アラウカノ
あらうかの
Araucano
南アメリカ、チリ中南部と、アンデス山脈を越えたアルゼンチンに住む先住民集団の総称。アルゼンチンのアラウカノは白人との接触以後チリから移住したものである。ピクンチェPicunche、ウィジチェHuilliche、マプーチェMapucheの三つの集団に分けられるが、ピクンチェは17世紀末までにスペイン軍に敗れて同化され、ウィジチェは周囲の混血チリ人と文化的に区別がつかなくなっており、いまだにある程度伝統を保っているのは保留地に住むマプーチェだけである。マプーチェはインカ帝国の軍隊を撃退し、スペイン人に対しても激しく抵抗した。マプーチェの抵抗は1882年まで続いたが、その後は保留地に住み、かつてのように小さな村を移動させることなく1か所に定着している。このマプーチェは、南アメリカに残る数少ない先住民大集団の一つであり、マプーチェの人口はチリに50~100万人、アルゼンチンに6万人、ウィジチェは3万人ほどである。若者の間には、町に出て教育を受けたり、仕事を探したりする傾向が強まり、チリの首都サンティアゴにも数万人のマプーチェが住む。
[木村秀雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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アラウカノ
Araucano
チリ中部の土着民族の総称。南緯30°から43°のあたりに居住し,ビオビオ川以北はピクンチェ族,以南にはマプチェ族とウィリチェ族がいた。温暖な気候に恵まれ,アンデス文明の影響で農耕と家畜飼育を生業として,大きな人口を擁した。16世紀の人口は50万~150万人と推定され,20世紀中ごろでも20万人くらいである。農耕ではトウモロコシとジャガイモを主作物とし,マメ,カボチャ,トウガラシ,その他ムギに似た穀類を栽培し,リャマ(ラマ)と犬を飼育した。板舟,くりぬきカヌー,葦舟,いかだによる漁労も重要な生業だった。木造家屋,土器,金・銀・銅の細工も知っていた。15世紀後半マウレ川まではインカ帝国に併合され,1541年以後スペインの植民地がひろがりだし,58年から98年まで,アラウコ戦争として知られるはげしい抵抗をつづけた。チリ独立後も抵抗が断続的に行われたが,1882年から83年にかけて平定された。
執筆者:大貫 良夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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アラウカノ
チリ中央部から南のチロエ島,アルゼンチンに分布していたアメリカ・インディアンの総称。狩猟,農耕が主。砂漠のため人口密度は低く,父系血縁集団に基づく小コミュニティを形成。インカ,次いでスペインの侵入に抵抗したが,多くは混血化した。南に逃亡した約20万人(マプチェ)は伝統文化を維持。
→関連項目テムコ
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内のアラウカノの言及
【テムコ】より
…南部の農業地帯の中心で,小麦などの穀物や木材の集散地。この地方には今なお[アラウカノ]原住民が居住しているが,彼らは植民地時代からスペイン人に対し勇敢に戦った。テムコも1881年アラウカノ族に対処するための拠点として建設されたもの。…
※「アラウカノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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