日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
アセット・アプローチ理論
あせっとあぷろーちりろん
asset approach theory
変動為替(かわせ)相場制度のもとで、国際資本取引の自由化進展に伴い、伝統的な為替相場理論にかわって、短期為替相場の決定を考える際の諸理論の総称。アセットとは資産のこと。
[中條誠一]
新理論登場の背景―フローからストックへ
経済には二つの側面がある。一つは、一定期間に生み出される所得のような「フロー」の概念であり、もう一つは、一定期日で存在する財産のような「ストック」の概念であり、両面からみて初めて経済の豊かさがわかる。
今日では、代表的なストックである預金、株式、債券、外国為替といった金融資産が膨大になっており、短期の為替相場は、国境を越えて円建てやドル建てなどの金融資産が取引されるたびに変動する。ストック市場でこのアセットがどのように選択されるかという観点に立って、短期の為替相場の決定を迫る方法をアセット・アプローチとよび、その方法でつくられたいくつかの理論モデルを総称してアセット・アプローチ理論という。
伝統的為替相場決定理論では、為替相場は外国為替市場での外国為替の需給によって決まるというフロー概念に基づいていた。とりわけ、各国通貨のもつ購買力に注目する購買力平価説は、そのもっとも代表的理論であり、外国為替の需給の源泉は財やサービス貿易に伴うものが念頭に置かれていた。かつては資本取引の自由化がさほど進展しておらず、経常取引が国際取引の中核をなしていたこと、長期的にみれば、浮動的な資本取引は平準化され、外国為替の需給動向に決定的な影響がないと考えられたからである。
しかし、1980年代ころから先進国を中心に金融資産の蓄積が進むとともに、国際資本取引の自由化が進展し、事態は大きく転換した。2010年現在、世界の貿易取引規模は約16兆ドルであるが、国際資本取引は国際的銀行融資と国際債発行の残高ベース(国際決済銀行統計)でさえ、約47兆ドルに上り、それが各国間を日々移動している金額は、統計的に把握しえない巨額なものとなっている。したがって、近年では短期の外国為替の需給は、ほとんどが国際資本取引に伴って発生しているといっても過言ではない。
その国際資本取引をみた場合、過去からの蓄積によりその時点で存在する各種通貨建て金融資産(ドル建て金融資産、円建て金融資産等)が世界中のだれかの手にすべて保有され、いわゆるストック市場の均衡が成立する。一時的に不均衡が発生しようとすると、金利、とりわけ為替相場が瞬時に変動して、均衡が回復されるというメカニズムが働いている。したがって、今日では、国際的に統合された金融市場で、各国通貨建て金融資産の交換比率として、ストック市場の均衡をもたらすという短期の為替相場決定理論は、アセット面からアプローチすることが主流となっている。
[中條誠一]
アセット・アプローチの基本的考え方
ストック市場で、為替相場がどのように決定されるかは、投資家の国際資産選択行動を考察することによって、理解しうる。その際には、国際資本取引は完全に自由化されており、かつ各国通貨建て金融資産は予想収益率が同じであれば、完全代替である(リスク中立的)と仮定する。
この場合には、投資家は内外の金融資産の予想収益率格差を比較して、より高収益が予想される金融資産へと資産のもち替えを行おうとする。たとえば、なんらかの情報によって、ドル高が予想されたとすれば、円資産に比べ予想収益率の高まったドル資産へのもち替えがおこり、円建て金融資産市場では超過供給、ドル建て金融資産市場では超過需要がおこり、ストック市場の不均衡が発生する。しかし、いずれの金融資産も供給額は現存額しか存在しないため、ドル高が一挙におこり、もはや円資産を上回る予想収益率が期待できないところに落ち着く。したがって、通常ミクロ経済学で教えるフローの世界の価格決定論とは違い、ストックの世界では、価格にあたる為替相場が激変し、もっぱら需要者側の収益予想を変えることによって、均衡が達成される仕組みであるといえる。
結局のところ、両資産の予想収益率が等しくなる
i=i*+(E-e)/e
が成立。すなわち、
i-i*=(E-e)/e
(iは円の金利、i*は円・ドル金利、Eはドル為替相場の予想値、eは現在の円・ドル為替相場とする)
となるように、現在の円・ドル為替相場が決定される。これが、先物カバーなしの金利平価式とよばれるものである。
つまり、短期の為替相場の決定因は、内外金利差と為替相場の予想変動率の二つということになる。ただし、投資家の投資戦略が短期視野になればなるほど、微差にすぎない内外金利差より、当面の為替相場の変動予想が決定的重要性をもつのが現実である。アセット・アプローチの理論では、期待expectationとよんでいるが、平たくいえば、多くの市場参加者の相場観次第で短期の為替相場は変動しているということにほかならない。
[中條誠一]
アセット・アプローチの具体的モデル
ストック市場を動かす重要要因が、為替相場の将来予想(期待)であるとの認識にたって、その期待がどのように形成されるかを分析することによって、いくつかの具体的モデルが提唱されてきた。
(1)オーバー・シューティング・モデル
ドーンブッシュR. Dornbusch(1942― )によって提唱されたもので、為替相場は長期的には均衡為替相場と考えられる購買力平価に収斂(しゅうれん)するとの単純な回帰的期待仮説に基づいた理論である。
いま、日本政府が金融緩和によりマネーサプライ(通貨供給量)を増価させたとすると、円金利は下落し、かつインフレ懸念が強まるため、円安となる購買力平価に向けて、為替相場が変動していくと、人々は予想をする。とすれば、円資産の予想収益は減少し、ドル資産の予想収益は増加するため、資産のもち替えがおこり、円・ドル為替相場は、大きく円安にジャンプする。
しかし、時間の経過とともに、実際に日本の物価水準が上昇するため、日本では実質貨幣供給量が減少し、金利も元の水準に戻る。そのため、円・ドル為替相場は当初の水準と急騰した水準の間に落ち着くことになる。つまり、ストック市場における金利の反応速度と財・サービス市場における物価の反応速度の違いから、為替相場が本来の購買力平価からオーバー・シューティング(予想外の大幅変動)することを明らかにしたものである。
(2)ポートフォリオ・バランス・モデル
同じように、回帰的期待形成式として、
=(-*)+θ(g-e)
(は円・ドル為替相場の予想変動率、は日本の予想物価上昇率、*はアメリカの予想物価上昇率、θは調整係数、gは長期均衡為替相場である購買力平価の対数値、eは現在の円・ドル為替相場の対数値)
というように、人々は両国の今後予想される物価上昇率格差と現在の購買力平価からの乖離(かいり)とを考慮しながら、将来為替相場は、徐々に長期均衡為替相場である購買力平価に近づいていくと予想している。そのうえで、内外の金融資産を完全代替(リスク中立的)とはみなさず、予想収益率が同じであれば、為替リスクや情報不足といった問題を抱える外貨建て金融資産より自国通貨建て金融資産が選好される(この分だけ、外貨建て金融資産は高い収益が求められ、これをリスク・プレミアムと呼ぶ)という国際資産選択行動を仮定し、
i=i*+(E-e)/e-β
(βはリスク・プレミアム)
で、ストック市場の均衡が成立すると考える。その結果、
e=g+1/θ〔(i*-*)-(i-)〕-1/θ・β
というように、現実の円・ドル為替相場は、長期均衡為替相場である購買力平価から内外実質金利差の一定分とドル建て金融資産のリスク・プレミアム(リスク資産の期待収益率と無リスク資産の利益率との差)の一定分だけ乖離した水準に決まるという主張である。
さらに、この理論ではリスク・プレミアムを、具体的に共通通貨で表示した自国債券の供給残高に対する外国債券の供給残高や、海外の相手国の累積経常収支赤字額と仮定して、モデル化している。したがって、短期的に変動の著しい為替相場が、購買力平価や内外実質金利差、さらにはリスク・プレミアムの具体的数値を導入することによって、数理的に計算できるという画期的モデルとなっている。
[中條誠一]
アセット・アプローチ理論の現実的意義
アセット・アプローチ理論は、現実にどれほどの有用性、意義をもつのであろうか。結論からいうと、国際金融および外国為替市場の現状認識とそれに基づく基本的考え方は高く評価できるが、具体的モデルとなると、ビジネス上の実践的応用はもちろん、政策的活用にも多大な注意が必要であるといわざるをえない。
為替相場がストック市場で決定されるに至ったこと、そこでは先物カバーなしの金利平価式、あるいはリスク・プレミアムをも加味した短期均衡式が成立するように為替相場が決定されることは、重要な発見である。したがって、為替相場の決定因が内外金利差と為替相場の予想変動率(期待)であることも、事実である。
しかし、それ以上の理論的展開において、短期の国際資産選択行動における投資家心理や行動を単純化しすぎ、行きすぎた理論化がされているといわざるをえない。まず第一の問題点は、短期的な投資家行動の決定因として、内外金利差は微々たるもので、もっぱら相場観ともいうべき期待次第であることを無視している短絡的な議論が多いことである。たとえば、ある国が金融引締めによって、金利を上げても、直接金利面からの収益格差を通じてその国の為替相場が上昇する可能性は高くない。短期運用において、金利差は微々たる影響力しか持たず、重要なのは、金融政策の変更や金利上昇が投資家にどのように受け止められ、評価されるかという心理的な期待である。景気先行きに不安のあるなかで、行きすぎた引締めととらえられれば、逆の相場観が支配的になるかもしれないし、すでに織り込み済みであれば、外国為替市場は反応しないからである。
より決定的な問題点は、投資家を中心とした外国為替市場への参加者の期待という心理的な側面を、数式化するために、画一化、一般化して仮説を立てていることである。仮説の設定は、経済学に必要なことであるが、財やサービスの市場と違い、複雑な心理戦が展開されるストック市場では無理があり、場合によっては、そこから導かれた結論が間違いを生じる危険性さえある。したがって、ほとんどの実務家は、外国為替に限らず、株式、債券といったストック市場では、数理的な理論モデルに信頼を置いておらず、自らの勘と経験を頼りに、市場の相場観を読むことによって、短期の相場予想をしているのが現実である。その限界を、十分認識したうえで、アセット・アプローチの理論は活用すべきである。
[中條誠一]