レオ(その他表記)Leo

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デジタル大辞泉 「レオ」の意味・読み・例文・類語

レオ(Leo)

ローマ教皇の名。
(1世)[?~461]第45代教皇。在位440~461。ペラギウスらの異端と争い、キリスト単性説を排し、正統教義を確立。フン族バンダル族の侵入からローマを守った。
(3世)[?~816]第96代教皇。在位795~816。フランク王カール大帝ローマ皇帝の冠を加えた。
(10世)[1475~1521]第217代教皇。在位1513~1521。メディチ家の出身で、学問・芸術を奨励。サンピエトロ大聖堂再建のための免罪符の販売はルターの批判を招き、宗教改革の原因となった。

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精選版 日本国語大辞典 「レオ」の意味・読み・例文・類語

レオ

  1. ( Leo )
  2. [ 一 ] 三世。ビザンチン皇帝(在位七一七‐七四一)。シリア朝(イサウリア朝)を建て、前後二回アラビア軍のコンスタンチノープル包囲を撃破し、外敵の脅威から帝国を救ったが、偶像破壊令を出して聖像論争をひき起こし、教会の東西分裂、さらには東ローマ帝国と西欧との分裂を決定的にした。レオン三世。七四一年没。
  3. [ 二 ] 一〇世。ローマ教皇(在位一五一三‐二一)。ロレンツォ=デ=メディチの次男。ルネサンスの学芸の保護者。聖ピエトロ寺院再建資金調達のため免罪符を発行してルターの批判を招き、宗教改革の原因をつくった。(一四七五‐一五二一
  4. [ 三 ] 一三世。ローマ教皇(在位一八七八‐一九〇三)。文化闘争を終結させ、スコラ哲学の研究を奨励し、多くの回勅を発して、教会の充実・発展、海外布教に力を尽くした。一方、キリスト教社会主義運動も育成し、教会の二〇世紀への対応の道を開き、近代において最も権威のあった教皇。(一八一〇‐一九〇三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レオ」の意味・わかりやすい解説

レオ(10世)
れお
Leo Ⅹ
(1475―1521)

ローマ教皇(在位1513~1521)。ロレンツォ・デ・メディチの息子で、前名ジョバンニ・デ・メディチGiovanni de' Medici。彼は善良で敬虔(けいけん)ではあったが、文学や芸術の愛好家にして保護者であり、ユリウス2世によって残された教皇庁の財産をたちまち蕩尽(とうじん)した。フランソア1世と政教条約を結び(1516)、第五ラテラン公会議を実りないままに閉じた(1517)。聖ペトロ教会再建資金をつくりだすため贖宥(しょくゆう)状販売を認め、ルターがそれに反対の命題を掲示(1517)したことから、宗教改革が始まった。レオ10世は教書『エクススルジェ・ドミネ』を発布して異端を断罪したが、事態を収拾できなかった。

[佐藤三夫 2017年12月12日]


レオ(13世)
れお
Leo ⅩⅢ
(1810―1903)

ローマ教皇(在位1878~1903)。俗名ジョアキノ・ペッチGioacchino Pecciといい、元ペルージア司教。高齢と虚弱な健康状態にもかかわらず、在位期間は25年と長かった。ピウス9世を継いで、近代世界に対する教会の姿勢を確立することに専念した。第一バチカン公会議(1869~1870)の刷新運動を継続するとともに、文化面で教会が指導的立場をとりうるように学問を奨励し、社会的分野では回勅「レールム・ノバールム」によって雇主と労働者とのあるべき関係を説き、さらにアフリカ、アジアへの布教活動を進めた。ビスマルクとの「文化闘争」の調停に努めるなど、外交問題に優れた手腕を発揮した。

[磯見辰典]

『ハヤールほか著、上智大学中世思想研究所編訳・監修『キリスト教史11』(1991・講談社)』『P・G・マックスウェル・スチュアート著、高橋正男監修、月森左知、菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代誌』(1999・創元社)』


レオ(1世)
れお
Leo Ⅰ
(400ころ―461)

ローマ教皇(在位440~461)、聖人、教会博士。ローマで教育を受け、若年の身で聖職者になる。430年ごろに助祭となり、440年に教皇に選出された。ペラギウスらの異端と争い、キリスト単性説を排し、第4回カルケドン公会議(451)において、「唯一の神の御子(おんこ)イエス・キリストが、真の完全な神であるとともに真の完全な人間でもあること」を主張して教会の一致の土台と政治権力からの独立を強調、その後の中世教会の立場を確立した。災難、争い、暴力、陰謀のうちにあって、彼の姿は、荘厳な柱のようにそびえ立っていたといわれる。彼はまた「つねに中道を進んでいる」人として教会統治にあたった。

[朝倉文市 2017年12月12日]


レオ(3世)
れお
Leo Ⅲ
(?―816)

ローマ教皇(在位795~816)、聖人。出生や初期の経歴は不詳。若いときからローマの教会で働き、795年に教皇の座についた。799年4月、ローマ市内で反対派の者たちに襲撃され、フランク王カール(後の大帝、シャルルマーニュ)の下に逃れた。翌800年、問題解決のためローマにきたカールに対して、レオ3世は、聖ペトロ大聖堂においてローマ皇帝の冠を加えた(800年12月25日)。これによりレオ3世は、教皇権のビザンティン帝権に対する伝統的な従属関係に終止符を打ち、西欧帝権の伝統を創始した。しかし、「聖霊発出(フィリオクエ)問題」に象徴されるように、カール大帝の教会問題への介入に対して教皇権の自立を守るために苦しい闘いを強いられた。

[出崎澄男 2017年12月12日]


レオ(9世)
れお
Leo Ⅸ
(1002―1054)

ローマ教皇(在位1049~54)。前名ブルノーBruno。アルザスの名門エーギスハイム伯家に生まれる。皇帝コンラート2世に仕えたのち、トゥール司教(1027~51)となり、その在任中に皇帝ハインリヒ3世から教皇に指名された。登位後は、皇帝との協調関係を保ちつつ教会の改革を推進。教皇座に改革者を集め、教皇座の組織を強化し、多くの修道院をローマに結び付け、各地に改革的教会会議を開いてシモニー聖職売買)と聖職者妻帯の禁止の徹底に努めた(グレゴリウス改革の開始)。また教皇座を脅かす南イタリアのノルマン勢力と戦い、一時捕虜となった(1053)。彼の下で、かねてから進行していた東西教会の分離が決定的となった。

[野口洋二]

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改訂新版 世界大百科事典 「レオ」の意味・わかりやすい解説

レオ
Leo
生没年:401ころ-474

ローマ帝国東帝。在位457-474年。ギリシア名レオンLeōn。トラキア出身の将校で,457年アスパルにより東帝位に擁立された。治世当初はアスパルの勢力が絶大であったが,レオ帝はまず466年アスパルの息子アルダブリウスのオリエンス軍司令官職解任に成功。その後,イサウリア人将校タラシコディッサ(のちのゼノン帝)を娘アリアドネの婿として重用し,東ゴートを勢力基盤とするアスパルに対抗して,主としてイサウリア人から成る新規の近衛軍を編制した。471年ついにアスパル,アルダブリウス父子を宮廷で暗殺し,これに怒ったテオドリック・ストラボ麾下(きか)の東ゴートとは,473年貢納金支払いとストラボへの近衛軍司令官職授与で和解した。帝国西部に対しても積極策をとり,467年にアンテミウスを,473年にはネポスを西帝位に推戴。しかしリキメルの援助要請にこたえて計画した468年の対バンダル大遠征はみじめな失敗に終わり,財政を窮乏化させた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レオ」の意味・わかりやすい解説

レオ
Leo, Heinrich

[生]1799.3.19. ルドルシュタット
[没]1878.4.24. ハレ
ドイツの歴史家。ブレスラウ,イェナ,ゲッティンゲンで学び,過激派のブルシェンシャフトに加わったが,次第に保守派に転じた。 1828~78年ハレ大学教授。国家成立の社会的・地理的要素の重要性を主張して L.ランケと対立し,その方法論においても緻密なランケのそれとは対照的で,キリスト教的な摂理史観から,しばしば不注意な結論を導き出した。主著『イタリア史』 Geschichte der italienischen Staaten (5巻,1829~32) ,『世界史教本』 Lehrbuch der Universalgeschichte (6巻,35~44) 。

レオ
Leo, Leonard (Ortensio Salvatore de)

[生]1694.8.5. サンビト
[没]1744.10.31. ナポリ
イタリアの作曲家。ナポリのピエタ音楽院に学び,1725年宮廷礼拝堂のオルガニスト,37年副楽長,39年サント・オノフリオ音楽院院長,44年宮廷楽長の地位へ進み,多くの弟子を育成した。ナポリ派の代表的作曲家の一人として,多くのオペラ,オラトリオ,ミサ曲,モテトやチェロ協奏曲,バイオリン協奏曲,オルガン曲,チェンバロ曲などを作曲した。主作品はオペラ『デモフォンテ』 (1733初演) ,『愛は苦しみを求める』 (39初演) 。

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百科事典マイペディア 「レオ」の意味・わかりやすい解説

レオ[10世]【レオ】

ローマ教皇(在位1513年―1521年)。メディチ家出身。フランス国王フランソア1世のイタリア侵入に対抗,1516年〈ボローニャ協定〉を結んで教権を守った。サン・ピエトロ大聖堂新築資金を集めるためドイツで免罪符を販売させルターの批判を招いた。ミケランジェロやラファエロらの芸術家を庇護したことでも知られる。

レオ[1世]【レオ】

ローマ教皇(在位440年―461年)。〈大教皇〉と称される。民族大移動の混乱期に教会の保護,正統教義の擁護,社会秩序の維持に努め,452年フン族王アッティラのローマ侵入を阻止した。古典学芸,神学に明るく,多くの説教や書簡が残る。
→関連項目カルケドン公会議

レオ[3世]【レオ】

イサウリア朝初代のビザンティン皇帝(在位717年―741年)。アナトリア軍管区の司令官で,テオドシウス3世を廃して即位。イスラム勢力のコンスタンティノープル攻撃を退け,小アジア西部を回復。偶像崇拝禁止(イコノクラスム)によって国内に大きな混乱をひき起こした。

レオ[9世]【レオ】

ローマ教皇(在位1049年―1054年)。神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の援助で登位,ヒルデブラント(のちの教皇グレゴリウス7世)らの人材を得て教会刷新に尽力した。トゥールのベレンガリウスの断罪,東方教会との断絶(1054年)でも知られる。

レオ[13世]【レオ】

ローマ教皇(在位1878年―1903年)。即位前から社会問題,労働問題に関心を示し,国際友好にも手腕を発揮した。1891年の回勅《レルム・ノウァルム》は教会的立場から労資関係について示したもの。

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旺文社世界史事典 三訂版 「レオ」の解説

レオ(1世)
LeoⅠ

390(または400)ごろ〜461
ローマ教皇(在位440〜461)
451年にカルケドン公会議を召集し,単性説を異端として糾弾し,ローマ教皇の優越的地位を高めた。また,452年フン族のアッティラの攻撃や,ヴァンダル王ガイセリックの略奪からローマを守るなど,聖俗にわたり活躍。

レオ(10世)
Leo Ⅹ

1475〜1521
ローマ教皇(在位1513〜21)
ロレンツォ=デ=メディチの第2子。ルネサンス文芸の奨励者として知られるが,その豪華な生活は財政危機を招き,サン−ピエトロ大聖堂修築費捻出のためにドイツでの贖宥状販売を許可し,宗教改革のきっかけをつくった。

レオ(13世)
Leo XII

1810〜1903
ローマ教皇(在位1878〜1903)
ビスマルクと和解して文化闘争を終結させ,イタリア王国と対抗して教皇の地位を守った。多くの回勅を出し,また海外布教にも努力した。

レオ(3世)
Leo Ⅲ

750ごろ〜816
ローマ教皇(在位795〜816)
反対者の襲撃を受けてカール1世の下に逃れ,彼の力でローマへ帰還した。800年,カール1世に西ローマ皇帝の帝冠を授けた。

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デジタル大辞泉プラス 「レオ」の解説

レオ

日本プロ野球チーム、埼玉西武ライオンズの公式マスコット。1978年登場。デザインは漫画家、手塚治虫による。

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世界大百科事典(旧版)内のレオの言及

【フランク王国】より

…10~11世紀以降の中世都市成立の要因として,従来はピレンヌ説に従って,遠隔地貿易の復活を重視してきたが,むしろカロリング朝時代における農業生産力の上昇が,都市成立の前提をなしたと考えなければならなくなっており,最近の研究は,都市の成立そのものも,従来より早い時期へずらせて考える傾向がある。
[皇帝権をめぐる国際関係]
 800年のクリスマス,教皇とローマ貴族たちとの紛争を調停するためローマに滞在していたカール大帝が,サン・ピエトロ大聖堂のミサに参加したとき,ローマ教皇レオ3世によって皇帝として加冠され,集まっていたローマ市民から〈ローマ人の皇帝〉に推戴された。通例西ローマ帝国の復活と呼ばれる事件である。…

※「レオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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