日本大百科全書(ニッポニカ) 「アッティカ」の意味・わかりやすい解説
アッティカ
あってぃか
Attiki
ギリシア中部、南東に突出した同名の半島の先端にある県。アッティカAtticaは英語名。エーゲ海のペタリオンPetalion湾、テルマTherma湾に臨む。県都アテネ。面積3808平方キロメートル、人口376万4348(2001)。
アテネ大首都圏を中心とした人口稠密(ちゅうみつ)なギリシアの心臓部である。土地はやせているが、良質のワイン、オリーブ油、蜂蜜(はちみつ)を産する。大理石の産地ペンテリコンPentelikon山や、古代の繁栄が伝えられる銀鉱山ラウリオンLaurionをもつ。アテネ南西の海岸線やヒメトス山へ向かう丘陵地帯は保養地として知られ、ケサリアニ、ダフニのビザンティン教会、ブラフロン、スーニオン、エレフシス、マラトンなど古代の遺跡も多いため、広く海外からの観光客を集めている。
[真下とも子]
歴史
この地域は新石器時代から人が居住し、最近の有力説に従えば、紀元前2000年にはギリシア人がすでに侵入、定住した。彼らが発展させたミケーネ文明の崩壊後も、伝説によると、アッティカはドーリア人に征服されず、ギリシア人「生え抜き」の国として存続した。アテネを中心に政治的統一が完成したのは前8世紀と考えられている。その後、ポリス(都市国家)アテネの領域として、ソロン、クレイステネスらの諸改革を経て古代民主政が開花、前5世紀には、文化、政治、経済などあらゆる分野でギリシア世界の中心となった。のちマケドニアの支配などを受けたが、前146年にはローマの支配下に入った。古代末期ゲルマン人に侵入され、8世紀にはスラブ人の定住地となった。中世以後いっそう衰亡し、幾多の変遷を経て、15世紀にトルコの支配下に入った。19世紀初めの独立後、アッティカの中心アテネが現代ギリシアの首都になったのは1834年である。
[真下英信]