日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウェストミンスター」の意味・わかりやすい解説
ウェストミンスター
うぇすとみんすたー
City of Westminster
イギリスの首都大ロンドンの区の一つ。正式にはシティ・オブ・ウェストミンスターとよばれる。面積約21平方キロメートル、人口18万1279(2001)。東のシティ・オブ・ロンドンがイギリスの金融・貿易の中心であるのに対し、ウェストミンスターは政治の中心である旧ウェストミンスター地区と、商業・サービス業が集まるウェスト・エンド地区とからなる。旧ウェストミンスター地区には19世紀ごろから、裁判所、議会、中央官庁が集まり、イギリスの国政の中心となっている。ナショナル・ギャラリー、ロイヤル・アルバート・ホール、コベント・ガーデン劇場などの文化施設や、バッキンガム宮殿、ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院、聖マーガレット教会など由緒ある建築物のほか、レストランやホテル、劇場、各種商店が集中し、四季を通じて観光客が絶えない。なお、ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院、聖マーガレット教会は1987年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[井内 昇]
歴史
旧ウェストミンスター地区は、古くはソーニー島とよばれるテムズ川左岸の島で、その西は沼沢地であった。ウェストミンスター寺院は、604年ごろエセックスのサエベルフト王がその島にセント・ピーター教会を建てたことに由来する。デーン人の侵入による破壊ののち、10世紀の修道院復興時代に、951年エドガー王がベネディクト派修道院として復興した。11世紀前半にクヌート王が修道院近くに宮殿を建てたが、エドワード懺悔(ざんげ)王の時代に、修道院と宮殿を壮大に改築して以来、この地がイギリス国政の中心となった。ノルマン・コンクェスト(1066)ののち、ウィリアム1世がこの修道院で戴冠(たいかん)式をあげて以来、歴代イギリス王の戴冠式の場となった。ウィリアム2世が建てた宮殿のホールは重要な法廷の場となり、リチャード2世の退位、トマス・モア、チャールズ1世の処刑などの宣告が行われた。13世紀ごろから修道院の聖体容器礼拝堂が国庫収納所となり、僧会堂が庶民院の場となったが、1512年宮殿の火災後、宮殿は王宮として用いられなくなり、庶民院を宮殿の一室に吸収して宮殿が議会議事堂となった。修道院は、ヘンリー3世以後の王の墓所でもあったが、1539年ヘンリー8世の修道院解散によって修道院の所領は没収された。ハイド・パーク、セント・ジェームズ・パークは彼によって王の狩猟地として開かれた旧修道院領。彼がセント・ジェームズ宮殿を王宮としたころから政府高官も周辺に邸宅を構えるようになった。バッキンガム宮殿はビクトリア女王以後の王宮である。
[富沢霊岸]