関戸(読み)せきど

精選版 日本国語大辞典 「関戸」の意味・読み・例文・類語

せき‐ど【関戸】

[1] 〘名〙
関所の門。関所の戸。せきのと。
※書紀(720)宣化元年五月(寛文版訓)「筑紫の国は遐(とほ)く邇(ちか)く朝(まう)て届(いた)る所、去来(ゆきき)の関門(セキト)にする所なり」
※謡曲・蟻通(1430頃)「現に出づる旅枕、夜の関戸の明け暮れに、都の空の月影を」
② 香木の名。分類は伽羅(きゃら)
※志野宗信筆記(香道秘伝所収)(1501か)「関戸(セキト)は蘭奢待に似たる香なり」
[2]
[一] 東京都多摩市北部の地名。多摩川を隔てて府中市に接する。古くは鎌倉街道の要地で、関所が置かれていた。
※将軍執権次第(1334頃か)元弘三年「五月十四日、将監入道泰家為大将軍武州関戸合戦」
[二] 謡曲。四番目物。作者不詳。別名「関戸早川」。所領のうらみから関戸兵庫に子の藤太を人質としてとられた下野国の早川某は、反対に関戸の子花若を捕えて関戸の館を襲い、その矢おもてに花若を立てる。そこで関戸は悔い改めて和睦(わぼく)する。

せき‐の‐と【関戸】

〘名〙
※公忠集(986‐999)「せきのとぞおどろかれける君がため心をとめぬときのなければ」
② 三重県亀山市関町の名物菓子。赤小豆の漉餡(こしあん)を求肥(ぎゅうひ)で包み、和三盆(上質の白砂糖)をまぶした小さな餠菓子。鈴鹿の山の白雪に見立てたもの。

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日本歴史地名大系 「関戸」の解説

関戸
せきど

多摩川中流域右岸の関戸一帯に比定される。

〔霞関〕

妙本寺本「曾我物語」巻五には、建久四年(一一九三)四月下旬、源頼朝が上野国・下野国の狩倉を巡見するために鎌倉を出立し、「関戸宿」に宿泊したとある。ここには平将門が関戸を立て、藤原秀郷が「霞関」と名付けたという伝承も記されている。霞関かすみのせきは平安時代後期頃から和歌にも詠込まれて歌枕となり、「和歌初学抄」「八雲御抄」で武蔵国とされている。江戸時代以降比定地考証がおこなわれ、何ヵ所かの比定地があげられているが、前掲「曾我物語」や善光寺修行(宴曲抄)、「廻国雑記」に描かれた「霞関」が、その前後関係から明らかに関戸を認識していること、「霞関」を詠む和歌の多くが東国と春とにかけられており、それは春の県召除目に伴う受領の離着任を連想させ、武蔵国衙に近い関戸がその際の坂迎の場としてふさわしい位置にあることから、関戸が霞関の原初的イメージ形成の場であったと考えられる。

〔戦乱と関戸〕

鎌倉街道上道の多摩川渡河点であった関戸は、その付近の多摩川が形成する広大な沖積地とも相まって、度々合戦場や軍勢の集結地として選ばれていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「関戸」の意味・わかりやすい解説

関戸 (せきど)

東京都多摩市の地名。関戸の名は鎌倉期に関所が設置されたことに由来するといわれ,武蔵府中に近く,鎌倉街道が多摩川を越える渡し場に位置した要衝の地。南北朝~室町期に鶴岡八幡宮領があったが,戦国期には北条氏直轄領となって重臣松田左馬助が代官に任じられた。関戸宿として伝馬役を課され,1564年(永禄7)には2年間のみ,平常1日3疋,戦時1日10疋に軽減されている。このときの虎印判状によれば,3と9の日に六斎市が開かれ,〈濁酒役ならびに塩あい物役〉が免除されたことがわかる。55年(弘治1),有山源右衛門は松田氏から〈商人・道者〉の問屋に任じられており,かつ関所の関銭徴収に携わった。有山氏は85年(天正13)〈関戸郷中河原之内正戒塚〉で新宿の開発を進めている。翌年,有山ら6人の有力百姓は松田氏の現地代官の不正を糾弾して,これを郷中から追い,550貫余の年貢納入を請け負っている。
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