日本大百科全書(ニッポニカ) 「エフトゥシェンコ」の意味・わかりやすい解説
エフトゥシェンコ
えふとぅしぇんこ
Евгений Александрович Евтушенко/Evgeniy Aleksandrovich Evtushenko
(1933―2017)
ロシアの詩人、小説家、映画監督。シベリアのイルクーツク州の生まれ。1954年ゴーリキー文学大学を卒業。1949年から詩を発表。スターリン個人崇拝によるソ連時代の社会や文化のゆがみに対する痛烈な告発と、新鮮な自己表現に満ちた詩作によって、1950~1960年代、雪解け時代の「怒れる若者」の世代の旗手の一人となる。このころの代表作に、『ジマー駅』(1956)、『ぼくをコミュニストとみなせ』(1960)、ナチスによるユダヤ人大量虐殺が行われたキエフ(現、キーウ)近郊の谷間を歌った『バービー・ヤール』(1962)、独裁者の復活を許すなと訴える『スターリンの後継者たち』(1962)、『ブラーツク発電所』(1965)などがある。
最初にフランス語版で出た『早すぎる自叙伝』(1963)は一大センセーションを巻き起こしたが、党幹部との会談での率直な物言いもたたり、自己過信や過度の直感性のために批判の対象とされ、それまでの党の「寵愛(ちょうあい)を受けた扇動者」の地位を失った。スターリンの個人崇拝を中心とするエフトゥシェンコの体制批判は「革命運動」や「共産主義社会建設」にまで及ぶことはなく、その発言や創作はあるときには政府を代弁するものであったり、またあるときには反体制的であったりする。1974年、ソルジェニツィンの国外追放に抗議するが、半年後には政府の「イデオロギー闘争」を支持する詩を発表した。こうした行動にみられる彼の姿勢に対し、つねにその時代のできごとの中心的な存在であろうとするだけの詩人という評価や批判も多い。
しかし、世界中を訪れながら『東京の雪』(1974)、『サンチャゴの鳩(はと)』(1978)、『ママと中性子爆弾』(1982)などの平和を訴える詩を一貫して書き続けてもいる。1986年には第8回ソ連作家大会において詩人パステルナークの復権を訴え、1989年には人民代議員に当選した。1991年のクーデター未遂事件の際には民衆に向けて、クーデターを批判する即興詩『八月十九日』を発表している。早くから散文にも手を染めており、第二次世界大戦のできごとを題材にした『パール・ハーバー』(1967)、1930年代のシベリアでの農業集団化を描いた『苺(いちご)のなるところ』(1982)などがあるが、とりわけ1991年のクーデターの2日間を描いた『死が来るまでは死なないで(ロシアのおとぎばなし)』(1993)は大きな話題をよんだ。映画の作成にも取り組み、自ら脚本を書き監督を務め主人公を演じた『飛翔(ひしょう)』(1979)や『幼稚園』(1983)、それに『スターリンの葬式』(1990)がある。20世紀のロシアのすぐれた詩を集めたアンソロジー『世紀の詩』(1995)を編纂(へんさん)出版したあと、最近作を集めた詩画集『願わくは』(1996)を出している。エフトゥシェンコの詩作品は70以上の言語に訳され世界に知られている。
1973年(昭和48)と1991年(平成3)の二度来日。アメリカ芸術アカデミー名誉会員、ヨーロッパ芸術科学アカデミー会員。モスクワに住み創作活動を続けながら、アメリカの大学で教壇に立ちロシア詩の講義を行った。
[草鹿外吉・藻利佳彦 2018年8月21日]
『工藤幸雄訳『早すぎる自叙伝』(1963・新潮社)』▽『草鹿外吉編・訳『エフトゥシェンコの詩と時代』(1963・光和堂)』▽『草鹿外吉訳『エフトウシェンコ詩集』(1973・飯塚書店)』▽『草鹿外吉編・訳『詩集 白い雪が降る』(1974・毎日新聞社)』▽『安井侑子著『青春――モスクワと詩人』(1987・晶文社)』▽『草鹿外吉編・訳『現代ロシア詩集――自由を求めたロシアの詩人たち』(1991・土曜美術社)』▽『木村浩著『ソルジェニーツインの眼』(1992・文芸春秋)』▽『井桁貞義著『現代ロシアの文芸復興(ルネサンス)』(1996・群像社)』