作曲家。初世。都名(いちな)慶之一。豊賀(とよが)史導(四度)、中川勾当(こうとう)を経て、1795年(寛政7)検校となる。大坂で三弦の名手として名高く、野川流長歌(ながうた)五十番の制度を定め、小ぶりの京撥(きょうばち)を大きく改良した。これは現在、津山撥の名で愛用されている。また、上方唄(かみがたうた)の節に独特な味を加え、その歌い方は津山節といわれた。代表作は『玉鬘(たまかずら)』『江戸土産(みやげ)』など。2世(1798―1853)は『道中双六(どうちゅうすごろく)』の作曲で知られる。5世(1861―1917)は1871年(明治4)に当道職屋敷が廃止されたため、検校官にはならず、この代をもって大坂の津山の芸系は絶えた。

 なお、津山検校の名は京都にもあった。この津山検校(生没年不詳)は都名を富一といい、松川勾当を経て、1755年(宝暦5)検校となり、のちに野崎きき一と改名した。『琴線和歌の糸』『新曲糸の節』などを編集。代表作に端歌(はうた)『神楽(かぐら)』、長歌『大和文(やまとぶみ)』『紅葉(もみじ)づくし』などがある。

[平山けい子]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「津山検校」の解説

津山検校 つやまけんぎょう

?-? 江戸時代中期の地歌三味線家。
京都の人。宝暦5年(1755)検校となる。「琴線和歌の糸」「新曲糸の節」の編集にくわわる。名は富一。前名は松川勾当(こうとう)。のち野崎きき一。代表作に「神楽」「七草」「紅葉尽し」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の津山検校の言及

【地歌】より

…〈長歌〉は作曲者も明示され,作詞者には井原西鶴,山岡元隣など名ある文人も多い。大坂では野川検校以降新作が盛んで,天明期(1781‐89)には100曲以上を数えたが,のちに津山検校が長歌五十番の定めを設けてからは,新作はやみ,伝承本位となった。現在では20曲余しか伝わっていない。…

※「津山検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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