フセイン(読み)ふせいん(英語表記)Husayn bin Talāl

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フセイン」の意味・わかりやすい解説

フセイン(Saddam Hussein Takriti)
ふせいん
Saddam Hussein Takriti
(1937―2006)

イラクの政治家。反十字軍の英雄サラディンの故郷ティクリートの生まれ。カイロ、バグダード両大学を卒業。1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)でエジプトのナセルを支持し、反イギリス・反フランス・反イスラエルの大衆デモに参加、同年暮れにバース党(アラブ復興社会党)に入党した。1959年バース党テロ組織の一員として、前年のクーデターでファイサル王制を打倒したカセム首相の暗殺を謀るが失敗、エジプトに亡命。1963年に帰国し、政治活動、投獄、脱走、地下活動を繰り返した後、1968年7月バクル将軍が実権を握ったバース党穏健派のクーデターで重要な役割を果たした。1969年11月に国権の最高機関である革命評議会の副議長となり、1979年7月、バクル辞任の後を受けて大統領に就任。革命評議会議長、国軍最高司令官なども兼ね、権力を一手におさめた。その後も波乱の連続で、1990年のクウェート侵攻とこれに続く1991年の湾岸戦争など、なにかと国際的に非難を受けることが多かった。1995年10月の国民投票で信任され、引き続き7年の任期が決まった。しかし、国連の大量破壊兵器査察団によるイラクへの立ち入り査察に非協力的態度をとったため、2003年3月、アメリカ、イギリス両軍はフセイン政権打倒と大量破壊兵器を排除する目的でイラクを攻撃(イラク戦争)。同年4月にはイラクの主要な都市がアメリカ、イギリス両軍に制圧され、フセイン政権は崩壊した。その後は逃亡を続けていたが、同年12月13日、故郷ティクリートの郊外に潜伏しているところをアメリカ軍に拘束された。その後、2004年6月連合国暫定当局(CPA)からイラク暫定政府に主権が移譲された直後、法的には身柄がイラク側の管轄下に移されたが、実質的にはアメリカ軍の拘束下に置かれた。同年7月、フセインと旧政権幹部を裁く特別法廷が開廷し司法手続きが開始され、2005年10月にはフセインの初公判が開かれた。本人は罪状認否で無罪を主張したが、2006年6月検察側は死刑を求刑、同年11月イラク高等法廷(特別法廷から改称)は人道に対する罪でフセインに死刑(絞首刑)判決を下した。同年12月26日上訴審で一審判決が支持され死刑が確定、同30日に刑が執行された。

[奥野保男]

『酒井啓子著『フセイン・イラク政権の支配構造』(2003・岩波書店)』『岡本道郎著『ブッシュVSフセイン イラク攻撃への道』(2003・中央公論新社)』


フセイン(Husayn bin Talāl)
ふせいん
Husayn bin Talāl
(1935―1999)

ヨルダン国王(在位1953~1999)。預言者ムハンマド(マホメット)の血を引くハーシム家の一員としてアンマンに生まれる。アレクサンドリア、イギリスで教育を受ける。1952年病気の父タラール国王の退位に伴い、翌1953年弱冠18歳で王位を継承。国王就任後、アラブ世界および国内の民族主義運動の隆盛や革新勢力の台頭によって難局を迎えるが、独自の政治力でこれを切り抜けた。1956年のグラブ・パシャ将軍の解任、同年左派民族主義者のナブルシを首班とする政権の承認、1957年イギリス・ヨルダン条約破棄に対する同意などを譲歩させられた。1958年エジプト・シリアの統合に対抗してイラクとアラブ連邦を結成するが、同年イラクでクーデターが起こり同連邦はまもなく瓦解(がかい)し、アラブ世界で孤立した。さらに、1964年からのパレスチナ運動の活発化、1967年の第三次中東戦争におけるヨルダン川西岸の喪失、1970年からのパレスチナ・ゲリラとの対立などの難問に直面した。パレスチナ問題解決のために「ヨルダン・パレスチナ連合国家」構想をもっていた。1988年7月、ヨルダン川西岸地域に対する政治的、法的な支配の放棄を発表、これによりパレスチナ国家の樹立が宣言され、パレスチナ解放機構(PLO)との関係が改善した。1990年8月のイラクによるクウェート侵攻に始まる湾岸戦争ではイラク寄りの姿勢を堅持、国際社会におけるヨルダンの立場は悪化したが、国内的には国民の信頼をかちえた。その後1994年10月にはイスラエルと平和条約を締結し、地域開発等で協力関係を推進、しかし1995年11月にイスラエルのラビン首相が暗殺され、強硬派のネタニヤフ首相が政権についたため、イスラエルとパレスチナ暫定自治政府との摩擦が増加、両者の間で微妙な対応を迫られた。1976年(昭和51)以降1989年(平成1)まで数回来日。1999年死去にともない長男のアブドラが王位を継承した。

[木村喜博]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フセイン」の意味・わかりやすい解説

フセイン
Hussein ibn Talal

[生]1935.11.14. アンマン
[没]1999.2.7. アンマン
ヨルダンの国王 (在位 1953~1999) 。預言者ムハンマドの家系につながるハーシム家の一員で,ヨルダンの初代国王アブドゥッラーの孫。アレキサンドリアのビクトリア・カレッジやイギリスの陸軍士官学校などで学び,1953年5月,17歳で即位。即位後しばらくは 52年のエジプト革命後のアラブ世界における革新勢力の台頭,反王政運動の活発化,57年の革新将校グループによる反乱,58年のイラク革命によるイラク・ハーシム王家の滅亡,67年の六日戦争での敗北による東エルサレムとヨルダン川西岸の喪失,70年のヨルダン国内でのパレスチナ・ゲリラとの軍事衝突,また,たび重なる暗殺未遂事件など,国の内外とも困難な情勢にあった。しかし,70年代以降,その非凡な政治的手腕によってヨルダンの安定化と経済発展に努め,ヨルダン国民から絶大な信頼を集めたばかりでなく,巧みな外交手腕によってアラブ世界のなかでの地位を高めてきた。 73年の十月戦争には参戦しなかったがアラブ陣営の団結強化に努め,イスラエルとエジプトの間の 78年のキャンプデービッド合意には反対しつつもアラブ急進派と穏健派の間を取持ち,82年のイスラエルのレバノン侵攻後は PLOのアラファト議長と接近してヨルダン・パレスチナ連合国家構想を打出した。また 87年末からのイスラエル占領地での住民蜂起インティファーダに直面してヨルダンと西岸との政治的・行政的関係の断絶を声明するなどさまざまなことを行なった。 90年8月からの湾岸危機湾岸戦争ではイラク寄りの姿勢を示したために一時危機に陥ったが,その後国内民主化と中東和平会議への積極的参加を進めることによってアメリカおよび産油諸国との関係修復にも成功した。

フセイン
Hussein(at-Takrītī), Saddam

[生]1937.4.28. ティクリート
[没]2006.12.30. バグダード
イラクの政治家。 1957年バース党に入党。 1959年首相暗殺未遂事件に荷担したが銃撃戦で負傷,シリアを経てエジプトに脱出。 1963年カイロ法律学校に入学。同 1963年バース党がクーデターで政権を奪取するとバグダードに戻ったが,バース党政権は9ヵ月で倒され,投獄された。脱獄後は地下活動期のバース党で治安部門を掌握した。 1968年軍部とバース党によりクーデターが成功,同郷出身のアフマド・ハサン・バクル大統領のもとで 1970年代前半には実質的なナンバーツーとなる。 1979年7月バクルの引退後,大統領に就任。同年発生したイラン革命に際し,イスラム勢力の伸張に対する警戒とペルシア湾岸地域での覇権拡張への野心を強め,1980年9月イランに侵攻してイラン=イラク戦争に突入,イラクを中東有数の軍事大国に仕立てた。 1990年8月クウェートに侵攻したが,1991年1月アメリカ軍を主体とする多国籍軍の空爆を受け,政権崩壊の危機に立たされた (→湾岸戦争 ) 。戦後はフランス,ロシアなど国際連合の安全保障理事会常任理事国の協力を得て国際社会復帰をはかったが,大量破壊兵器開発などを理由に 2003年3月アメリカ,イギリスを中心とした連合軍の攻撃を受け,フセイン政権は崩壊した (→イラク戦争 ) 。 2003年 12月,出身地ティクリート近郊でアメリカ軍に身柄を拘束。旧政権幹部を裁く特別法廷で死刑が言い渡され,2006年 12月 30日絞首刑となった。

フセイン
Hussein, Ebrahim

[生]1943. イギリス委任統治領タンガニーカ,リンディ
タンザニアの代表的なスワヒリ語劇作家。ダルエスサラーム大学演劇学科卒業後,ドイツ民主共和国(東ドイツ)のフンボルト大学で学び,論文『東アフリカにおける演劇の発展』で博士号取得。1978年の帰国後はダルエスサラーム大学やナイロビ大学で教えた。スワヒリ社会の伝統的価値と現代社会との軋轢,結婚をめぐる新旧世代間のギャップを描いた『時の壁』Wakati Ukuta(1967)で注目された。代表作に,ドイツ領東アフリカ時代のマジマジ反乱に取材し,反乱指導者の内面の苦悩を描く『キンジェケティレ』Kinjeketile(1969)や,植民地支配と新植民地支配の現実を象徴するシンボルを多用し,ブレヒト演劇(→ベルトルト・ブレヒト)の影響が濃いとされる『悪霊』Mashetani(1971)などがある。『悪霊』はザンジバル革命の 2年後にあたる 1966年頃を舞台にした 4幕物で,社会的・政治的状況を鋭くえぐっている。『キンジェケティレ』と『悪霊』の 2作は特に難解との定評がある。ほかに心理劇『彼女は見た』Alikiona(1970),口承民話(→口承文芸)形式で植民地支配後のアフリカを取り上げた『村の雄鶏および先祖の楯』Jogoo Kijijini na Ngao ya Jadi(1976),アンデルセン童話(→ハンス・クリスチアン・アンデルセン)のスワヒリ語訳『大切なこと』Jambo la Maana(1982)など。(→アフリカ文学スワヒリ文学

フセイン
Hussein, Zakir

[生]1897.2.8. ハイデラバード
[没]1969.5.3. ニューデリー
インドの政治家。アリーガル・イスラム教大学,ベルリン大学に学んだのち,1926年帰国。キラーファト運動のなかから生れたイスラム教徒の学校ジャミア・ミリアの校長を 22年間つとめ,イスラム教徒の民族教育に貢献した。 48~56年アリーガル・イスラム教大学の学長。この間 52年任命議員として上院議員となり,第2次5ヵ年計画の審議で,資本主義批判の演説を行い話題を呼んだ。 57年ビハール州知事,62年副大統領を経て,67年の大統領選挙では国民会議派に推されて当選,5月 13日就任した。初めてのイスラム教徒の大統領であり,非宗教主義 (セキュラリズム) の勝利といわれた。任期なかばに心臓麻痺で急死。

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