アタナシオス(英語表記)Athanasios

改訂新版 世界大百科事典 「アタナシオス」の意味・わかりやすい解説

アタナシオス
Athanasios
生没年:296ころ-373

アリウス派と終生戦い,ニカエア信条を守ったアレクサンドリア主教(328-373)。若くしてアレクサンドリア主教アレクサンドロスの秘書となり,ニカエア公会議に参加。328年,アレクサンドロスの死にともない後任に選出され,46年間にわたってその地位を守った。ニカエア公会議後も強大な勢力を保ったアリウス派敵意一身に集め,複雑な教会政治の動きもからんで,主教在職中に5回,計17年間も追放もしくは逃亡の生活をおくった。336年にはトリールに,339年にはローマに流され,西方教会とニカエア派の結びつきを固めた。多忙な生活にもかかわらず,多数の著作を残した。若年の《受肉論》と主教在職中にまとめた《アリウス派反駁論》が主著。神学上はアリウス派の従属主義的キリスト論に対抗し,キリストを受肉した神のロゴスとしてとらえ,したがって父なる神と子なるキリストは〈ホモウシオス(同質)〉であると主張した。また聖霊についてもその神性と父なる神との同質を説き,三位一体神観を完成させた。この立場はキリスト教神学正統となった。他の著作《聖アントニウス伝》は,一面では反アリウス主義を主張するものと考えられるが,アタナシオス自身が逃亡生活中に親しく教えを請うた〈修道生活の父〉の伝記としての価値も高く,また西方に修道生活の理念を伝えた意味で重要。三位一体論を明確に打ち出し,西方教会で古代末期からひろく用いられた〈アタナシオス信条〉は,アタナシオスの名を冠するもののその著作ではないことが定説となっている。4世紀の教会史大半はアタナシオスの公的活動と重なるといっても過言ではない。アリウス派との戦いによって,アタナシオスはひとりでキリスト教を異教的合理主義混乱から救ったとの評価が与えられている。
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百科事典マイペディア 「アタナシオス」の意味・わかりやすい解説

アタナシオス

古代キリスト教会の教父,神学者。聖人,アレクサンドリア主教(328年―373年)。ニカエア公会議以後も反アリウス派闘争に邁進(まいしん)し,三位一体の正統教義の確立に大きく寄与した。ただし《アタナシオス信条》の起草説は疑問視されている。主著《受肉論》《アリウス派駁論》《聖アントニオス伝》。

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世界大百科事典(旧版)内のアタナシオスの言及

【アタナシオス信条】より

…冒頭の〈救いを望む者はだれも〉から〈クイクムクエ・ウルトQuicumque vult信条〉とも呼ばれる。9世紀以来,アリウス派と闘ったアレクサンドリア主教アタナシオスの名を冠して呼ばれ,アタナシオスの手になるものと信じられてきた。しかし今日では5世紀前半までにガリア南部で成立したとの見解が有力になっている。…

【コンスタンティウス[2世]】より

…両者はやがて不和になりユリアヌスがパリで正帝に推戴されたが,これを討とうとしたコンスタンティウスは急死した。彼はキリスト教神学論争に熱心で,アリウス派とカトリックの調停を図ったが失敗,アタナシオスを追放した。父と同じく死の床でアリウス派の洗礼をうけた。…

【神学】より

…4世紀から5世紀初めは神学の伝統が確立した時期である。東方ではアタナシオス,バシレイオス,ナジアンゾスのグレゴリオス,ニュッサのグレゴリオスらが三一神論の確立に努力した。また神礼拝を通して人間の神化が目ざされる修道的・霊的・神秘的な東方教会の神学の基礎がすえられた。…

※「アタナシオス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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