改訂新版 世界大百科事典 「アヤデラトーレ」の意味・わかりやすい解説
アヤ・デ・ラ・トーレ
Víctor Raúl Haya de la Torre
生没年:1895-1979
ペルーの政治家,アプラ党党首(1924-79)。ペルー北部トルヒーヨ市の裕福な中産階級の家に生まれるが,糖業プランテーションの帝国主義的独占化によって家は没落。1917年リマに出,サン・マルコス大学に入学,ただちに学生連合の指導者として頭角をあらわした。学生時代マルクス主義に触れ,同時にゴンサレス・プラダの思想と出会う。19年には8時間労働をめぐる労働者のゼネストを支持し,翌年に労働者のためのゴンサレス・プラダ人民大学を創設した。この大学を通じて組織労働者との接触を深め,23年5月には独裁者レギアの政教一致政策に反対して大きな勝利をおさめるが,その後パナマに追放される。亡命地のメキシコ市で24年,労働者と知識人の反帝統一戦線組織のアプラ党を創設し,25年モスクワに渡りコミンテルンと接触するが,ラテン・アメリカへの理解の薄いことに失望。27年ブリュッセルの反帝国際会議の後は共産党と決裂した。31年,政権奪取を目指して本国に戻り大衆運動を展開するが,アプラの急進的改革主義は,軍を後ろ盾とする支配階級の弾圧を呼び,アヤは地下生活,入獄を繰り返すことになる。ことに48年カヤオでの蜂起の後,コロンビア大使館に亡命するが,国際司法裁判所の裁定や国際世論の高まりにもかかわらず,ペルー独裁政権によって5年間も国外脱出を認められなかった。62年の大統領選では最高得票を得たが,軍部の反対で無効とされた。そして翌年の再選挙では敗れたが,アプラ党は議会の多数を占めた。晩年,78年の立憲議会では議長をつとめた。主著に,《反帝国主義とアプラ》(1936),《空・時・歴史》(1948)がある。
→アプラ
執筆者:遅野井 茂雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報