霊仙(読み)りょうせん

改訂新版 世界大百科事典 「霊仙」の意味・わかりやすい解説

霊仙 (りょうせん)

平安初期の法相(ほつそう)宗の学僧。生没年不詳。霊宣,霊詮,霊船とも記される。阿波国の人。入唐留学僧。804年(延暦23)空海や最澄などとともに遣唐使に随って入唐,長安の醴泉(れいせん)寺に住した。810年憲宗の詔により,カシミールから帰化した般若三蔵を助けて,日本人として例のない梵経よりの《大乗本生心地観経》の漢訳をなした。憲宗の内供奉(ないぐぶ)僧に選ばれて大元帥法(だいげんのほう)を修得し,帰国を望んだが許されず,820年五台山に逃れ諸院に留住して仏道に精進した。825年(天長2)嵯峨天皇は金100両を送って留学の功をたたえ,霊仙は1万粒の舎利と新訳仏典や勅書5通を弟子勃海ぼつかい)僧貞素に託して日本に送り届けた。貞素より彼の消息を聴取した皇室はさらに100両の砂金を託し,在唐の労をねぎらったが,貞素が五台山に帰った828年4月には毒殺されていたという。霊仙の遺物や大元帥法は,その後入唐求法を果たした真言宗円行と元興寺の常暁遺弟より伝授され,日本に将来した。
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朝日日本歴史人物事典 「霊仙」の解説

霊仙

没年:天長4(827)
生年:天平宝字3(759)
平安初期入唐し,日本人としてただひとり「三蔵」号を与えられた密教僧。近江犬上郡(滋賀県犬上郡多賀町)の息長真人刀禰麻呂の子。幼くして霊山寺に入り,18歳のとき興福寺で出家。延暦23(804)年空海,最澄らと共に入唐し,長安醴泉寺のインド僧般若の弟子となり唯識を学ぶ。弘仁2(811)年『心地観経』を梵文から翻訳。三蔵に任じられ,宮中の仏事を司る内供奉十禅師となる。同11年仏教弾圧を恐れ五台山に居を移す。天長2(825)年嵯峨天皇が活躍を讃えて砂金100両を贈る。返礼に舎利や『心地観経』などを送付。同4年淳和天皇から砂金100両を贈られたが,まもなく何者かに毒殺された。晩年,護国の秘法「太元帥法」の日本伝来を念願していたらしい。『心地観経』は父母,衆生,国王,仏法僧の四恩を讃える経典で,空海が日本の国情に合うと流布した形跡が濃い。<参考文献>堀池春峰「興福寺霊仙三蔵と常暁」(『歴史評論』105号),籔田藤太郎『霊仙三蔵』

(正木晃)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「霊仙」の解説

霊仙 りょうせん

?-? 平安時代前期の僧。
法相(ほっそう)宗。延暦(えんりゃく)23年(804)最澄,空海らと唐(とう)(中国)にわたる。梵語(ぼんご)でかかれた「大乗本生心地観経」の漢語訳にかかわり,のち五台山にうつる。天長2年(825)嵯峨(さが)上皇から黄金をおくられ,答礼として新訳経典などを献じた。5年淳和(じゅんな)天皇寄進の黄金を弟子の貞素(じょうそ)がとどけたときにはすでに毒殺されていた。

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