イジー
Jiří z Poděbrad
生没年:1420-71
ボヘミアのフス派の王。在位1458-71年。フス派内の穏健派(ウトラキストUtraquist)を指導するチェコ人大領主で,ハンガリー・ボヘミア国王ジギスムントの死(1437)の後,権力奪取を図るカトリック派大領主に対抗して,中・小貴族,都市の支持のもとに,プラハを占領(1448)したのち摂政となり(1452),教皇への忠誠とチェコ兄弟団取締りを条件に国王に選出される(1458)。1462年に教皇が,ウトラキストとジギスムントの間で締結した協約の承認を最終的に拒否すると,彼と教会との争いが再燃する。フス戦争で打撃を受けた国土の安定化をめざす必要から,彼は危機の回避を外交に求め,諸国間,ことにフランスと同盟を結ぶべく使節を派遣した(1465-67)。彼に対する国内カトリック貴族層の激しい反抗を背景に,教皇ピウス2世は彼を破門し,王位の剝奪を宣言した(1466)。69年にはボヘミア王位をうかがうハンガリーのマーチャーシュ1世を先頭にした〈十字軍〉の攻撃を受けるが,この戦争は彼の死まで続く。彼が戦争を回避すべく提案した君主間の国際協約(1464)は国家間の連合の原型として高く評価されている。
執筆者:稲野 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
Sponserd by 
イジー
Jiříz Poděbrad
[生]1420.4.23. ポディエブラト
[没]1471.3.22. プラハ
ボヘミア王 (在位 1458~71) 。ポディブラディとも呼ばれる。フス教徒の名門貴族出身。 1444年保守的なウトラキスト (→両形色論者 ) 派の指導者となり,1448年カトリック教徒の親ハプスブルク派に対抗してプラハを占領。 1451年等族会議により幼王ラディスラフ1世 (ハンガリー王ラースロー5世 ) の摂政に任命され,その死後国王に選ばれた。中小貴族と都市の支持を得て大領主の専横を押さえ,よく国政を整えた。このためボヘミアはイジーの治世下に大いに繁栄した。国内カトリックとの協調を第一としてボヘミア同胞同盟 (→ボヘミア兄弟団 ) に結集した急進的なフス教徒を迫害したが,1462年ローマ教皇ピウス2世と対立し,1466年教皇パウルス2世によって破門された。教皇の依頼を受けたハンガリー王マーチャーシュ1世コルウィヌスによって 1469年国土を侵され,国内大領主の反乱に直面して失意のうちに死去した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内のイジーの言及
【チェコ】より
…またフスの宗教改革はほぼ1世紀後にドイツで行われたルターの改革運動の先駆をなしているばかりか,その教えはカトリックの反宗教改革のもとで弾圧されながらも[チェコ兄弟団]の中に生きつづけ,今日アメリカ北部を中心に活動しているモラビア教会の基礎をつくっている。 15世紀半ばにはフス教徒の穏健派(ウトラキスト派)に属する大領主の[イジー]が中小貴族と都市の支持を得て,一時ボヘミア王(1458‐71)となったが,やがてポーランドのヤギェウォ家の王がボヘミア王とハンガリー王とを兼ねる時代が2代(1471‐1526)続くことになる([ヤギェウォ朝])。
[ハプスブルク家の支配]
この時代にビザンティン帝国を滅ぼした[オスマン帝国]は,バルカン半島の諸民族を服属させ,さらに勢いを西方に延ばした。…
※「イジー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 