翻訳|Greek
梵語(ぼんご)、ラテン語、ゲルマン諸語、スラブ諸語などとともに、インド・ヨーロッパ(印欧)語族に属する言語。
[田中利光]
ギリシア語民族がギリシア本土に入ったのは、およそ紀元前2000年をすこし下ったころだと、一般には考えられている。
前8世紀末以来の金石文などによって、多くの方言に分かれていたことがうかがわれるが、次のように大別される。
〔1〕東ギリシア方言、(a)イオニア・アッティカ方言、(b)アイオリス方言、(c)アルカディア・キプロス方言、
〔2〕西ギリシア方言、(a)北西ギリシア方言、(b)ドーリス方言。
しかし、こうした分布は古くからこのように固定していたわけではなく、〔1〕(a)の特徴の成立は比較的新しく、古くは〔1〕(a)と〔1〕(c)はより近い関係にあったと考えられること、および〔1〕(b)が〔1〕(a)および〔1〕(c)に近い特徴を有しているのは、〔1〕(a)による比較的後の影響によるもので、むしろ古くは〔2〕グループに近かったと考えられること、および〔2〕(b)の歴史時代の分布は比較的新しいことから、古くは(1)北ギリシア方言(アイオリス・北西ギリシア・ドーリス方言)と(2)南ギリシア方言(イオニア・アッティカ・アルカディア・キプロス方言)という分布だったのではないか、とする考えが比較的有力である。
前1200年ごろの線文字B文書によって知られるギリシア語には、方言差がみられず、これは南ギリシア方言に近い。
前8世紀中葉から前6世紀中葉にかけての大植民活動によって、西方はシチリア、南イタリア、さらにフランス南岸やスペイン東岸、北方はエーゲ海北岸や黒海沿岸、南方はアフリカ北岸キレナイカなどにギリシア語は広まったが、それぞれ母市の方言の特徴を示している。
これらの方言のうち、イオニア方言を基調とし、アイオリス方言などを交えて、叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』が前8世紀にはまとめられ、その用語は以後の叙事詩その他に対して、標準語として大きな影響を与えた。アイオリス方言にも優れた叙情詩が生まれ、ドーリス方言は合唱隊歌の用語の基礎になった。これらの文学方言は、いずれも他の文学方言の要素を交えるなど、多かれ少なかれ「人工的な」もので、一定の時および地域で実際に話されていた方言と一致するものではない。
前6世紀には、イオニアの地に散文用語が形成され、ギリシア世界に広く用いられるようになった。前5~前4世紀にはアッティカ方言において、優れた悲劇、喜劇、散文作品が生まれた。この期のアッティカ方言はとくに古典ギリシア語といわれる。
アッティカ方言は、アテナイが政治的、経済的、文化的に優勢になるにつれ、有力になった。ギリシア世界がしだいに衰退して、前4世紀後半マケドニアによって統一されると、アッティカ方言を基礎とし、イオニア方言の要素を交えた共通語(コイネー)が形成され、他面、ごく特別な例外は別にして、諸方言はしだいに消滅していった。アレクサンドロス大王の東征を契機に、コイネーは、ギリシア本土、マケドニアはむろん、トラキア、小アジア、アルメニア、シリア、パレスチナ、エジプト、メソポタミアから、一時はインドのインダス川流域にまで至る広大な地域に行われるに至った。前3~前2世紀に訳された『七十人訳旧約聖書』および後1世紀後半に記された『新約聖書』の用語も、基本的にはコイネーである。ごく大まかに、後6世紀なかばのユスティニアヌス帝のころまでが、このコイネーの時代とされる。
こうして、しだいに古典ギリシア語から乖離(かいり)していったが、これに対抗して、古典ギリシア語に倣おうとする運動がおこり、こうした擬古主義(アッティカ主義)に基づく作品もようやく多くなって、後2世紀にはこの傾向は頂点に達した。4世紀から1453年までのビザンティン帝国の公用語は、この擬古主義の影響を深く受けており、ビザンティン・ギリシア語といわれる。
コイネーはビザンティン時代に分化し始めたと考えられる。そして、スラブ、イスラムの進出、トルコの侵入・支配によって、通用する範囲を狭められ、かつ分化を重ねて成立したのが現代のギリシア語諸方言である。現在行われる範囲はギリシア共和国、キプロス共和国、それにイスタンブールのギリシア人居住区である。なお、イタリア半島の「爪先(つまさき)」と「踵(かかと)」のそれぞれにわずかに行われているギリシア語は、ペロポネソス半島南東のごく一部に行われているツァコニア方言とともに、コイネー以前の方言に由来する。
1829年ギリシアは独立を回復したが、このときにも、一方では古典ギリシア語をモデルにした古風な公用語が定められた。これをカサレブサ(純正語)という。これに対して、ペロポネソス半島の諸方言を基礎にした共通語もしだいに形成されていった。これをディモティキ(民衆語)という。このほかに中間的なもの、超純正語的なもの、超民衆語的なものがあり、どれを公用語とするかをめぐって深刻な「言語問題」がおこったが、近年カサレブサが公用語の地位を退き、1976年9月以来、ディモティキがすべての学校で教えられている。
[田中利光]
古典ギリシア語を中心に述べ、時代により、方言により異なる点は適宜補足する。
[田中利光]
印欧祖語の*yを失った(*印は推定音であることを示す)。*wも早く失われた(線文字B文書などではなおよく保たれている)。*sは閉鎖音の前後、語末以外では、語頭ではhになり、語中では失われた。そのため、これらの音を介して並んでいた二つの母音が一つに融合した。*kw、*gw、*gwhは位置によって、p、b、ph、またはt、d、th、またはk、g、khになった。語末の子音はn、r、s以外はすべて脱落した。母音は祖語の姿をよく保存しているが、古典ギリシア語では、*はに、*ouはūに、*āはr、i、eのあと以外ではēになった。かくして、母音は、ē、、、ō、、ū、とai、auなどの二重母音、子音はb、p、ph、d、t、th、g、k、kh、s、h、l、r、m、n。アクセントは高低アクセントで、位置も制限がなかったが、語末から3音節以内の音節に限られるようになった。
コイネーではアッティカ方言のttにイオニア方言その他のssがとってかわった。ē、はiに、aiはe、oiはüになった(母音の長短の区別は後3世紀ごろまでには失われて、āはaに、ōとはoに、ūはuになった)。そこで母音はa、e、i、o、u、üの六つ。さらに、auはavまたはafに、euはevまたはefに、ph、th、khはそれぞれf、θ、xに、b、d、gはそれぞれv、ð、γになり、hは失われ、üはiになるなどの変化を経て、またアクセントは強弱アクセントに移行して現代に至っている。
[田中利光]
実体詞、形容詞、代名詞、動詞、副詞、前置詞、接続詞、小辞の8品詞がある。初めの四つは活用する。実体詞は性(男、女、中)を有し、数(単、複、双)と格(呼、主、属、与、対)によって、形容詞はさらに性によっても活用する。代名詞のうち人称代名詞は実体詞のように、指示代名詞などは形容詞のように活用する。
動詞は数、人称(一、二、三)、相(能動、中動、受動)、法(直説、接続、希求、命令)、時称(現在、未完了過去、未来、アオリスト〈無限定過去〉、現在完了、過去完了、未来完了)によって活用し、さらに各相の、現在、未来、アオリスト、完了時称のそれぞれに、不定詞、分詞がある。そのほかに動詞的形容詞がある。こうした活用があるため、語順は比較的自由である。また、不定詞、分詞がさまざまに用いられて、しなやかで、こみいった表現が可能である。
線文字B文書では位置と道具を表す格があったが、ともに消滅し、その機能は与格が果たすことになった。双数(一つと三つ以上に対して、二つを表す)を残しているのはアッティカ方言の古風な特徴であるが、コイネーでは失われ、希求法も若干の場合に用いられる以外は消滅した。アオリストと現在完了の区別もあいまいになり、現代では失われている。同じく現代では与格も用いられなくなり、その機能は属格、あるいは前置詞と対格の組合せで表される。未来と不定詞も失われ、その働きは小辞と接続法の組合せで代用されるようになった。また、数、人称、相、法、時称のほかに態(アスペクト)によっても活用するようになっている点が注目される。語順はなお比較的自由である。
[田中利光]
文法形態と基礎的な語彙(ごい)を別にすれば、かなりの数の語彙は借用語であるらしい。そのうちの多くは、ギリシア語民族到来以前に行われていた言語からのもので、植物、動物、鉱物、容器、料理、衣服、履き物、武具、家屋建築、海事、歌舞音曲、宗教、神名、社会制度など広範な分野に及んでいる。しかし古典期のギリシア語に入った借用語はきわめて少ない。
コイネーのなかには、アッティカ方言以外の方言、とくにイオニア方言から多くの単語が入り込んだ。
ビザンティン時代の初期には多くのラテン語が入った。合成、派生による造語能力はあらゆる時期を通じて旺盛(おうせい)で、きわめて豊かな語彙がつくりだされてきたが、ビザンティン後期にも、手持ちの要素を組み合わせて、豊富な合成語が形成された。
ディモティキの単語の大部分は古来のものである。古来の要素を組み合わせて新しくつくられた派生語、合成語も多い。カサレブサを通して入ったものもある。そのほか、トルコ語、イタリア語、フランス語などからの外来語もみられ、英語からのものがしだいに増加してきている。
ギリシア語は、現在もなお、国際社会に対して、ラテン語と並び、学術用語を豊富に提供し続けているが、それは今後も変わらないのではないかと思われる。
[田中利光]
『田中美知太郎・松平千秋著『ギリシア語入門』改訂版(1962・岩波全書)』▽『田中美知太郎・松平千秋著『ギリシア語文法』(1968・岩波書店)』
インド・ヨーロッパ語族の一語派。その言語はバルカン半島南端のギリシア本土からクレタ島を中心とするエーゲ海の島々はもとより,植民によって非常に古くから小アジアの海岸地帯に広まり,さらに黒海南岸の町や,シチリアを含む南イタリア一帯にも分布していた。その歴史は古代から現代に及び,文献の豊富さはインド・ヨーロッパ語族中でも傑出している。古典ギリシアと中世のビザンティン帝国,そしてキリスト教教会と,その文化は,西欧世界の形成にはかり知れない影響をあたえたが,言語的にもその遺産はきわめて大きい。
その歴史は〈ミュケナイのギリシア語Mycenaean Greek〉と呼ばれる線文字Bで書かれた文書に始まる。粘土板に刻まれ,火災に焼かれ,乾燥した土地で埋没したまま近代にいたって発見されたこの文書は,クレタ島のクノッソス宮殿とペロポネソス半島の各地から出土したものだが,長い間当事者のだれもが,その言語は先住民族のもので,ギリシア語であろうとは予想しなかった。ところが戦後になって,イギリスの若い建築家M.ベントリスは暗号解読の方法を利用してその解読に成功し,ギリシア語学の専門家であるチャドウィック John Chadwickの協力をえて1952年にその成果を発表し,この言語をギリシア語であると断定した。この予想外の結果に当初は疑問を投げる学者もいたが,現在ではほぼ学界の承認するところとなり,ギリシア語の歴史は文献的に前1400年ころにまでさかのぼることが可能になった。それは,ホメロスの叙事詩に語られているクレタとミュケナイを中心とする英雄時代に属するもので,前1200年ころに小アジアからギリシア一帯をおそった破滅の嵐によってこの世界が〈暗黒時代〉を迎えるまで続いている。しかしその文書の内容は非常に限定されていて,宮廷の書記がメモのように財産を書き留めたものが多く,文学作品はない。したがって語彙も限られているが,それでも言語的にはギリシア語の古い方言の特徴が保たれている。しかし文字がアルファベットのような音表文字でなくて(仮名(かな)と同じ)音節文字であるため,子音連続の多いギリシア語を表すのには不向きであり,またその表記はきわめて不完全なものである。語中の子音連続は1子音しか書かれず,語末の子音は表記されていない。例えばpa-te(=patēr〈父〉),wa-tu(=astu〈町〉),pe-mo(=sperma〈種〉)。そこでその解読にはしばしば不明瞭な点が残るが,その反面歴史時代のギリシア語には一部の方言を除いて消失したwの音の存在や,ラテン語のquに相当する音が独立して表記されているなど,ホメロス以前のギリシア語の一面が認められる。
前8世紀ころから始まる歴史時代の最初の文献は,いうまでもなくホメロスの二大叙事詩である。ギリシアに侵入したインド・ヨーロッパ語族には二つの大きな波があり,それが歴史時代の東西2方言になってあらわれている。東の方言はイオニア・アッティカ,アイオリス,アルカディア・キプロス方言からなり,西の方言は北西ギリシアとドリス方言からなる。各地の碑文,文学作品にみられるこれらの諸方言は互いに異なる特徴をもっているが,ホメロスはこの東方言を混合してつくり上げた詩語を韻律に合わせて縦横に駆使しており,この文語の伝統は古典期の文学の洗練されたギリシア語へ通じる。またその/⋃⋃/(長,短,短)6脚(6脚目は//で二つの短は一つの長に変えられる)を1行とする叙事詩のリズムは,レスボス島の女流詩人サッフォーの詩にみられる抒情詩のそれなどとともにそのままローマの詩人によって継承され,ヨーロッパの詩の古典的伝統を築いた。
古典ギリシア語は,政治的中心となったアテナイを含むアッティカ方言Atticの優れた作家たちによって完成された。アイスキュロス,ソフォクレス,エウリピデスの三大悲劇詩人の作品は,コロスの歌う詩のパートと対話からなり,ここにホメロス以来の詩語の伝統と散文的な要素がみごとに融合している。一方,アリストファネスの喜劇は当時の俗語的な要素をふんだんに取り入れて,日常生活をなまなましく再現している。またプラトンを中心とする散文は,ギリシア文語を完成の域にまで引き上げることに成功し,西欧における〈文〉の規範を築いた。
またその豊かな内容を表現するために,多くの新しい語彙がつくられた。常にこのギリシアの文学とその言語を範として学んだローマの文人たちは,これらのギリシア語の用語をラテン語に翻訳しようと努めた。例えば,プラトンの重要な概念であるイデアidea(英語idea,ドイツ語Idee)に対して,この語が〈見る〉という動詞の語根に基づく形であるところから,同じ意味のラテン語の動詞specioに関係のあるspecies(もとは見ること,外見,見た目といったような意)をあてて訳出しようとした。その試みが成功し,訳語が定着して発展していく場合と,どうしても訳しきれずに,ギリシア語の形がそのまま受け入れられた場合とがある。例えば,negotium〈用事〉は本来ギリシア語のa-scholiaの訳語で,a-scholia=nec otium〈暇がないこと〉から出発し,それがさらに〈取引〉(英語negotiationなど参照)の意味に発展している。これに対して,訳されずにラテン語に入り,さらに近代に及んでいる語彙も無数にある。academy,comedy,chorus,echo,gymnasium,museum,orchestra,school,scene,theatre,tragedyなど。epic,grammar,lyric,magic,period,poemのように,近代語ではまったくギリシア語だとわからない形も多いけれども,ch(kh),ph,thあるいはrhを示す形はギリシア語系の可能性をもっている(上掲の語のほか,elephant,hyacinth,method,philosophy,rhythmなど)。もしこれらの語彙がなかったら,近代西欧語は恐ろしいほど貧弱なものになっていただろう。
アテナイの力が衰退し,やがてアレクサンドロス大王によるマケドニアの支配が全ギリシア世界に及ぶころから,言語的にも統一的なコイネー(共通語)が生まれる。そしてホメロスをはじめとして古典期の作品は,生きた言語としてではなく,読まれ,考証される対象になり,エジプトのアレクサンドリアを中心にその学問がおこり,当然のこととしてその作品の言語の研究,整理も行われた。これが文献学philologyであり,文法学grammar(本来はgrammatikē technē)である。この文法学はもっぱら文字言語によるものだがきわめて精巧で,その集大成であるトラキアのディオニュシオスの文法は,ローマの文法家に受け継がれ,近代西欧語の文法,いわゆる学校文法school grammarの基礎となった。今日の多くの文法用語,noun,case,verb,modus,voice,tense,present,perfect,imperfect,adverb,pronoun,participle,part(s)of speechなどは,すべてギリシア語のラテン語訳に由来するものである。ときにはローマ人が誤解したと思われるaccusativeのような用語が,そのまま固定して伝統となっている場合もある。
ローマの文人はだれもがギリシア語を知っていたが,それは先に述べた共通語コイネーであった。しかし古典期の作品はあまりにも優れていたために,ローマ時代のギリシア人はあえて古典アッティカの言葉で擬古文をつづって多くの作品を残している。その中にはルキアノスのような小説家もいるが,後世にもっとも大きな影響をあたえたのは《英雄伝》で知られるプルタルコスであろう。
ローマ帝国の崩壊のあと,ギリシア語はビザンティン帝国の公用語として,またギリシア正教の言語として中世を通じて広く使用された。古典期からこの時期までの文語の伝統を守ろうとする純正派の人々の言語(カタレブサkatharevousaと呼ばれる)と,自然の変化にゆだねられた口語的な民衆の言語との間に大きなへだたりがあるために,トルコから独立した後の近代ギリシア語Modern Greekは,この二つの派の間のさまざまな選択にせまられてきた。それと同時にこの近代語は,他のバルカン諸言語に影響をあたえ,また不定法の消失などそれらと共通のいくつかの特徴を示している。現在,ギリシア語を話す人口は900万人に近い。
→ギリシア文学 →ギリシア文字
執筆者:風間 喜代三
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前2000年初頭にギリシア本土に入ったインド・ヨーロッパ語族に属する言語で最古の資料は,線文字Bによるミケーネ文書。ギリシア文字は前9~前8世紀に成立。古代語は東方と西方方言群に大別される。アテネを中心としたアッティカ方言は,その後ビザンツ帝国の公用語となり,オスマン帝国では東方正教会によって近代までその文語の伝統が受け継がれた。19世紀にギリシアが独立国家を形成すると,公用語に関して,古典語に近づけた文語カサレヴサと民衆の口語ディモティキの対立が言語論争を引き起こした。1976年のディモティキ公用語化までは,数度の例外を除いてカサレヴサが公用語とされた。古典語と現代語では用いられる文字は同じだが,文法や発音に違いがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ModEでは屈折はほとんど消失し,屈折の担っていた機能(格,法,相などの区別)は前置詞と助動詞の多用や特定の固定した語順によって担われることになった。ルネサンス期の英語には,ときに奔放と思えるほどの自由闊達さがあり,ギリシア・ローマの古典や大陸の文学との接触を通じてギリシア語,ラテン語などの古典語やスペイン語,イタリア語などからの借入がふえ,また文人たちの新造語も加わって語彙が豊かになり,また,論理や文法規則にもあまりとらわれなかった。シェークスピアと《欽定訳聖書》(1611)はこの時代に属する。…
…
〔ギリシア文学とギリシア語〕
インド・ヨーロッパ語族の一派に属するギリシア語は,前12世紀のミュケナイ時代の末期の粘土板文書に姿を現してから,古典古代(前8~後5世紀),ビザンティン帝国(1453崩壊),現代ギリシアの独立(1829)を経て今日に至るまで,東地中海諸地域における共通言語の一つとして3000年以上の長きにわたる生命を保ちつつ,日常言語としてはもとより,文学作品,公式記録,外交文書の言語としてきわめて重要な位置を占めてきた。その強靱な生命力と洗練された表現力に匹敵するものはラテン語と中国語あるのみかと思われる。…
…〈共通語common dialect〉の意。古代ギリシアでは前5世紀にアテナイが政治・文化の中心になるとともに,その言語であるアッティカ方言Atticが,他の方言を抑えてギリシア語を代表する位置を占めるにいたった。そしてこれにイオニア方言Ionicを加え,アッティカに固有の形を除いて,一つの共通語が形成された。…
…このような場合動詞は受動態passive voiceであり,英語ではbe動詞+過去分詞の形をとる。英語などではこの能動と受動の二つの態だけが区別されるが,たとえばギリシア語などでは,さらに中間態middle voiceが存在する。これは主語自身にその動作が及ぶことを示すものであり,louō〈洗う〉という能動態形に対して,中間態のlouomaiは〈自分の身体を洗う。…
…しかしこれらの諸言語は,ローマの政治力の拡大とともに,その言語であるラテン語に吸収されてしまった。ラテン語はローマ帝国の広大な版図で行われることとなり,そしてローマ帝国の崩壊の後も,東の東方正教のギリシア語に対する西のローマ・カトリック教会の公用語として,また中世ヨーロッパの共通の文語として使用され,近世の初めまでその伝統は変わらなかった。一方,民衆の話すラテン語(口語)は,ローマ軍の戦線とともに広がってヨーロッパの各地に定着し,長い歴史の中でいわゆる〈ロマンス諸語〉に変貌していった。…
※「ギリシア語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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