ドイツ西部,ラインラント・ファルツ州の古都。人口9万9000(1991),モーゼル地方のブドウ酒取引の中心地,カトリックの司教座所在地。古代ローマの遺跡が多く,また中世にも重要な役割を果たした歴史的観光都市として著名である。
ローマ都市アウグスタ・トレウェロルムAugusta Treverorumは,おそらく前16-前13年のころ,アウグストゥス帝によってケルト系のトレウェリ族の居住地であったこの地に,ライン戦線ローマ軍団の兵站基地として建設された。モーゼル川河畔に位置し,ケルンやマインツに向かう街道に接するという交通の要地であったために,さまざまの商品の積み換え地として急速な経済的発展をとげ,織物,武器,陶器などの生産地ともなった。ほどなく政治的中心地ともなり,早くも1世紀の中ごろクラウディウス帝期の属州ベルギカの主都,3世紀末以後の帝国四分統治下では4首都のひとつとして,ガリア地方の行政の中心となった。4世紀に,コンスタンティヌス帝の下で最盛期に達し,人口7万を擁し,ローマ,コンスタンティノープル,カルタゴ,アレクサンドリア,アンティオキアと並ぶアルプス以北最大の都市となった。3世紀にはキリスト教の教会と司教の存在も証明され,4世紀には,この地に生まれた神学者アンブロシウスはもちろん,アタナシオスも一時期滞在している。4世紀末皇帝の宮廷がミラノに,総督官邸がアルルに移転したことで政治的意義を失った。475年フランク人の手に帰属,882年にはバイキングの厳しい侵攻を受けるなど,数百年の間に,かつての大建築物はほとんど崩壊し経済力も衰退して廃墟と化したが,大聖堂を中心とするキリスト教の伝統は存続した。
902年大司教がこの地の支配権を獲得,10世紀中ごろから遍歴商人たちの定住を見るようになり,大聖堂付近のマルクト(市場)広場を中心とする中世都市の発展が始まった。12世紀中葉には,ローマ時代よりはるかに縮小された規模の市域を囲む市壁も完成した。1190年ころには都市法も整備されて有力市民を中心とする自治権も強化され,都市領主たる大司教との緊張関係も生じたが,13世紀にかけて選帝侯領の中心として,またブドウ酒,家畜,木材,穀物,魚などの積み換え地としても,新しい繁栄を経験した。15世紀には自由帝国都市となったが,1580年に帝国への直属性を喪失,選帝侯の領邦都市と宣告された。17世紀には,三十年戦争やルイ14世のフランス軍の蹂躙(じゆうりん)を受けて経済生活も沈滞し人口も激減した。1794年フランス革命軍により占拠され,以後1814年まで同国ザール県の主都,15年のウィーン会議でプロイセンに帰属した。
執筆者:魚住 昌良
コンスタンティヌス大帝が造営を続けたといわれる皇帝浴場(カイザーテルメン)は,ローマのカラカラやディオクレティアヌスの浴場と並ぶローマ時代のもっとも重要なもののひとつである。温浴室のみがほぼ当初の形で残る。バシリカ(アウラ・レギアAula Regia)もコンスタンティヌス大帝時代にさかのぼる。高さ30mを超える巨大な煉瓦造建築で,これは内部には温風暖房装置の跡があり,当時の技術の高さを示す。やはりローマ時代の城門ポルタ・ニグラPorta Nigra(黒門)は,トリールの地がもっていた戦略的重要さを語るもので,中世にはこの中にキリスト教の礼拝堂が営まれた。キリスト教の大司教区としての発展を語る遺品は多く,大聖堂は11世紀に大司教ポッポPoppoのもとで旧来の教会堂を核として改めて造営され,12世紀後半,リブ・ボールトをもつ初期ゴシック様式で完成された(バロック期の付加物あり)。同じく中世に改築された,大聖堂のそばのリープフラウエン教会は,ギリシア十字形プランに多くの祭室を付設する。トリールはまた,中世に写本と象牙彫の中心地でもあった。
執筆者:勝 國興
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツ西部、ラインラント・プファルツ州の都市。トリアーともいう。人口9万9400(2000)。ルクセンブルクに近いモーゼル川右岸に位置し、ローマ人がライン川沿岸部に進出する拠点となった。ローマ都市の特徴は市街地中央部の街路や市門(ポルタ・ニグラ)、皇帝浴場、円形劇場などの遺跡に残る。モーゼル川沿岸地域の中心都市で、司法、行政、教育、経済など各種の機関が立地する。周辺はモーゼル、ザール、ルウェアのブドウ栽培地であるため、古くからワインの取引地として知られ、ブドウ栽培学校や州立ブドウ園もある。工業ではたばこ製造、製靴、じゅうたん製造、機械などに特色がある。カール・マルクスと妻イェンニーの生地で、市街中心部にはマルクスの生家があり、博物館となっていて著作や資料が展示されている。
[朝野洋一]
先史時代にモーゼル川流域にトルウェル人の集落があったが、紀元前15年ローマ皇帝アウグストゥスはここに屯営を設けた。これがローマ都市トリール(アウグスタ・トレウェロールムAugusta Treverorum)の端緒で、紀元後1世紀にはこの地方の中心都市に成長、150年ごろ第一ベルギカ州の州都となった。現存の闘技場は当時のものである。4世紀コンスタンティヌス帝のころ、ドーム、大浴場、ポルタ・ニグラ、石造りの橋などが完成し、人口7万、アルプス以北最大の世界都市となり、コンスタンティヌス帝をはじめ著名な文人や教父も滞在した。ゲルマン人の侵入のころ司教座が置かれてキリスト教世界の学芸の中心となったが、5世紀末からフランク人の支配下に入った。大司教が選帝侯になると市は選帝侯領の中心になるが、市民は経済力を増すにつれ自治を求めて大司教と争った。1190年都市法を制定、13世紀なかばに市壁で囲まれた中世都市の姿が完成、14世紀には市庁舎をもち、ツンフト(同職ギルド)の市政参加も実現した。法的には大司教の支配下にあって帝国都市ではなかったが、15世紀には人口約1万、ワインと塩の取引を基礎に事実上自由都市となり、大学(1473~1798)も設立された。16、17世紀には新教徒の退去、三十年戦争、フランス軍の侵入で人口が減少し衰退したが、18世紀にバロック風の都市に変貌(へんぼう)した。フランス革命戦争で選帝侯国は解体し、1797年フランス領に、1815年プロイセン領に編入された。19世紀末から、司教座所在地、行政中心地、商業都市の機能に加えて、国境の軍都としての重要性を増した。
[諸田 實]
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