日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリエステ」の意味・わかりやすい解説
トリエステ
とりえすて
Trieste
イタリア北東部、フリウリ・ベネチア・ジュリア自治州の州都で、港湾・工業都市。人口20万9520(2001国勢調査速報値)。アドリア海の北部、潟湖(せきこ)グラード湖とクロアチアのイストラ半島との間に挟まれたトリエステ湾の奥に位置し、スロベニアとの国境付近を占める。精油、造船、製鉄、化学、薬品、製紙、食品など多方面にわたる工業が行われている。トリエステ港は、国際的な貨物の取扱い量ではイタリア第2位(1978)であったが、オーストリア向けの港湾業務を停止、かつての活気はみられない。輸入された石油は、パイプラインによってオーストリアやドイツにも運ばれる。市街はサン・ジュストの丘を中心に広がり、14世紀のサン・ジュスト大聖堂、1470年から1630年にかけて建てられた城、1938年に発掘された古代ローマの劇場、市立歴史・美術博物館、1924年創設の大学などがある。近郊のミラマーレには、ハプスブルク家のマクシミリアン大公によって築かれた広い庭園と城(1856~1860建設)がある。冬、ボラとよばれる冷たい北東風が、台風のような激しさで吹き荒れることで知られる。
[堺 憲一]
歴史
ケルト人によって建てられたといわれ、紀元前2世紀にはテルゲステTergesteとよばれるローマの植民地となった。西ローマ帝国の末期にキリスト教が普及した。中世には、ランゴバルド王国、東ローマ帝国、フランク王国によって順次その支配下に置かれた。1060年からコムーネ(自治都市)となるが、15世紀以後はハプスブルク家の支配下に置かれた。1719年に自由港が建設されて商人や職人が集まるようになり、オーストリア・ハンガリー帝国の主要な商業の中心地となった。フランス革命後、1797年、1805年、1809~1813年の三度にわたってフランスが支配したが、その後はオーストリア支配に戻り、1897年からはオーストリア議会に議員を送った。このころから、この地域の住民であるイタリア人とスラブ人との間の対立が激化するようになり、イタリアと旧ユーゴスラビアの係争地となった。
[藤澤房俊]