カーライル(読み)かーらいる(英語表記)Thomas Carlyle

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カーライル」の意味・わかりやすい解説

カーライル(Thomas Carlyle)
かーらいる
Thomas Carlyle
(1795―1881)

イギリスの評論家、歴史家。12月4日スコットランド、ダンフリーズシャの石工の息子として生まれる。母から読み書きを、父から算数を学んだのち村の小学校に入学したが、7歳にして完全な英語を身につけラテン語を学び始めたという。激しい気性のためしばしば問題を起こしたが、幼くして豊かな学才を示した彼は、1809年14歳のときエジンバラ大学に入学した。初めギリシア語とラテン語を学んだが、やがて彼の関心は数学に向かい、「偉大なるニュートンの足跡をたどることに誇りを感じ」るようになったとは、未完の自伝小説『ウォットン・ラインフレッド』の主人公が述懐するところである。大学卒業後、しばらく学校の教師などをしながらしだいに文学を志すに至るが、『ロンドン・マガジン』に連載した『シラー伝』(1825)が出版されるに及んで、ドイツ・ロマン派の紹介者としての地歩が確立した。1826年スコットランドの女性ジェーン・ウェルシュJane Baillie Welsh(1801―1866)と結婚、たまたまこの女性が優れた書簡の書き手であったことから、この二人の恋文はのちに『T・カーライルとジェーン・ウェルシュの恋愛書簡』2巻(1909)となって残された。

 1834年カーライル夫妻はロンドンのチェルシー地区に居を構え、カーライルはチェルシーの哲人とよばれて、この時代のイギリス思想界に指導的な役割を果たした。それより先『フレイザーズ・マガジン』に連載(1833~1834)した『衣装哲学』によって、ゲーテジャン・パウルなどの影響の濃いロマン主義的宗教観、芸術観が確立したとみられる。これとほぼ並行して執筆中の『フランス革命史』の第1巻の原稿がJ・S・ミルの不注意から焼失した挿話は有名であるが、一方では歴史研究のうちに英雄の存在理由を探り(『英雄および英雄崇拝』1841)、他方、当代の政治や社会状態に深い関心を示した(『チャーティズム』1839、『当世評論』1850など)発言は、今日からみれば明らかにその時代の思潮を脱しきれぬもので、声高の文体や大げさな身ぶり保守反動の危険な思想家の印象を強くするが、物質主義功利主義に反対し、魂と意志の力を重んじた彼の人生観、世界観は、当時にあっては警世の力を発揮した。1866年ジェーンの死とともに彼の気力もにわかに衰え、『回想録』(1881)が最後の仕事となった。

[前川祐一 2015年7月21日]

『入江勇起男他訳『カーライル選集』全6巻(1962、1963・日本教文社)』


カーライル(イギリス)
かーらいる
Carlisle

イギリス、イングランド北西部、カンブリア県の県都。人口10万0734(2001)。イーデン川下流平野の中心都市で、鉄道、道路交通の要衝。繊維、機械、食品工業が立地する。スコットランドとの境界までわずか約15キロメートルという戦略上重要な位置のゆえに、ローマ時代や、イングランドとスコットランドとの抗争期には軍都であった。今日も残る1092年築城の城は、スコットランド女王メアリー・スチュアート幽閉(1568)の地。また市の北方にはハドリアヌスの長城の遺跡がある。

[久保田武]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カーライル」の意味・わかりやすい解説

カーライル
Carlisle

イギリスイングランド北西部,カンブリア県の県都。周辺を含めてカーライル地区を構成する。ロンドン北北西約 430km,スコットランドとの境界近くにあり,イーデン川下流部に臨む。ローマ時代にハドリアヌス長城の西端を守る要塞の近くに形成された集落に始まる町で,4世紀にローマ人に放棄されたのちしばしば領有が変わったが,12世紀半ばイングランド領となり,イングランド北西部の戦略の要地として発展。18世紀末から綿織物工業が発達。ほかに,食品,製菓,機械などの工業がある。1830年代に鉄道が通じて以降,交通の要地でもあり,鉄道,道路が放射状に延びている。風光明媚なレークディストリクト(湖水地方)への入口。地区面積 1040km2。地区人口 10万3500(2004推計)。都市人口 7万1733(2001)。

カーライル
Carlyle, Thomas

[生]1795.12.4. アナンデール,エクルフェカン
[没]1881.2.5. ロンドン
イギリスの著述家,歴史家。石工の息子から身を起し,エディンバラ大学に学ぶ。学校教師を経て文筆を業とし,ドイツ文学を研究,ゲーテに傾倒。宗教的懐疑や,産業主義がもたらす社会問題に悩んだが,ドイツ哲学の影響によって煩悶から抜け出し,超越論的観念論の立場をとるにいたった。ビクトリア朝思想界の一方の雄。エマソンとの交友も有名。主作品『衣装哲学』 Sartor Resartus (1833~34) ,『フランス革命』 The French Revolution (37) ,『英雄および英雄崇拝』 On Heroes,Hero-Worship,and the Heroic in History (41) ,『フリードリヒ大王伝』 The History of Friedrich II of Prussia,Called Frederick the Great (58~65) など。

カーライル(伯妃)
カーライル[はくひ]
Carlisle, Lucy Hay, Countess of

[生]1599
[没]1660
イギリスの貴婦人。9代ノーサンバーランド公ヘンリー・パーシーの娘。 1617年初代カーライル伯ジェームズ・ヘーと結婚。宮廷の才媛として賛美され,王妃ヘンリエッタ・マリアの信任厚く,ストラッフォード (伯)や J.ピムとも親しかった。長老派に共感を寄せていたため,42年の五議員事件に際し,事前にその計画をピムに通報し,国王チャールズ1世の意図を失敗に終らせた。清教徒革命中も長老派を支持し,49~50年投獄された。王政復古後宮廷に戻り,ヘンリエッタ・マリアの帰国に尽力。

カーライル
Carlisle

アメリカ合衆国,ペンシルバニア州南部の都市。州都ハリスバーグの西約 30kmのカンバーランドの谷にある。地名はイギリス北西部の県名とその県都名に由来する。定住開始は 1720年,初期にはインディアンとの紛争が多かった。 18世紀後半には,中西部に向う多くの遠征隊の出発地となった。産業としては,敷物,絨毯,タイル,タイヤ,鋼鋳物,ラジオ部品,紙,繊維,衣料などの製造工業がある。人口1万 7492 (1990) 。

カーライル
Carlisle, John Griffin

[生]1835.9.5. ケンタッキー
[没]1910.7.31.
アメリカの法律家,政治家。 1871年ケンタッキー州副知事。連邦下院議員 (1877~90) ,83年以降下院議長をつとめ,関税改革に活躍し,93~96年財務長官に就任。

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