レオ(読み)れお(英語表記)Leo Ⅰ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「レオ」の意味・わかりやすい解説

レオ(10世)
れお
Leo Ⅹ
(1475―1521)

ローマ教皇(在位1513~1521)。ロレンツォ・デ・メディチの息子で、前名ジョバンニ・デ・メディチGiovanni de' Medici。彼は善良で敬虔(けいけん)ではあったが、文学や芸術の愛好家にして保護者であり、ユリウス2世によって残された教皇庁の財産をたちまち蕩尽(とうじん)した。フランソア1世政教条約を結び(1516)、第五ラテラン公会議を実りないままに閉じた(1517)。聖ペトロ教会再建資金をつくりだすため贖宥(しょくゆう)状販売を認め、ルターがそれに反対命題掲示(1517)したことから、宗教改革が始まった。レオ10世は教書『エクススルジェ・ドミネ』を発布して異端を断罪したが、事態を収拾できなかった。

[佐藤三夫 2017年12月12日]


レオ(13世)
れお
Leo ⅩⅢ
(1810―1903)

ローマ教皇(在位1878~1903)。俗名ジョアキノ・ペッチGioacchino Pecciといい、元ペルージア司教。高齢と虚弱な健康状態にもかかわらず、在位期間は25年と長かった。ピウス9世を継いで、近代世界に対する教会の姿勢を確立することに専念した。第一バチカン公会議(1869~1870)の刷新運動を継続するとともに、文化面で教会が指導的立場をとりうるように学問を奨励し、社会的分野では回勅「レールム・ノバールム」によって雇主と労働者とのあるべき関係を説き、さらにアフリカ、アジアへの布教活動を進めた。ビスマルクとの「文化闘争」の調停に努めるなど、外交問題に優れた手腕を発揮した。

[磯見辰典]

『ハヤールほか著、上智大学中世思想研究所編訳・監修『キリスト教史11』(1991・講談社)』『P・G・マックスウェル・スチュアート著、高橋正男監修、月森左知、菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代誌』(1999・創元社)』


レオ(1世)
れお
Leo Ⅰ
(400ころ―461)

ローマ教皇(在位440~461)、聖人、教会博士。ローマで教育を受け、若年の身で聖職者になる。430年ごろに助祭となり、440年に教皇に選出された。ペラギウスらの異端と争い、キリスト単性説を排し、第4回カルケドン公会議(451)において、「唯一の神の御子(おんこ)イエス・キリストが、真の完全な神であるとともに真の完全な人間でもあること」を主張して教会の一致の土台と政治権力からの独立を強調、その後の中世教会の立場を確立した。災難、争い、暴力、陰謀のうちにあって、彼の姿は、荘厳な柱のようにそびえ立っていたといわれる。彼はまた「つねに中道を進んでいる」人として教会統治にあたった。

[朝倉文市 2017年12月12日]


レオ(3世)
れお
Leo Ⅲ
(?―816)

ローマ教皇(在位795~816)、聖人。出生や初期の経歴は不詳。若いときからローマの教会で働き、795年に教皇の座についた。799年4月、ローマ市内で反対派の者たちに襲撃され、フランク王カール(後の大帝、シャルルマーニュ)の下に逃れた。翌800年、問題解決のためローマにきたカールに対して、レオ3世は、聖ペトロ大聖堂においてローマ皇帝の冠を加えた(800年12月25日)。これによりレオ3世は、教皇権のビザンティン帝権に対する伝統的な従属関係に終止符を打ち、西欧帝権の伝統を創始した。しかし、「聖霊発出(フィリオクエ)問題」に象徴されるように、カール大帝の教会問題への介入に対して教皇権の自立を守るために苦しい闘いを強いられた。

[出崎澄男 2017年12月12日]


レオ(9世)
れお
Leo Ⅸ
(1002―1054)

ローマ教皇(在位1049~54)。前名ブルノーBruno。アルザスの名門エーギスハイム伯家に生まれる。皇帝コンラート2世に仕えたのち、トゥール司教(1027~51)となり、その在任中に皇帝ハインリヒ3世から教皇に指名された。登位後は、皇帝との協調関係を保ちつつ教会の改革を推進。教皇座に改革者を集め、教皇座の組織を強化し、多くの修道院をローマに結び付け、各地に改革的教会会議を開いてシモニー(聖職売買)と聖職者妻帯の禁止の徹底に努めた(グレゴリウス改革の開始)。また教皇座を脅かす南イタリアのノルマン勢力と戦い、一時捕虜となった(1053)。彼の下で、かねてから進行していた東西教会の分離が決定的となった。

[野口洋二]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レオ」の意味・わかりやすい解説

レオ
Leo, Heinrich

[生]1799.3.19. ルドルシュタット
[没]1878.4.24. ハレ
ドイツの歴史家。ブレスラウ,イェナ,ゲッティンゲンで学び,過激派のブルシェンシャフトに加わったが,次第に保守派に転じた。 1828~78年ハレ大学教授。国家成立の社会的・地理的要素の重要性を主張して L.ランケと対立し,その方法論においても緻密なランケのそれとは対照的で,キリスト教的な摂理史観から,しばしば不注意な結論を導き出した。主著『イタリア史』 Geschichte der italienischen Staaten (5巻,1829~32) ,『世界史教本』 Lehrbuch der Universalgeschichte (6巻,35~44) 。

レオ
Leo, Leonard (Ortensio Salvatore de)

[生]1694.8.5. サンビト
[没]1744.10.31. ナポリ
イタリアの作曲家。ナポリのピエタ音楽院に学び,1725年宮廷礼拝堂のオルガニスト,37年副楽長,39年サント・オノフリオ音楽院院長,44年宮廷楽長の地位へ進み,多くの弟子を育成した。ナポリ派の代表的作曲家の一人として,多くのオペラ,オラトリオ,ミサ曲,モテトやチェロ協奏曲,バイオリン協奏曲,オルガン曲,チェンバロ曲などを作曲した。主作品はオペラ『デモフォンテ』 (1733初演) ,『愛は苦しみを求める』 (39初演) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報