(1)日本古代の律令国家の軍事組織。モデルとした唐の折衝府(せつしようふ)は兵士訓練,中央衛府への兵士供給を主務としたのに対して,日本の軍団制は,軍事指揮権,兵士訓練権をもたない兵士徴発機構としての性格がつよく,また中央衛府(えふ)とのみ結びつくものでなく国内要地の守備兵,防人(さきもり),衛士(えじ),征軍兵士を供給した。軍団は兵士徴発・動員規模により,最大1000人規模,最大500人規模という2種類の編成式をもち,また引率兵士の多少に対応して軍毅(ぐんき)(大毅,少毅,毅),校尉(200人引率),旅師(100人引率),隊正(50人引率)の職員と主帳が配置されていた。軍毅は国内の有位者,勲位者などから選抜され外武官として官人の待遇をうけたが,校尉以下は兵士のうちから選抜され,校尉以下が国外への兵士引率の任に起用された率は少ない。防人,囚人引率などの史料にみえる職員は軍毅のみである。軍団は1国に1団以上,郡の分布に対応していくつかの団が設定され,徴兵業務機構,武器兵糧集積地として城と呼ばれるところもあった。兵士の武器は自備を原則としたが,同時に集団戦兵器などの武器収公を行った。軍団には,収公した武器,制式武器として生産された弩(おおゆみ)・幡,鼓・大角などの集団戦武器,野戦用軍器,非常食が集積されていた。まだ明確な軍団建造物が確認されていないが,郡衙推定地と類似した複数建物群,倉庫群ともいうべきものが軍団の景観であったろう。軍団は国衙の下部機構で,軍団職員は国衙官人の業務遂行を補う位置にあった。
このように軍団が行政の指導下におかれ軍事行動の単位としての性格が著しくそがれたのは,その成立事情と深く関連している。すなわち,軍団制の成立は律令国家以前の豪族軍の解体,豪族が所有していた軍事指揮権,武装権,兵士徴発権の剝奪,武器などの収公を目的とし,中央集中的な軍事体制の確立をもたらすものであった。このため律令国家の軍隊は天皇によって臨時に任命された大将軍,将軍を指揮官とした征軍(防人軍,衛士軍もその変型であろう)を基本的な形態とした。この征軍が常時配備された陸奥などの特定地域,辺要国では,軍団職員が征軍の基幹要員となったり,軍毅職団が給与される場合もあった。
軍団制は8世紀を通じて漸次改変された。律令当初,軍団が徴発する兵士は他の力役徴発とは別に確保されていたが,養老年間にはそうした配慮をうけなくなった。719年(養老3)には軍団,大少毅,兵士等の数が減定し,739年(天平11)には辺要国を除く一般諸国の兵士の暫廃の措置がとられ,若干の曲折を経て,792年(延暦11)に軍団制は辺要地を除き停廃された。
→軍制[日本] →兵士(ひょうじ)
執筆者:野田 嶺志(2)軍隊編制の単位の一つで,一指揮官の下におかれた数個師団の軍隊の総称。先進諸外国の軍隊は,多く軍団の編制を採用している。軍団司令部は,通常戦術指揮のみの機能をもち,人事,兵站(へいたん)等の管理機能はもたない。旧日本陸軍においては1885年東・西・中の3監軍部をつくり,この長である監軍は天皇に直隷して管下の2個鎮台(全国を6区分して置かれた軍隊)を管掌し,有事には軍団長として管下の鎮台で編成する2個師団を指揮することとされたこともあったが,実際には軍団にかわり〈軍〉が編成された。自衛隊では軍団に相当する編制はなく,方面隊が数個師団を指揮している。
執筆者:橋口 茂
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日本古代、律令制(りつりょうせい)下の兵制。中国唐代の府兵制に倣ったもので、7世紀末の持統(じとう)朝ごろ成立、701年(大宝1)の大宝(たいほう)令の制定により整備されたと考えられる。大宝・養老(ようろう)の軍防(ぐんぼう)令の規定では、1戸のうちから正丁(せいてい)(21歳以上60歳以下の男子)3丁ごとに1丁をとって兵士とし、付近の軍団に配属する。軍団は全国にほぼ平均に置かれたと考えられる。軍団は通常、兵士1000人をもって構成され、軍毅(ぐんき)(大毅・少毅)がこれを統率し、その下に校尉(こうい)、旅帥(りょそつ)、隊正(たいせい)があって、それぞれ兵士200人、100人、50人を指揮した。兵士には歩兵・騎兵の別があり、交替で軍団に勤務して武術の教練を行うほか、衛士(えじ)として京に1年、防人(さきもり)として九州の防衛に3年の勤務が規定され、また兵器・城塞(じょうさい)・堤防の修理や、外国使臣・囚徒・兵器の護送などにも使役された。兵事にあたっては征討軍が編成され、天皇の命を受けた将軍の指揮下に出征した。
軍団制の模範となった唐の府兵制では、地方の折衝府(せっしょうふ)は中央の衛府の統轄下にあったが、日本の軍団は衛府とは直接の統属関係がなく、地方行政官としての国司の管理下にあった。8世紀後半以降、農民の階層分化の進行に伴って兵士は弱体化し、唐の衰退に伴う東アジアの政治的緊張の緩和とも関連して、792年(延暦11)、陸奥(むつ)、出羽(でわ)、佐渡(さど)、大宰(だざい)管内諸国を除いて軍団・兵士は廃止、かわりに国衙(こくが)守備兵としての健児(こんでい)が設置された。
[笹山晴生]
『笹山晴生著『古代国家と軍隊』(中公新書)』
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律令制下,地方におかれた兵団。大宝令で成立したとみられる。国ごとに1団ないし数団があり,各団には最大1000人までの兵士が所属した。自弁の武具・食料を納め,部隊に編成されて訓練をうけ,諸種の任務に派遣された。軍団の長を大毅(だいき),副官を少毅といい,以下兵士200人を領する校尉(こうい),100人を領する旅帥(りょすい),50人を領する隊正(たいせい),また事務官の主帳(しゅちょう)がいた。このうち大・少毅は考課をうけて叙位の対象となった。これらは現地採用だが,軍団は全体として国司の支配下にあった。792年(延暦11)陸奥・出羽・佐渡・西海道等の辺要諸国を除き,兵士制とともに廃止され,西海道諸国は826年(天長3)に廃止,残る諸国の軍団もやがて衰退した。
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…このような駅伝制による律令交通制度の整備は国郡制による律令国家の全国統治を支えるもので,中央の命令が迅速に諸国に伝達されるとともに,諸国の政務内容もまた四度使(よどのつかい)(朝集使,大帳使,貢調使,税帳使)などのもたらす多数の公文によって,たえず中央に報告された。 軍制についてはまず諸国には律令制軍事組織の基本をなす軍団が置かれていた。軍団はふつう1000人の兵士(ひようじ)をもって構成され,国司の監督下にあったが,指揮官である大毅・少毅には一般に地方豪族が任命された。…
※「軍団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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