日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリール」の意味・わかりやすい解説
トリール
とりーる
Trier
ドイツ西部、ラインラント・プファルツ州の都市。トリアーともいう。人口9万9400(2000)。ルクセンブルクに近いモーゼル川右岸に位置し、ローマ人がライン川沿岸部に進出する拠点となった。ローマ都市の特徴は市街地中央部の街路や市門(ポルタ・ニグラ)、皇帝浴場、円形劇場などの遺跡に残る。モーゼル川沿岸地域の中心都市で、司法、行政、教育、経済など各種の機関が立地する。周辺はモーゼル、ザール、ルウェアのブドウ栽培地であるため、古くからワインの取引地として知られ、ブドウ栽培学校や州立ブドウ園もある。工業ではたばこ製造、製靴、じゅうたん製造、機械などに特色がある。カール・マルクスと妻イェンニーの生地で、市街中心部にはマルクスの生家があり、博物館となっていて著作や資料が展示されている。
[朝野洋一]
歴史
先史時代にモーゼル川流域にトルウェル人の集落があったが、紀元前15年ローマ皇帝アウグストゥスはここに屯営を設けた。これがローマ都市トリール(アウグスタ・トレウェロールムAugusta Treverorum)の端緒で、紀元後1世紀にはこの地方の中心都市に成長、150年ごろ第一ベルギカ州の州都となった。現存の闘技場は当時のものである。4世紀コンスタンティヌス帝のころ、ドーム、大浴場、ポルタ・ニグラ、石造りの橋などが完成し、人口7万、アルプス以北最大の世界都市となり、コンスタンティヌス帝をはじめ著名な文人や教父も滞在した。ゲルマン人の侵入のころ司教座が置かれてキリスト教世界の学芸の中心となったが、5世紀末からフランク人の支配下に入った。大司教が選帝侯になると市は選帝侯領の中心になるが、市民は経済力を増すにつれ自治を求めて大司教と争った。1190年都市法を制定、13世紀なかばに市壁で囲まれた中世都市の姿が完成、14世紀には市庁舎をもち、ツンフト(同職ギルド)の市政参加も実現した。法的には大司教の支配下にあって帝国都市ではなかったが、15世紀には人口約1万、ワインと塩の取引を基礎に事実上自由都市となり、大学(1473~1798)も設立された。16、17世紀には新教徒の退去、三十年戦争、フランス軍の侵入で人口が減少し衰退したが、18世紀にバロック風の都市に変貌(へんぼう)した。フランス革命戦争で選帝侯国は解体し、1797年フランス領に、1815年プロイセン領に編入された。19世紀末から、司教座所在地、行政中心地、商業都市の機能に加えて、国境の軍都としての重要性を増した。
[諸田 實]