ソールズベリー Salisbury
目次 大聖堂 イギリスのイングランド南部,ウィルトシャーの古都。人口11万(1993)。別名ニューセーラム New Sarum。エーボン河畔に位置し,周辺農村地帯の生産物の取引中心地。本来近郊の丘陵上の集落オールド・セーラム として起源し,古来軍事上,政治上,宗教上重要な都市であった。1075年司教座が置かれ,86年にはウィリアム 1世がこの付近の野に全国の土地所有者を集めてみずからへの忠誠を誓わせ(ソールズベリーの誓い),さらに1116年には同様にヘンリー1世がこの地で子のウィリアムを後継王として承認することを臣下に誓わせた。1220年司教座がオールド・セーラム からエーボン川の畔のニューセーラムに移るとともに,住民の多くもこの新市に移動し,今日のソールズベリーとして発展した。 執筆者:青山 吉信
大聖堂 正称はセント・メアリー大聖堂Saint Mary's Cathedral。初期イギリス・ゴシック様式 の代表例である。新市ニューセーラムの地で1220年に起工され,約40年という短期間に統一的計画に従って完成。3廊式で,大小二つの交差廊(トランセプト )をもち,東端の聖母祭室(レディ・チャペル)も垂直壁面に終わり,直截な平面構成を示す。全長約140mと,フランス のアミアン大聖堂 に比べられる長さをもちながら,天井高は約25mと後者の半分強にすぎず,堂内は奥深い印象を与える。西正面(1258-65)は,両端を小鐘塔で限る幕壁(スクリーン )の中に,背後の主廊構成をにおわす主扉口と妻壁窓を巧みに織り込む。交差部の大塔は14世紀の付加で,イギリス最高の123mに達する尖塔を頂く。大聖堂南側にはクロイスター (回廊)がつき,その東廊に接して八角形平面の参事会堂(1263-84)が建つ。 執筆者:藤本 康雄
ソールズベリー Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquis of Salisbury 生没年:1830-1903
イギリスの保守党政治家。由緒ある名門セシル家の出。1853年下院に入り,60年より《クオータリー・レビュー》誌に寄稿するなど,保守派の論客として活躍。66年ダービー内閣のインド事務相となるが,翌年ディズレーリ の第2次選挙法改正案に反対して辞職。74年再びインド事務相としてディズレーリ内閣に入閣,78年外相に転じ首相とともにベルリン会議 に出席した。81年ディズレーリの死後,保守党党首となり,3度組閣(1885-86,1886-92,1895-1902),その間おおむね外相を兼任。典型的な貴族的・保守的政治家で,伝統的な〈光栄ある孤立 〉政策を継承し,帝国主義時代の国際間の摩擦の調整にあたり,イギリス帝国の威信と権益の保持に努めた。しかし,1900年ランズダウン卿に外相の地位を譲り,02年日英同盟 成立後,甥のバルフォア を後継者として引退。イギリスの孤立政策の時代もここに終わった。 執筆者:池田 清
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ソールズベリー(侯) ソールズベリー[こう] Salisbury, Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of
[生]1830.2.3. ハットフィールド [没]1903.8.22. ハットフィールド イギリスの政治家。首相(在任 1885~86,1886~92,1895~1902)。オックスフォード大学 に進んだが,病弱で中途退学。世界旅行をしたのち,1853年リンカーンシャーのスタンフォード から選出されて下院議員になった。1867年ダービー 内閣インド大臣,翌 1868年ベンジャミン・ディズレーリ の選挙法改正法案に反対して辞職。1869年父の侯爵位を継承して第3代ソールズベリー侯となる。1874~78年ディズレーリ内閣で再度インド大臣に就任,1876年コンスタンチノープル会議 全権委員を務めた。1878年政府の措置を不満として外務大臣を辞したダービー伯のあとをうけて外相に就任,まだ官報の公示もすまないうちに,「ソールズベリー回状」として知られる電報を列強に送り,露土戦争 終結に関するイギリスの立場を承認させ,ディズレーリ首相とともにベルリン会議 に出席,同 1878年7月ベルリン条約 を締結させた。その後保守党党首として 3度首相となり,在任最後の 1年半を除いて外相を兼任。世界分割に加わる一方,「光栄ある孤立 」といわれたヨーロッパ の協調を守る外交政策 を推進した。1900年11月外相の地位をランズダウン 侯に譲り,1902年日英同盟 成立後,甥のアーサー・J.バルフォア に地位を譲って引退。
ソールズベリー Salisbury
イギリス ,イングランド 南部,ウィルトシャー 南東部の都市。旧称はニューサラム New Sarum。サウサンプトン の北西約 35km,エーボン川とその支流のワイリー川の合流点に位置する。市の北郊オールドサラムに築かれたローマ人の町ソルビオドゥヌム Sorbiodunumに始まり,サクソン人(ザクセン人 )のもとで重要な町に発展。11世紀後半ノルマン人 によって城が建設され,1075年には司教座が置かれたが,まもなく城主と司教の抗争が激化し,ローマ教皇 から司教座を移す許可を得て,1220年新しい大聖堂が建設された(→ソールズベリー大聖堂 )。今日の町はこの大聖堂のまわりに発展したもので,中世には羊毛・毛織物工業で繁栄,のち刃物類の製造で知られるようになった。農業地帯の集散地で,家畜・家禽市場があるほか,機械,ビール醸造,皮革,印刷などの工業が立地する。市街中心部には中世の町並みが保存され,また市の北北西約 13kmには考古学上重要な先史時代の遺跡ストーンヘンジ などがあるため,観光業も重要な産業となっている。人口 4万3355(2001)。
ソールズベリー Salisbury, Harrison Evans
[生]1908.11.14. ミネソタ,ミネアポリス [没]1993.7.5. ロードアイランド ,プロビデンス アメリカのジャーナリスト ,著述家。ミネソタ大学卒業後,UP通信に入りシカゴ,ニューヨーク ,ロンドン ,モスクワなどの支局を回った。 1949年にニューヨーク・タイムズ に移り,モスクワ支局長を5年間務め,1955年にはソ連に関連する一連の記事でピュリッツァー賞 (国際報道部門) を受賞。帰国後,編集次長 (1964~72年) ,副編集長 (1972~74年) を歴任し,1970年から 1973年まで,特集ページの編集長を務めた。 1971年にはアメリカ国防総省が,ベトナム戦争の深刻化要因とその経過をまとめた秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」 Pentagon Papers を暴露する記事の掲載を編集トップの一人として承認して大きな反響を巻き起こした。中国,ソ連の専門家としても知られ『途上のロシア』 Russia on the Way (1946) ,『攻防 900日 包囲されたレニングラード 』 The 900 Days : The Siege of Leningrad (1969) ,『ニュー・エンペラー』 The New Emperors: China in the Era of Mao and Deng (1992) などの著書を残している。
ソールズベリー(伯) ソールズベリー[はく] Salisbury, Robert Cecil, 1st Earl of
[生]1563.6.1. ロンドン [没]1612.5.24. ウィルトシャー,マールバラ イギリスの政治家。バーリー男爵ウィリアム・セシル の次男。 1584~87年フランスに滞在。 84年から下院議員。 91年ナイト爵を叙爵。 96年から国務大臣 をつとめ,父に代って晩年のエリザベス1世 を補佐し,2代エセックス (伯) の反乱を処理し,ジェームズ1世 の即位を実現させた。ジェームズ1世のもとでも引続き国務大臣にとどまり,セシル男爵 (1603) ,クランボーン子爵 (04) ,ソールズベリー伯爵 (05) に叙せられた。
ソールズベリー(伯) ソールズベリー[はく] Salisbury, William Longsword, 3rd Ear1 of
[生]? [没]1226.3.7. ウィルトシャー,ソールズベリー イギリスの軍人,行政官。国王ヘンリー2世 の庶子。 1196年リチャード1世の計らいでソールズベリー伯ウィリアムの娘イザベルと結婚。使命を帯びてフランス,ドイツへ派遣された。 1213~14年イングランドのジョン 王の同盟軍をフランドル に組織,フランスと戦ったが捕えられた。 15年捕虜の交換により釈放され,帰国。ヘンリー3世 の幼少時には多くの要職をつとめた。
ソールズベリー Salisbury
アメリカ合衆国 ,ノースカロライナ州 の都市。グリーンズバラの南西約 100km,起伏のゆるやかな山麓地帯に位置する。 18世紀中頃に入植,イギリスのソールズベリーにちなんで命名された。植民地時代には六大都市の一つに数えられていたほどの町で,市街はいまなお昔の面影を残す。かつては織物工場とサザン鉄道の修理工場の町であったが,現在は織物,建材,家具など多種の町工場があるにすぎない。近隣地域ではコムギの生産,牧畜,酪農などが行われる。 1851年創立のカトーバ大学,79年創立のリビングストン大学がある。人口2万 3087 (1990) 。
ソールズベリー Salisbury
アメリカ合衆国,メリーランド州南部の都市。 1732年創設,初めウィルシャーと呼ばれた。植民地時代の歴史を物語るオールドグリーンヒルやオールハロウズ教会などの建物が残る。デルマーバ半島中南部の交通の要衝および商業の中心地。農産物加工や観光も市の重要な産業である。人口2万 592 (1990) 。
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ソールズベリー(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury) そーるずべりー Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury (1830―1903)
イギリスの政治家。第2代ソールズベリー侯の次男として生まれ、オックスフォード大学で学んだ。1853年に保守党下院議員となり、議員生活を送るかたわら、雑誌に健筆を振るい、民主主義を嫌悪し、変化を忌む政治姿勢を明確に示した。1868年、父の死去によって上院入りし、インド相を経て1878年に外相に就任すると、ベルリン会議でディズレーリとともに活躍、「大ブルガリア」の実現阻止に成功した。1881年、上院での保守党指導者に就任、1885~1886年、1886~1892年、1895~1902年の長期にわたって首相を務めた。その間、とりわけ外交政策、アジア・アフリカでの「帝国政策」に強い関心を寄せ、1887年の第1回植民地会議の開催、中国における威海衛(いかいえい)の租借、スーダンにおけるフランスとの競合、南アフリカ戦争(ブーア戦争)などの積極的な帝国主義外交政策を展開した。
[木畑洋一]
『坂井秀夫著『近代イギリス政治外交史 第1巻』(1974・創文社)』
ソールズベリー(Harrison Evans Salisbury) そーるずべりー Harrison Evans Salisbury (1908―1993)
アメリカのジャーナリスト。ミネソタ州ミネアポリス生まれ。ミネソタ大学卒業後、地方紙記者、UP通信社支局長を経て、1949年『ニューヨーク・タイムズ』紙に移る。約6年間のモスクワ特派員生活をまとめた『ソ連のアメリカ人』(1955)でピュリッツァー賞を受けた。フルシチョフ・ソ連共産党第一書記のスターリン批判秘密報告をスクープ(1956)したり、アメリカ人記者として初めて北ベトナム入りに成功(1966)するなど、共産圏問題に強いジャーナリストであった。
[鈴木ケイ]
『朝日新聞社外報部訳『ハノイは燃えている』(1967・朝日新聞社)』 ▽『大沢正訳『攻防900日』上下(1972・早川書房)』 ▽『大沢正訳『独ソ戦――この知られざる戦い』(1980・早川書房)』
ソールズベリー(イギリス) そーるずべりー Salisbury
イギリス、イングランド南部、ウィルトシャー県の県都。人口11万4614(2001)。ニュー・セーラムNew Sarumともいう。ソールズベリー平野の南縁に位置する。イギリスで最高の尖塔(せんとう)(高さ123メートル、1334年完成)を有するソールズベリー大聖堂を中心に中世以来発展してきた。史跡に富み、観光客が多い。醸造、印刷、皮革、食肉出荷業が立地する。市の北方約13キロメートルに巨石記念物ストーンヘンジ(世界文化遺産)がある。
[久保田武]
ソールズベリー(ジンバブエ) そーるずべりー Salisbury
アフリカ南部、ジンバブエの首都ハラーレの旧称。
[編集部]
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百科事典マイペディア
「ソールズベリー」の意味・わかりやすい解説
ソールズベリー(イギリス)【ソールズベリー】
英国,イングランド南部ウィルトシャー州の,エーボン川とその支流の合流点に位置する都市。羊の牧草地であり,また軍事訓練場ともなるソールズベリー平野の中心。近郊のオールド・セーラムに対して,ニュー・セーラムと別称された。ソールズベリー大聖堂 がある。4万3000人(2001)。
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ソールズベリー
生年月日:1908年11月14日 アメリカのジャーナリスト 1993年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」 367日誕生日大事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」 山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の ソールズベリーの言及
【ハラレ】より
…標高1484mの高原にあり,爽涼な気候に恵まれる。旧称ソールズベリーSalisburyで,1982年4月現名に改称した。金鉱地帯の中心で,タバコ,トウモロコシ,ワタ,かんきつ類などの集散地であり,食品加工,タバコ,飲料,肥料,家具,建設資材,化学薬品,精糖,鉄鋼,石油などの各種工業も発達している。…
【年代記】より
…文学的,思想的にも吟味しうる内容をもつ年代記は,この種のものであり,すでに狭義の歴史叙述に属するものといってもよい。12世紀中葉のローマ教皇庁史をつづったソールズベリーの[ヨハネス]の《教皇庁史》は,そのタイトルにもかかわらず,年代記のスタイルをとっている。13世紀中葉の[M.パリス]の《大年代記》は,その時代に全ヨーロッパで起こった政治的・社会的諸事件を扱い,きわめて包括的な時代史として,高く評価されている。…
【ノルマン朝】より
…1066年から1154年の間,イングランドを支配した王朝。[ノルマン・コンクエスト]によってイングランドを征服して王となったウィリアム1世(在位1066‐87)は,封建制度を導入して,国土を臣下に分与する代りに軍役を奉仕させ,イングランド古来のシャイア(州)・ハンドレッド(郡)制を利用して支配したほか,全国の土地所有者をソールズベリーの野に集めて忠誠を誓わせ,徴税のための土地台帳(《[ドゥームズデー・ブック]》)を作成させるなど,集権的封建国家の基礎をつくった。次のウィリアム2世(在位1087‐1100)は,長兄のノルマンディー公ロベールと紛争を引き起こし,カンタベリー大司教アンセルムスと対立するなど失政が多かったため,貴族の不満が高まり,狩猟中無名の者の矢に当たって横死した。…
※「ソールズベリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」