イストラ半島(読み)いすとらはんとう(その他表記)Istra

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イストラ半島」の意味・わかりやすい解説

イストラ半島
いすとらはんとう
Istra

アドリア海の北西端に南へ向かって突出するほぼ三角形の半島で、大部分クロアチア共和国に属し、トリエステのみイタリア領。面積約4000平方キロメートル。西はベネチア湾に臨んでトリエステ港を抱き、東側はグバイネル湾に臨んでリエカ港を抱く。その南方に散在する島々をあわせて、英語およびイタリア語ではイストリアIstriaとよばれる。半島は主として石灰岩からなり、カルスト地形を呈する高原である。気候は温暖でかつ乾燥している。穀物、オリーブ、ブドウが栽培され、コペル(イタリア名カポディストリア)はワインの産地として名高い

[三井嘉都夫]

歴史

紀元前2世紀のローマ支配をはじめとし、さまざまな民族の支配下に置かれた。スロベニア人やクロアチア人が移住したのは6~7世紀であるが、それ以後はランゴバルドやフランクやドイツの辺境伯領となった。13~14世紀以後、海岸部はベネチア共和国、内陸部はハプスブルク家の統治下に置かれた。1809~13年、イタリア諸州の一つとしてナポレオンの支配を受け、その後オーストリア領土に組み入れられたが、実際にはイタリア人の支配を受けた。第一次世界大戦後、1920年のラパロ条約によりイタリア領となる。第二次世界大戦で43年にイタリアが降伏すると、当地の抵抗組織が旧ユーゴスラビアとの統一を宣言。戦後、47年のパリ講和条約により、トリエステを除く部分が旧ユーゴスラビア領となった。トリエステの帰属問題は54年に決着がつき、両国の国境問題は75年の条約で最終的に解決された。91年クロアチアが旧ユーゴスラビアから独立後は大部分がクロアチア領。

[柴 宜弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「イストラ半島」の意味・わかりやすい解説

イストラ半島 (イストラはんとう)
Istra

クロアチア西部のアドリア海に面した半島。半島の基部はスロベニア領。ローマをはじめとし,古来諸民族の支配下に置かれた。南スラブ族が定住したのは6~7世紀。ドイツ,ベネチア,ハプスブルクの支配を受け,1809-13年には,一時ナポレオンが〈イリュリア諸州〉として統治。その後,オーストリア領に組み入れられた。第1次世界大戦後,ラパロ条約により,イタリア領。第2次世界大戦後,海港トリエステを除く部分がユーゴスラビア領となったが,1991年のユーゴスラビア解体によりクロアチア領,スロベニア領となった。産業は農牧を主とし,ブドウ酒は名高い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イストラ半島」の意味・わかりやすい解説

イストラ半島
イストラはんとう
Istra

イタリア語ではイストリア Istria。バルカン半島北西端,アドリア海の北部にある半島。面積約 4000km2。大部分がクロアチア,一部がスロベニア,半島基部のトリエステおよびその近郊はイタリアに属する。有名な港町のプーラは半島の突端近くにある。灌木林を伴うカルスト地帯。ボラと呼ばれる強い北風が吹く。家畜の飼育,穀物,オリーブ,ブドウの栽培が行われる。住民は大部分がクロアチア人で,スロベニア人,イタリア人は少い。海岸にオパティア,ロブランなどの保養地がある。イストラは西ローマの崩壊後,ゴート人の手に落ち,次いでビザンチン,フランクなどの領土となった。9~13世紀にはいろいろな国の一部となり,14世紀にはベネチアの支配下に入った。 1797~1919年の間はオーストリアの一部,以後はイタリア領となる。 45~91年にはトリエステとその近郊を除く地方全部が旧ユーゴスラビアに合併されたが,91年以降独立したクロアチア,スロベニアの一部となった。

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