日本大百科全書(ニッポニカ) 「オットー朝美術」の意味・わかりやすい解説
オットー朝美術
おっとーちょうびじゅつ
10世紀の終わり3分の1から11世紀の初め3分の1までの東フランク王国の美術様式をいう。この時期に、ザクセン家のオットーを名のる3人の王たち、とくにカール大帝の偉業を慕うオットー1世(在位936~973)によって古代学芸の復興、キリスト教の布教が積極的に進められた(オットー朝ルネサンス)。今日のドイツの地を基盤とし、当初はカロリング朝美術の復古の形で進められ、ついでビザンティン文化を摂取し、やがてロマネスクの最初の波に洗われながら、ドイツ美術が独自の第一歩を形成していった時期として意義がある。
建築では、この時期におよそ1000にのぼるドームが建てられたとされるが、それによってゴシックの初めまで通用する教会建築のタイプが決定された。その代表的な遺構は、オットー1世の弟、大司教ブルーノによって建てられたケルンの聖パンタレオン聖堂(980献堂)と、オットー3世当時ヒルデスハイムの司教ベルンバルトによって建てられた聖ミヒャエル聖堂である。前者はカロリング朝の「西構え」の発想を集中的に発展させて双塔式ファサードを完成した点で、後者は後の平面再構成図によると、二つの内陣と側面入口を備え左右対称の徹底化が図られているのが特徴で、ともに後世への影響が強い。
彫刻、絵画では、聖ミヒャエル聖堂の地下祭室のためにつくらせた『司教ベルンバルトの青銅扉』(1015。ヒルデスハイム大聖堂)、ケルン大聖堂にある『大司教ゲロのキリスト磔刑(たっけい)像』(975~1000ころ)、およびコンスタンツ湖上の島ライヒェナウ修道院で制作された彩飾写本『オットー3世の福音書』(1000ころ。ミュンヘン、バイエルン国立図書館)が有名である。これらの作例で注目されるのは、新しい造形空間の開拓と内面的な人間像の出現である。『青銅扉』の一面に高浮彫りされた『神に叱(しか)られるアダムとイブ』では、空間は明らかに緊迫した心理的ドラマの場として造形されている。『福音書』のなかの一点『伝道者ルカ像』は、広げた両腕で神を啓示する激越な人間像。等身大で木彫の『磔刑像』は、苦悩を全身で耐えている悲壮な人間像である。ともに肉体の美が人間に神の品位を与えるとする古代ギリシアの考え方からすれば異質である。これらの人間像は、醜もまた芸術的表現でありうるという認識にたって人間精神のたくましさに神性を与えようとする北欧表現主義の源流を示している。
[野村太郎]