オコナー(読み)おこなー(英語表記)Feargus Edward O'Connor

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オコナー」の意味・わかりやすい解説

オコナー(Feargus Edward O'Connor)
おこなー
Feargus Edward O'Connor
(1796―1855)

イギリスチャーティスト運動の指導者。1796年(1794年、1799年とする説もある)7月18日、アイルランドの有力な地主の家に生まれた。ダブリン大学に学び、最初弁護士を志したが、のち、政治活動に入り、1832年国会議員に選出された。1835年財産資格を理由に議席剥奪(はくだつ)されてからは急進的運動に接近し、イングランド北部の労働者を支持基盤にチャーティスト運動の指導者となった。機関紙『ノーザン・スター』を主宰し、1847年にはチャーティストの候補者としてただ1人国会議員に当選するなど実質的な最高指導者として活躍した。労働者を農地に入植させようとした土地計画の発案者でもあったが、この計画の失敗と前後して運動への影響力を失い、失意のうちに精神障害となり、1855年8月30日没した。

[岡本充弘]


オコナー(Flannery O'Connor)
おこなー
Flannery O'Connor
(1925―1964)

アメリカの女流作家ジョージア州生まれ。南部を舞台に暴力流血の物語や南部婦人の上品主義を風刺した作品を書く。一見きわめてセンセーショナルな印象の特異な作家であるが、彼女自身は戦闘的なカトリック教徒として、いかなる手段によっても世人をキリスト救済に目覚めさせねばならないという信念根底にもっていた。信仰者の苦闘を描いた長編2冊――『賢い血』(1952)、『烈(はげ)しく攻むる者はこれを奪う』(1960)、短編集2冊――『善人は見つけ難し』(1955)、『昇るものみな一点に』(1965)、エッセイ集『神秘と風習』(1969)がある。死後も依然としてアカデミックな研究対象とされている重要な作家である。

[渋谷雄三郎]

『須山静夫訳『賢い血』(1970・冨山房)』『佐伯彰一訳『烈しく攻むる者はこれを奪う』(1971・新潮社)』『須山静夫訳『オコナー短編集』(新潮文庫)』


オコナー(Frank O'Connor)
おこなー
Frank O'Connor
(1903―1966)

アイルランドの小説家。本名マイケル・フランシス・オドノバンM. F. O'Donovan。アイルランド革命戦争の悲惨な物語を写実的な手法でとらえた短編小説集『国民の客人』(1931)でイギリス、アメリカに知られた。1952年アメリカに渡り、ハーバード大学などで客員教授を務めながら発表した短編は、アイルランドの素朴な生活をユーモアに富む洗練された筆致で描いており、イェーツから、「チェーホフがロシアに対してなしたことを、オコナーはアイルランドに対して果たした」と賛辞を受けた。代表作『私のエディプス・コンプレックス』『ユダ』における幼児や青年の心理の巧みな描写、『法の威厳』の孤独な老人の心を通してみる美しい、だがあまりにも貧しい田園風景の背後に、地域文学を超えた人間の悲喜劇の本質を追究する大きなテーマを展開、その活写に成功している。

[山口圭三郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オコナー」の意味・わかりやすい解説

オコナー
O'Connor, Flannery

[生]1925.3.25. ジョージア,サバナ
[没]1964.8.3. ジョージア,ミレッジビル
アメリカの女流作家。アイルランド系カトリック信者の家に生れ,1945年ジョージア州立女子大学,47年アイオワ州立大学修士課程修了。その後しばらくニューヨークに出ていたが,不治の病にかかり結局ジョージア州に戻り,ミレッジビルの農場に落ち着いて,激しい情熱にあふれた南部独特の宗教小説を書いた。主著は南部の田舎町を舞台にしたゴシック小説的な2作,『賢い血』 Wise Blood (1952) ,『烈しく攻むる者はこれを奪う』 The Violent Bear it Away (60) 。ほかに,短編集『善人は見出しがたし』A Good Man is Hard to Find (55) ,『起ることの一切は,一点に集中せねばならぬ』 Everything That Rises Must Converge (65) ,死後出版のエッセー集『神秘と風習』 Mystery and Manners (69) など。

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