デジタル大辞泉 「ウサマビンラディン」の意味・読み・例文・類語 ビンラディン(Usāma bin Lādin) [1957ごろ~2011]サウジアラビア出身のイスラム原理主義者。同国の財閥の家系に生まれる。アフガン侵攻では米国などの援助を受けてソ連軍と戦うが、湾岸戦争のころから反米主義に傾き、国際テロ組織アルカイダの指導者として2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指示したとされる。2011年に潜伏先のパキスタンで米国軍などにより殺害された。ビンラーディン。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディア 「ウサマビンラディン」の意味・わかりやすい解説 ウサマ・ビン・ラディン サウジアラビア出身のイスラム原理主義者でテロリスト。オサマ・ビン・ラディンとも。2001年9月11日のニューヨークの世界貿易センタービルなどを攻撃した同時多発自爆テロの首謀者とされる。国際テロ組織アル・カーイダの指導者。サウジアラビアの富豪の家に生まれ,同国ジッダにあるキング・アブドゥル・アジズ大学で土木工学を学んだ。1970年代からゲリラ組織で活動,旧ソ連のアフガニスタン侵攻に義勇兵として参加。その活躍を背景に組織を拡大,パキスタンを拠点にアメリカの支援を受けていたとも言われる。1989年サウジアラビアに帰国するが反政府の姿勢を強め,国籍剥奪・資産凍結処分を受け,一族からも追放されてスーダンに渡った。1990年代から国際的なテロ活動を活発化させ,1993年ニューヨークの世界貿易センター爆破テロや,1995年エチオピア訪問中のエジプトのムバーラク大統領暗殺(未遂)を企て,スーダン政府から国外追放された。その後ムハマド・オマル率いるアフガニスタンの民兵組織〈タリバーン〉と協力関係を結び,テロの活動拠点を同国に移す。豊富な資金力を背景に組織を強化。湾岸戦争でアメリカを最大の敵とみなすようになった。1988年ケニアとタンザニアで同時刻にアメリカ大使館を爆破する自爆テロがあり,これにアル・カーイダが関与したとされ,アメリカ艦船から巡航ミサイルによる報復攻撃を受けるが逃げ延び,2000年報復の報復としてイエメンでアメリカ駆逐艦に対する自爆テロを行った。アメリカ捜査当局は情報提供者への報奨金に5億ドルという破格の金額を提示し,ビン・ラディンを最も危険なテロリストとして指名手配した。アメリカ同時多発テロの後はアフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していたとみられ,パキスタン軍による掃討作戦も行われたが逃げ延びていた。2004年10月,カタールの衛星テレビ局アルジャジーラに自らがアメリカ同時多発テロを引き起こしたことを認める映像が放送され,さらなるテロの予告も行っていた。2011年5月2日,パキスタン北部の都市アボッターバードの潜伏先でアメリカ軍特殊部隊の急襲を受け,殺害された。ビン・ラディン殺害後,同年6月に,ザワヒリがアル・カーイダの後継者に就任したとされる。→関連項目IS|9.11事件|ザワヒリ|パキスタン|バグダディ 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報