パナマ運河(読み)ぱなまうんが(英語表記)Panama Canal

翻訳|Panama Canal

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パナマ運河」の意味・わかりやすい解説

パナマ運河
ぱなまうんが
Panama Canal

中央アメリカのパナマ地峡を横断してカリブ海太平洋を結ぶ運河。カリブ海側のクリストバル港から太平洋側のバルボア港に至る全長約82キロメートルの水路で、交通および軍事戦略上きわめて重要な運河である。閘門(こうもん)式運河で、ガトゥンの三段式閘門、ペドロ・ミゲルの一段式閘門、ミラフロレスの二段式閘門からなる。クリストバルから運河を11キロメートル航行して人造湖のガトゥン湖に至り、ガトゥン閘門でガトゥン湖と同じ標高26メートルまで船舶は持ち上げられる。ガトゥン湖を40キロメートル航行し、パナマ地峡の背骨である丘陵地帯を掘削したクレブラ堀割に至る。ついでペドロ・ミゲル閘門で船舶は標高17メートルまで下げられ、さらにミラフロレス閘門で海水面まで下げられたのち、約13キロメートルの運河を航行して太平洋岸のバルボアに至る。運河航行に約8時間を要し、1日40隻が限度である。6万5000トン以上の大型タンカーや空母は通行できない。第二次世界大戦後の船舶の大型化によって、通行船舶数は1960年代末の年間1万5000隻から伸び悩み、1998会計年度(1997年10月~1998年9月)の通行船舶数は1万3025隻。通行収入は5億4570万ドル(1998会計年度)で、そのうち1億0690万ドルがパナマ政府に支払われた。

[加茂雄三]

歴史

スペインの植民地時代を通じて、パナマ地峡は、ペルー副王領で産出した銀を本国に運ぶ重要なルートで「王道」とよばれていた。スペイン人は早くも16世紀に、この地峡に運河を建設することを考えていたが、実行に移されぬまま数世紀が過ぎ、この地峡の重要性がふたたび強く認識されたのは、19世紀のなかばにアメリカのカリフォルニアでゴールド・ラッシュが起こって、アメリカの東海岸から西海岸にまで容易に行くことができる交通路の開拓が必要になったときであった。それにこたえてアメリカの民間会社が1850年にパナマ地峡を横断する鉄道の建設に着手し1855年に完成した。アメリカの大陸横断鉄道がまだ完成していなかった当時、この鉄道は大西洋と太平洋を結ぶ交通路として重要な役割を果たした。1860年(万延1)には日米修好通商条約批准書を携えた幕府の最初の訪米使節団が、パナマ経由でワシントンに行く途中この鉄道を利用している。パナマ地峡の運河建設に最初に着手したのはフランスの民間会社で、コロンビア政府から運河建設のための権利を獲得し、スエズ運河を建設したフェルディナンド・ド・レセップスの指揮のもとで1881年に運河建設を開始した。しかし、想像以上の難工事、資金の枯渇、マラリア黄熱病の猛威により、1889年に5分の2を掘ったところでこの会社は破産し運河の建設は中断した。

 フランスの民間会社が運河建設に失敗したあと、20世紀の初頭にそれを引き継いで完成させたのがアメリカ政府である。当時アメリカは、1898年のスペインとの戦争でフィリピンとグアムを獲得し、またハワイを併合するなど、アジアや太平洋地域へ進出を開始していた。このような進出をさらに容易にするために、アメリカ東部海岸から中央アメリカ地峡を横断して太平洋に出るためのルートの必要性が強まった。スペインとの戦争の際に、軍艦オレゴン号サンフランシスコから南アメリカ大陸南端のホーン岬経由でフロリダまで周航させるのに67日も費やしたことは、アメリカの政治家や国民に運河建設の必要性を痛感させた。オレゴン号が航行した1万9000キロメートルの距離は、中央アメリカ地峡に運河があれば約3分の1に短縮できたからである。戦後ただちにアメリカ政府は、米英両国政府が中央アメリカ地峡で運河を独占的に建設することを禁じたクレートン‐ブルワー条約を改定する交渉に乗り出した。1901年の第二次ヘイ‐ポンスフォート条約で、アメリカが単独で運河を建設し、運河地帯を要塞(ようさい)化できる権利をイギリスに認めさせた。当時中央アメリカ地峡で運河建設の候補地とみなされていたのはニカラグアとパナマであった。アメリカはパナマ・ルートをとることを決定し、コロンビア政府と交渉して、1903年1月、アメリカ政府がパナマ地峡に運河を建設し、それを支配することを認めた条約を締結した。しかしその批准をめぐってアメリカのセオドール・ルーズベルト政府が示した脅迫的な姿勢がコロンビア議会の反発を招き、結局議会は条約の批准を拒否した。一方、コロンビアからの分離傾向を強めていたパナマ地方の住民たちは、コロンビア議会が条約の批准を拒否したことに深く失望し独立の陰謀を進めた。同年11月3日、彼らはアメリカ政府からの支援を期待しつつコロンビアからの分離独立に踏み切った。この独立は、アメリカから派遣された軍艦による威圧などの助けを借りて成功し、アメリカ政府は11月6日にパナマ共和国を承認した。

 アメリカはただちに、パナマの特命全権大使であるフランス人ビュノーPhilippe Bunau-Varilla(1859―1940)との間で運河に関する条約を締結した。この条約は先にコロンビアとの間で結んだ条約よりもはるかにアメリカにとって有利なもので、アメリカ政府はパナマ運河を建設し運営する権利と、カリブ海岸から太平洋岸に至る幅16キロメートルのパナマ運河地帯を「あたかも領土の主権者のごとく所有し」、それを「永久に使用、占有、支配する」権利を獲得し、その代償としてパナマ政府に即金で1000万ドル、9年後から毎年25万ドルを支払うことを定めた。この条約のなかのあいまいな表現が、その後運河地帯の主権がどちらかにあるかをめぐって両国間でなされた紛争の原因となったが、主権はアメリカ側にあるという解釈のもとでパナマ側はその後半世紀以上にわたって半植民地的な状態を強いられた。アメリカ政府は1904年に運河の建設に着工し、第一次世界大戦前夜の1914年8月15日に開通した。運河の開通により、アメリカの、アジア、太平洋や南アメリカの太平洋岸地域への進出は飛躍的に容易になった。パナマ運河とその入口に位置するカリブ海地域はアメリカにとって「死活にかかわる地域」とよばれるほどその戦略上の重要性が増した。一方、パナマは前記条約のもとで半植民地状態に置かれ、運河から得られる莫大(ばくだい)な通行料はすべてアメリカが獲得したため、交通の要衝というこの国の最大の資源を生かすことができず、発展は停滞した。

 パナマ政府に対する年間の支払い額は、その後、1933年には43万ドル、1955年には193万ドルへと増額されたが、この額は、運河通行料が1億4300万ドル(1975)であったのに比べて、そのわずか1.3%というものであった。このようなパナマ側にとっての経済的不利益や、運河地帯でのパナマ人に対する差別などに対してパナマ側の不満は増大し、1964年に運河地帯でのパナマ国旗の掲揚をめぐって起こった争いに端を発した暴動となって爆発した。この事件で衝撃を受けたアメリカ政府は新しい運河条約のための交渉に着手した。しかし、運河地帯の主権返還を要求するパナマ側からの圧力は、1968年10月にクーデターで生まれた、民族主義者トリホス将軍が指導する政権のもとで一段と高まった。運河地帯にはアメリカ軍の巨大な軍事基地や、ラテンアメリカでのアメリカ軍の作戦行動を統轄する南方軍司令部が置かれるなど、アメリカにとって軍事的な面からも重要であり、パナマ側からみればそれらによって戦争に巻き込まれる危険性をもっているという問題があった。しかしパナマ側の要求をラテンアメリカ諸国も支持したため、結局アメリカは譲歩して、1977年9月、パナマ政府との間に新運河条約を締結し、翌年4月に批准された。新運河条約は、運河地帯の主権がパナマ側にあることを明確にするとともに、1999年末に運河の所有、および運営をパナマ側に引き渡すこと、パナマへの年間支払い額を大幅に増額すること、運河地帯の運営にパナマ人を参加させることなどを定めており、そのかわり軍事基地は当分の間存続することとなった(1999年11月、最後の基地を返還)。1999年12月31日正午、パナマ運河および周辺地帯はアメリカからパナマに引き渡された。このように旧運河条約がもっていた問題についてはいちおうの決着がつけられた。しかし、現在の運河が老朽化していることや、閘門式のため船舶の通行に時間がかかること、幅が狭いため6万5000トン以上の船は通行できないなどの欠点があるため、新運河建設の構想がおこり、1982年以来、パナマ、アメリカ、日本の間で第二パナマ運河建設の可能性について検討がなされた。2006年にパナマ政府はパナマ運河の拡張を計画し、同年10月には国民投票において拡張計画の支持を得た。開通100周年にあたる2014年竣工を目ざし、工事が進められている。拡張工事終了後には、最大許容船型は全長366メートル、幅49メートル、喫水15メートルへ拡大される。また、現在の閘門は拡張工事終了後も供用され、運河の容量は約80%増加するとされている。

[加茂雄三・鈴木聡士]

工事技術からみた歴史

パナマ運河は、パナマ地峡部を開削してカリブ海と太平洋を結ぶ全長約82キロメートルの閘門式運河である。1881年、スエズ運河を完成させたレセップスにより水平式運河として着工されたが失敗に終わった。

 その後、閘門式運河に切り換えられ、エッフェル塔の建設者エッフェルが招かれた。しかし、1889年2月のパナマ運河会社の倒産によりフランス人による工事は幕を閉じた。そしてパナマ運河建設の権利はアメリカ合衆国に移った。1904年に工事が再開されるや、ゴーガスWilliam Crawford Gorgas(1854― 1920) によりパナマ地峡地帯の風土病である黄熱病やマラリアなどに対して徹底的な防疫処置が行われた。1907年に運河建設の主任技師になったゲーサルスGeorge Washington Goethals(1858―1928)大佐は、新鋭の蒸気機関や浚渫(しゅんせつ)船を用い、さらにアメリカ合衆国工兵隊により軍事的規律の下で工事を行い1914年に完成した。

 この運河は二重のコンクリート壁と導水管からなる代表的な閘門式運河である。幅33~109メートル、水深は、もっとも浅い地点で約14メートルである。チャグレス川をガトゥン・ダムでせき止め、水面標高27メートルの人造湖ガトゥン湖をつくり、ゴールド・ヒル丘陵地帯に深さ約14メートルのゲーリャード・カット(堀割)が掘削された。

 付帯工事を含め、運河建設の土工量は約1億8500万立方メートルで、閘門やダムに使用されたコンクリートは約380万立方メートルであった。その後、マッデン湖にマッデン・ダムが建設されパナマ運河地帯の総合開発計画も進められた。

[五十嵐日出夫]

『日本中小型造船工業会編『パナマ運河拡張が世界の海運・造船産業に与える影響に関する調査』(2009・日本財団助成)』『河合恒生著『パナマ運河史』(教育社歴史新書)』『山口廣次著『パナマ運河――その水に影を映した人びと』(中公新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パナマ運河」の意味・わかりやすい解説

パナマ運河
パナマうんが
Panama Canal

パナマ共和国のパナマ地峡を横断して大西洋と太平洋を結ぶ運河。カリブ海岸のコロンから人造湖ガツン湖を経て太平洋岸のバルボアに通じる。船の通過所要時間は8時間。閘門式運河で,複線6対の閘門をもち,長さは両大洋の深海面から約 81km,両海岸線間では約 65kmあり,水路底幅は最短 90m,深さは最低 13mある。年間約1万 5000隻の船舶が通過する。 1881年フランスの F.レセプスが建設に着手したが,黄熱病,マラリアと雨季の氾濫で工事は阻止された。 19世紀末に海外進出の機運が高まったアメリカは,T.ルーズベルト政権のとき,フランス・パナマ運河会社より,4000万ドルでその資産と利権を買取った。さらに 1903年アメリカはコロンビアからのパナマ独立を援助して,新たに独立したパナマとヘー=ビュノーバリヤ条約を締結。アメリカは開削権の獲得,運河とその両側 8kmの地域を永久に使用,占有,かつ支配する権限を得た。 04年から G.ゴーサルス陸軍大佐指揮下のアメリカ工兵隊が工事にかかり,13年3月に完成,14年8月開通。その結果,それまで南アメリカの南端ホーン岬を迂回していた航路は著しく短縮された (ニューヨーク-サンフランシスコ間は約1万 5000km,リバプール-サンフランシスコ間は1万 km短縮) 。おもな通航貨物は,石油製品,燃料,鉱産物,金属,穀類。運河経営はパナマ運河会社で,アメリカ大統領任命の総督が運河地帯の警備,主管にあたっている。しかし,アメリカに有利な条約に対して,第1次世界大戦後より,パナマ側の不満が高まり,36年4つの条約が結ばれた。第2次世界大戦後,世界の各地でナショナリズムの機運が高揚するなかで,たびたびアメリカは譲歩を余儀なくされたが,パナマ側の強い返還要求によって,77年アメリカとの間に 99年末までに支配権をパナマに全面移譲するという新条約が締結され,99年 12月 31日に返還された。また,1980年代からはより大きな第2パナマ運河建設が準備されている。

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