目次 自然 歴史 植民地時代 独立から革命まで 住民,言語,社会,文化 政治,外交 政治構造 外交 経済 経済政策 経済構造 基本情報 正式名称 =キューバ共和国 República de Cuba 面積 =10万9886km2 人口 (2010)=1124万人 首都 =ハバナHavana(日本との時差=-14時間) 主要言語 =スペイン語 通貨 =キューバ・ペソCuban Peso
カリブ海にある社会主義の共和国。キューバはスペイン語の発音ではクーバである。クーバとは原住民がキューバ島 を指していた呼名で,スペイン人も征服後それに従った。キューバは,本島と南西の海上に浮かぶピノス島Isla de Pinosおよび沿岸の小島やサンゴ礁から成り,西インド諸島 では最大の島国で,北海道と九州を合わせた面積より,やや小さい。アメリカ合衆国 のフロリダのキー・ウェストの南方160kmのところ,メキシコ湾の入口にまたがるように東西に横たわっており,島の東端のウィンドワード海峡 はアメリカ東部とパナマ運河を結ぶ重要な航路となっている。〈カリブ海の赤い星〉として注目されている社会主義国キューバは,このように戦略上,商業上,重要なところに位置している。西インド諸島はアンティル(アンティーリャス)諸島とも呼ばれるが,キューバはその島の美観ゆえ古くから〈アンティルの真珠〉と称されてきた。
自然 国土の約60%が低地となだらかな丘陵地帯から成り,残りが山岳地帯となっている。大きな山脈はいずれも東西に走り,最大の山脈は東部のマエストラ山脈 Sierra Maestraで,ここにはキューバの最高峰トゥルキノ山 Pico Turquino(標高2005m)がある。ほかにおもな山脈として,西部のオルガノス山脈Sierra de los Organos,ロサリオ山脈Sierra del Rosario,中部のエスカンブライ山脈Escambrayがある。河川は200以上ある。西部や中部のカマグエイ州を広く覆っている赤い粘土質の土壌はきわめて肥沃で,サトウキビ の栽培にもっとも向いている。キューバは熱帯に位置しているにもかかわらず,一年中吹きつける貿易風の影響で,温帯ないし亜熱帯の気候をもち,乾季と雨季に分かれ,前者は11月から4月まで,後者は5月から10月まで続く。平均気温は夏が27℃,冬は21℃である。7月と8月はもっとも暑く,ハバナでは38℃に達することもある。山岳地帯の気候は概して涼しい。雨量は地域や年によって異なるが,低地の年間平均雨量は890~1400mmである。キューバはハリケーン ・ベルトに位置しているため,しばしばハリケーンに襲われるが,1800年以来キューバを襲ったハリケーンのうち,もっとも破壊的であったのは1963年のハリケーン・フローラで,このときには4200人が死亡し,3万の家屋が崩壊した。ハリケーンやしばしば襲う干ばつによる被害がキューバの農業,ひいてはこの国の経済に及ぼす影響は軽視できない。キューバには,白砂とヤシの美しい海岸がたくさんあり,とくにマタンサス州にあるバラデロVaraderoの海岸は保養地として国際的に有名である。島の美観はこの国の貴重な観光資源となっている。
歴史 植民地時代 キューバは1492年コロンブスの第1回航海中に〈発見〉された。スペイン人による征服以前のキューバ島にはシボネイCiboneyesおよびタイノTainosもしくはアラワク Arawaksと呼ばれた原住民がいたが,比較的低い発展段階にあった彼らは,1511年にこの島に到来したスペイン人のD.deベラスケスが率いる遠征隊によって征服され,その後スペイン人による虐待や,彼らがもたらした疫病により,ほぼ1世紀後にはほとんど絶滅してしまった。スペインの植民地キューバは金の採掘によって一時繁栄したが,金が枯渇し,さらにスペイン人の植民活動の重心が大陸のメキシコやペルーに移動するにつれて,早くも16世紀半ばには停滞期に入ってしまった。しかし,ハバナが大陸のスペイン植民地と本国との間の貿易の中継地となったため,全面的な衰退からは免れた。その後18世紀末までキューバは人口も少なく,経済的にもさして重要性をもたぬ,牧畜とタバコ,砂糖を生産する小農的な社会の植民地にとどまっていた。
しかし18世紀の末,隣のフランス領サン・ドマング (ハイチ)で奴隷反乱が起こり,その島の繁栄していた砂糖産業が壊滅したことや,アメリカ合衆国が独立してキューバの貿易相手として登場したこと,さらにキューバの開明的なクリオーリョ criollos(土着化したスペイン人)の地主階級が黒人奴隷の輸入自由化を求め,大規模な土地所有が可能になるよう本国政府に積極的に働きかけ,それらを実現したことなどによって,18世紀末から〈砂糖革命〉と呼ばれる大規模な奴隷制砂糖プランテーション産業が勃興した。さらに1840年代以降には鉄道や蒸気機関を導入するなどして砂糖産業はますます発展し,60年には早くも世界最大の砂糖生産地となった。19世紀の初めイスパノ・アメリカの地域は本国からの独立を達成したが,当時砂糖産業が順調に発展していたキューバでは独立に向けての組織的な動きは起こらなかった。1840年代には砂糖地主の中で同じ奴隷制国家であったアメリカ合衆国との合併を望む声が強まったが,南北戦争で合衆国が奴隷制を廃止したため,その望みは消え失せた。その後,キューバのクリオーリョたちは,本国政府に対して,本国人との政治的平等や貿易のいっそうの自由化を要求したが,本国政府がそれらを受け入れなかったため,68年についに独立に向かって武力で立ち上がった。〈10年戦争〉と呼ばれるこの戦争は,反乱軍が奴隷解放を行ったため奴隷解放戦争の性格を帯びていたが,キューバ人クリオーリョの内部が分裂していたなどの理由により,結局反乱軍は勝利できず,78年にサンホンZanjón協定を結んで戦争は終結した。〈10年戦争〉後,本国政府は奴隷解放に踏み切り,86年キューバの奴隷制は完全に廃止された。また,戦後砂糖産業の近代化と集中が進み,それに関連してキューバ砂糖業へのアメリカ資本の進出が始まった。
独立から革命まで キューバ人はその後J.マルティ の指導のもとで再び独立の準備を進めた。マルティは1892年にキューバ革命党 を結成し,〈10年戦争〉の英雄であるゴメスMáximo Gómez将軍やマセオAntonio Maceo将軍の協力を得て95年にアメリカ合衆国からキューバに侵入し,再び独立戦争を開始した。キューバの情勢に重大な関心を払っていたアメリカ合衆国政府は,98年4月ついにキューバ人の側に立ってスペインと戦争を開始した(米西戦争 )。戦争は短期間で終結し,同年12月パリで講和条約が結ばれ,キューバがスペインの支配から離れること,独立するまでアメリカの軍事占領下に置かれることが決められた。1902年5月キューバは独立したが,独立に際して制定された憲法にアメリカがキューバに対する干渉権や海軍基地提供の義務を明記した〈プラット修正 〉条項を強引に押しつけたため,キューバは実際には半ば植民地の状態に置かれることになる。この条項に基づいてアメリカは翌年キューバとの間に条約を結び,キューバのグアンタナモ とバイア・オンダ に海軍基地を設置するとともに,その後キューバの内政に対してしばしば軍事力を用いて干渉した。
独立後キューバに対するアメリカの投資は増加し,その総額は独立前の約5000万ドルから1920年代末には約11億ドルに達し,アメリカ資本による支配は砂糖産業のみならず,金融,鉱山,鉄道,電力,電信,電話の部門に及んだ。キューバの経済は極度に砂糖に依存するモノカルチャー経済となり,工業など他の産業が発展しなかったため,経済は国際市場での砂糖価格の変化に左右される不安定なものになる。そのうえ,砂糖産業が収穫期とその時期以外の〈死の季節〉と呼ばれた農閑期をもつ季節産業であったため,多くの農民や労働者が困窮した。1920年代の末に始まった世界恐慌はキューバを直撃したため経済不況や社会不安が起こり,それを背景にして33年9月に革命が起こり民族主義的な政権が生まれたが,それもアメリカ政府の圧力などにより,わずか4ヵ月で崩壊した。アメリカ政府は34年にキューバと新条約を結び〈プラット修正〉を廃棄したが(グアンタナモの海軍基地の条項は残された),その後はアメリカによる軍事干渉の代りにキューバ軍,とくにその実力者であったF.バティスタ を通じてキューバの秩序維持と安定にあたった。一方,アメリカは34年にキューバとの間に互恵通商条約を結ぶとともに砂糖輸入割当法を制定することによってキューバ糖の市場を安定させ,それによってキューバ経済を不況から回復させようと努めるが,これらの政策はキューバの対米従属をいっそう深めさせることになり,このような政治的・経済的な対米従属からの脱却を求めてキューバで革命が起こるのである。 →キューバ革命
住民,言語,社会,文化 キューバの国民の大部分は,スペイン系白人,アフリカ系黒人,若干の東洋人(中国人と日本人),およびこれらの人々の間の混血によって構成されている。革命後政府は人種上の区別を行わない立場から,国民の人種構成を明らかにしていない。ちなみに革命前の国勢調査(1953)は,白人73%,黒人12%,混血14%,黄色人0.3%としている。公用語はスペイン語で,すべての国民がスペイン語を用いている。宗教は社会主義国家の法律に違反しない範囲で許容されているが,ローマ・カトリック 教は大きな影響力をもっておらず,教会も社会活動の中心とはなっていない。一部の人々の間ではアフロ・キューバ系の宗教であるサンテリーアSanteríaがいまだに信仰されている。
キューバの社会は革命によって一変した。革命前に存在していた階級による貧富の差はなくなり,都市と農村の間に存在した発展の格差も是正されつつある。憲法によって労働の意欲がある者はすべて雇用が保障されており,老年退職者には年金が支給されている。教育と医療は無料で,革命後のこれらの分野の発展と普及は目覚ましい。1990年代に入って以来,キューバの経済・財政はきわめて厳しい状況にあるが,教育と医療の無料は堅持されている。革命前20%以上あった非識字率は今日ではほとんどゼロに近く,小・中・高等学校および大学に就学する者の数は革命前の77万人(1956)から356万人(1978)へと増加した。一方,病院の数も革命前の97(1958)から255(1974)へと増加し,この国の幼児死亡率1000人当り9.3(1993)というのは,ラテン・アメリカで最も低い数字である。革命前のキューバ,とくにハバナのような大都市では黒人に対する差別がなされていたが,今日ではこのような社会的差別は一掃されている。女性の地位も革命前とは比較にならぬほど向上し,社会のさまざまな分野での女性の進出は目覚ましい。大部分のキューバ人にとって大衆組織である革命防衛委員会(CDR)とキューバ婦人同盟 (FMC,ともに1960創立)が日常的な社会活動の中心となっており,これらの組織はキューバ社会主義が民衆レベルで機能するうえで不可欠なものとなっている。
文化活動もその内容が革命に反しないかぎり自由に認められており,その枠組みのなかで文学,音楽,演劇,舞踊,出版などの分野で活発に行われている。作家のA.カルペンティエル ,詩人のN.ギリェン ,キューバ国立舞踊団を率いる女性舞踊家のアロンソAlicia Alonso(1921- )など国際的に著名な文化人を生んでいる。革命後スポーツは重視され,各地にスポーツ評議会が設けられて各種のスポーツが奨励されている。キューバではサッカーではなくて,野球が国民的スポーツである。 →ラテン・アメリカ音楽 →ラテン・アメリカ文学
政治,外交 政治構造 キューバの政治は唯一の政党であるキューバ共産党 (PCC)の指導のもとで,国家機構を通じて行われている。革命後のキューバでは最高指導者であるF.カストロを中心とした個人的色彩の強い政権により政治が行われてきたが,1970年代に入って個人指導から党による指導へと方針が改められるとともに,党の強化がはかられ,75年に第1回共産党大会が開かれて党による指導が明確に打ち出された。党には政治局,書記局,中央委員会が置かれたが,書記局は第4回党大会(1991)で廃止され,現在は政治局と中央委員会の構成員が党幹部を形成している。第5回党大会(1997)では中央委員の数が225名から150名へと大幅に削減されるとともに,政治局や中央委員会で若手の登用が積極的になされて注目された。また,第4回党大会では,共産党一党支配による社会主義を堅持しつつも,国政の民主化と社会主義のキューバ化を打ち出して,党員資格を従来のマルクス=レーニン主義者からキリスト教信者や愛国者にまで広げた。党員数は人口約1100万のうち約78万(1997)とされている。一方,1975年には革命後初めて憲法が制定され,翌年2月に国民投票の97.7%の支持を得て発布された。憲法は,キューバをすべての権力が労働者人民に属する社会主義国家と規定している。国家機構については,国会に相当するものとして,通常年2回開催される人民権力全国会議を設け,さらにこの会議の代議員の中から国家評議会の議員を選出すると規定している。国家評議会は人民権力全国会議が開催されていない期間それを代行するもので,その議長は国家元首であり,行政府の首長であり,革命軍の最高司令官である。政府に相当する最高行政機構として国家評議会議長,第一副議長や29名の各省大臣などから成る閣僚評議会がある。人民権力全国会議の下には現在14県ある各県および各地方自治体に人民権力会議が置かれ,選挙権をもつ16歳以上の男女がまず地方自治体の会議への代表を選び,その中から県の会議の代表,さらにそこから全国会議の代表を選ぶという全国的なヒエラルヒー の形をとっている。司法組織としては,最高人民裁判所を頂点に各県に裁判所が置かれている。大衆組織としてはキューバ労働者中央組織,革命防衛委員会,キューバ婦人同盟,全国小農連合,大学学生同盟がある。
キューバはこのような政治体制を社会主義的民主主義と呼んでいるが,実際の政策決定は,党の政治局,中央委員会,および国家評議会や閣僚評議会のいくつかを兼任する少数の指導者によってなされている。とりわけ,国家評議会議長,党第一書記,首相,軍の最高司令官を兼任し,国民の間で依然として大きな人気をもつF.カストロに絶大な権力と権威が集中している。しかし,近年は党の政治局や国家評議会の構成員による集団指導体制が強まっているとされ,とくに30代から50代の若手が新しい指導部を形成しつつある。カストロの後継者は彼の弟で,ナンバー・ツーの地位にある国家評議会第一副議長,第一副首相,党第二書記,革命軍事相のラウル・カストロRaúl Castro(1931- )とみなされている。キューバの軍部は陸海空約18万の兵力をもち,ラテン・アメリカでは最強の軍隊の部類に属している。軍部はまた,党の中央委員会や政治局や閣僚会議で将軍たちがその構成員となっていて,国内体制の強力な支柱となっている。
外交 冷戦が終結し,ソ連・東欧の社会主義が崩壊するまで,キューバの対外政策は,ソ連・東欧社会主義諸国との緊密な同盟関係,アジア,アフリカ,ラテン・アメリカの社会主義政権や民族解放勢力との連帯と協力,および社会体制の異なる国家との間の平和共存という三つの柱を原則としていた。第三世界の民族解放闘争への積極的な支援としては,60年代にはラテン・アメリカ各地の左翼武装ゲリラ闘争を支援し,70年代にはアフリカ,中東へと活動分野を広げ,75年にはアンゴラ,78年にはエチオピアの各々の左翼政権を支援するため大規模な出兵を行った。70年代末から80年代にかけて,カリブ海のグレナダや中米のニカラグア の左翼政権と緊密に連帯した。79年9月には,ハバナで非同盟諸国首脳会議を開催し,その後3年間同会議の議長団を務め,第三世界諸国の間で指導的役割を果たした。
しかし,冷戦の終結とソ連・東欧社会主義の崩壊により同盟国でかつ主要貿易相手国を失い経済的苦境に陥ったキューバは,冷戦後一段と強まったアメリカ合衆国の経済封鎖のもとで,新たな国際的対応を迫られた。空前の経済不況からの脱出を最優先課題としたキューバは,国際社会での孤立化を避けるために,敵視政策を続けるアメリカ合衆国以外のあらゆる国との関係改善に努めるとともに,従来のイデオロギー的な対外政策を改めて経済外交に重点を置いた政策をとっている。国連や,イベロ・アメリカ諸国会議,カリブ海諸国連合などを舞台に,アメリカ合衆国の経済封鎖に対する反対や,発展途上国の権利の擁護,環境保護などを強く唱えている。国連総会でのアメリカの対キューバ経済封鎖に対する非難決議に賛成する国は年々増えているが,1997年の国連総会でその数は143ヵ国に達し,日本も初めて賛成の側にまわった。こうした中で,対米関係の改善がどこまで進むかがキューバ外交の注目点となっている。
経済 経済政策 キューバは1960年代後半にE.ゲバラ の考えに基づいたところの平等主義を徹底化し,社会主義と共産主義を並行して建設するという,急進的な経済路線をとっていたが,70年代初めにその路線が失敗に帰するや,ソ連・東欧型の社会主義経済建設に沿った現実的な路線へと改め,72年にはコメコン に加入してソ連・東欧社会主義共同体の中に経済を組み入れることによってその安定と成長をはかった。80年代にラテン・アメリカ全般を襲った経済危機はキューバにもある程度の影響を及ぼし,80年代半ばにはそれまでの経済政策の弊害や綱紀の是正のため〈修正〉政策を打ち出した。80年代末から90年代初めに起こったソ連・東欧社会主義の崩壊は,貿易,投資,援助をこれらの国に依存していたキューバ経済に深刻な打撃を与えた。キューバの対外貿易の85%がこれらの国々との間の貿易であったためである。さらにアメリカ合衆国がとった対キューバ経済封鎖の強化(1992年のトリセリ法,96年のヘルムズ=バートン法)や,政府の対応策のまずさ,相次ぐ自然災害などがキューバ経済の悪化に拍車をかけた。平常時の89年から93年までの4年間に国内総生産は約40%減少し,輸入能力も92年には89年の48%にまで低下した。これらの結果,あらゆる日常生活品が不足して配給制となり,食料不足,都市の交通事情悪化,停電などで,深刻な事態となった。
それに対して政府は,一連の改革に着手した。中国,ベトナムで実施されていた積極的な対外開放政策に踏み切るとともに,93年には国民の米ドル所有の自由化,一定数の個人営業の許可,生産性の向上と独立採算制の導入を目ざした従来の国営農場の協同組合農場化,94年の農産物や工業製品の自由市場化など市場機能の導入をはかった。一方,ヨーロッパ,カナダ,メキシコなどの国々から観光産業などに対して多額の投資がなされた。これらの結果,キューバ経済は立ち直り始め,マイナスが続いた経済成長も94年には初めてプラスへと転じ,95年には5%の経済成長を記録した。経済改革は効果をあげつつあるが,その一方でこの国に新しい貧富の差を作り出したり,利己主義を育むなど新たな問題を生み出している。指導者たちは,今後競争原理の導入による経済の活性化と平等主義の維持という難しいバランスをとりながら経済政策を進めていかねばならないだろう。
経済構造 キューバの産業は,砂糖,タバコ,コーヒー,かんきつ類,牧畜などの農牧産業と,ニッケル等の鉱業,それに食品加工,繊維,肥料,セメント,造船,エレクトロニクス,製鉄など広い分野にわたる工業,エビなどの漁業であったが,近年,観光産業やバイオテクノロジー産業がこの国の新たな戦略産業として急速に発展している。なかでも観光産業の発展は目ざましく,この国を訪れる観光客の数は92年の54万人から97年には100万人をこえた。観光による収入も10億ドルをこえて,外貨収入は砂糖産業を抜いて第1となっている。これに対して砂糖産業は経済危機以前の840万t(1989)から,93年には420万t,95年には330万tへと下落をたどっており,砂糖産業の回復が重要な課題となっている。ソ連・東欧社会主義の崩壊で石油の供給源を失ったキューバは,外国の援助で自国の油田開発政策を進めており,必ずしも良質のものではないようだが年産100万tをこえる原油を生産している。キューバの貿易相手国は,かつてのソ連・東欧からカナダ,スペイン,フランスなどヨーロッパ諸国や中国,メキシコ,ロシアへと拡散している。 執筆者:加茂 雄三