アメリカのジャズ・ピアノ奏者。オハイオ州トレド生まれ。生まれつき片目は視力がなく、もう片方も弱視という障害をもっていた。幼児期から音楽に興味をもち、家族の応援もあって13歳でバイオリンの、次いでピアノのレッスンを受ける。18歳のとき地元のラジオ局に雇われ、夜はナイト・クラブで演奏する生活をはじめ、プロ・ミュージシャンとしての道を歩む。
1932年、歌手のアデレード・ホールAdelaide Hall(1904―93)の伴奏者としてニューヨークに出て、彼女のサイドマンで初レコーディングを行う。33年ブランズウィック・レコードにソロイストとして初のレコードを吹き込み、驚異的テクニックによりミュージシャンからも注目され、彼の出演するジャズ・クラブ「オニックス」には大勢の観客が押し寄せた。その後活動拠点を一時期シカゴに移し、スモール・コンボを率いたこともあるが、自分のスタイルを活かせるソロに転じる。以後43年までニューヨークを中心にソロ活動を行い、38年にはロンドンでの公演を成功させ、ホロビッツ、ラフマニノフからも賞賛され名声を確立する。
43年ベース奏者スラム・スチュアートSlam Stewart(1914―87)、ギター奏者タイニー・グライムズTiny Grimes(1916―89)とアート・テータム・トリオを結成。翌年までジャズの中心地ニューヨーク52丁目のクラブ「スリー・デューセズ」に出演した。
40年代も後半になると新しいジャズの波ビ・バップが押し寄せ、一時期人気が下降するが、50年代に入ると再び人気を盛り返し、54年から56年にかけ『ダウン・ビート』Down Beat誌国際批評家投票で第1位の栄誉に輝く。またバーブ・レコードのプロデューサー、ノーマン・グランツNorman Granz(1918―2001)によって11枚に及ぶアルバムが制作され、『ザ・ジニアス・オブ・アート・テータム』(1953~56)として発売された。
56年慢性腎臓疾患による尿毒症で死亡。ジャズ・ピアノの歴史のなかでテータムの存在は極めて大きい。ジャズ草創期のラグタイム・ピアノに始まり、左手の動きに特徴のあるストライド奏法を経て、40年代半ばにバド・パウエルによって切り拓かれるモダン・ジャズ・ピアノへと移行する過程において、テータムは重要な橋渡しの役割を果たした。彼は両手を自在に使った圧倒的な演奏技術と華やかな装飾音で1930年代のスウィング・スタイル・ピアノの成果をまとめ上げ、よりモダンな響きの音楽へと仕立て上げた。
代表作には34年のソロ演奏が収録された『クラシック・アーリー・ソロ1934~37』や、38年から翌年にかけてラジオ放送用に収録されたピアノ・ソロをCD化した『スタンダーズ』、死の直前、テナー・サックス奏者ベン・ウェブスターと共演した『アート・テイタム~ベン・ウェブスター・クァルテット』(1956)がある。
[後藤雅洋]
アメリカの微生物遺伝学者。1937年ウィスコンシン大学で博士号を得たのち、ビードルとともに遺伝子の機能の問題を追究する。彼らは、アカパンカビの栄養要求突然変異株では、その栄養物質の合成経路のどこかが阻害されており、これはその部分に働く酵素を支配する遺伝子が存在しないと考えられることから、1945年一遺伝子一酵素説を提唱した。その後レーダーバーグとともに、細菌の栄養要求突然変異株を混合培養すると、栄養欠損のない野生型などが出現することから、染色体の存在や遺伝子の組換え、有性生殖の存在を明らかにし、細菌と高等生物が本質的には同じ遺伝の仕組みをもつことを示した。1958年、ビードルとともに、「遺伝子が特定の化学反応の調節によって作用することの発見」によりノーベル医学生理学賞を授与された。なお、レーダーバーグも「遺伝子組換えと細菌の遺伝物質の構成に関する発見」により同時受賞した。
[石館三枝子]
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