カロリング朝美術(読み)カロリングちょうびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「カロリング朝美術」の意味・わかりやすい解説

カロリング朝美術 (カロリングちょうびじゅつ)

カロリング朝が支配したフランク王国で,8世紀後半から9世紀末にかけて栄えた美術。カロリング・ルネサンスと呼ばれる古代文化復興運動は特に,カール大帝が戴冠した800年ころより急激に美術の分野にも及んだ。伝統的にゲルマン人は抽象的な芸術感覚をもち,装飾にはおもに幾何学文を用いていた。当時イタリア北部を含むヨーロッパ大陸北部には,抽象文が主であるが人像表現ももつアイルランド系美術の影響が既に浸透して,先立つメロビング朝絵画には抽象文のほか若干の人物像も登場する。しかし,それらは立体感を欠き写実にはほど遠い姿であった。カロリング朝期になり,地中海地方の写実的な美術(古典古代の美術)が大々的に受け入れられ,ここに三次元的空間の表現や量感ある人物像,豊かな自然の描写が加わった。しかし,アイルランドやカール大帝が征服したランゴバルド族の影響を含めたゲルマン伝統の抽象主義と,地中海地方の美術は完全に融合したわけではなく,さまざまな伝統が互いに影響し合いながら,地域,流派によりそれぞれ個性を発揮した点にカロリング朝美術の特色がある。この美術が栄えたのは約1世紀間という短い期間であったが,その影響は首都アーヘンからバイエルン,ノイストリア,ウェストファリア,イタリア中部にまで及び,後の西方ヨーロッパ美術の基礎となった。すなわち,10世紀初め~11世紀初めのオットー朝美術の興隆はカロリング朝美術復活の努力に始まり,ロマネスク,ゴシック様式もこれから多くのものを受け継いで生まれた。カール大帝はローマやラベンナで古代末期やビザンティンの伝統を汲む美術に触れ,自国にも国家の威光を示すためにすぐれた建築や芸術が必要なことを感じ,財を投じて聖堂を建立し,数々の芸術作品を制作させた。こうして,カロリング朝の芸術は大帝やその側近,貴族たちの宮廷や大修道院を中心に栄えた。大帝は学問の振興のためにアルクインテオドゥルフThéodulf(750ころ-821)ら多くの学識者をヨーロッパ各地からアーヘンに招いた。彼らの中にはビザンティン帝国で起こったイコノクラスム(聖像破壊運動)に反対の論陣を張る者があり,大帝は有名な〈カールの書〉を発して聖像表現を認めた。このため帝国の美術活動はいっそう活発になった。また大帝は,典礼のガリア式からローマ式への変更を徹底させたが,これは当時の聖遺物崇拝の風潮とあいまって,聖堂建築に変化を生じさせた。しかし建築の多くは長い年月のうちに破壊され,残存するものは少ない。それに対して写本や金属細工,象牙彫などは多数現存し,特に写本はカロリング朝美術発展の研究には欠かせぬ資料である。

今日もアーヘンにそびえるカール大帝の宮廷礼拝堂(現,大聖堂)は彼自身の計画案によるもので,カロリング朝建築の重要な遺例である。その構造はラベンナのサン・ビターレ(6世紀中ごろ)を模したともいわれる集中式八角堂形式で,東方的なギリシア十字形プランのジェルミニー・デ・プレの礼拝堂(800ころ)と共に,当時としては例外的な形である。当時一般には縦長のプランをもつバシリカ式教会堂が多く造られた。そこに見られるこの時代の特徴は,しばしば東西両端に祭室があること,西端部が塔を伴う複雑な独立した重層構造をなしていることである。この西端部の複雑な造りは西構え(ウェストウェルクWestwerk)と呼ばれ,中世の教会堂に典型的な二つの塔をもつ正面を生み出すもととなった。フルダ修道院教会(780献堂),外観を写した17世紀の版画で知られるサン・リキエSaint-Riquier(ケントゥーラCentulla)の修道院教会(774献堂),コルバイの修道院教会(873-885)などはその例である。また聖遺物崇拝が盛んになったため,それを納める祭室下部のクリプタ(地下祭室)は大規模なものに発展した。ザンクト・ガレン修道院には9世紀初頭に書かれた修道院配置設計図が残されており,修道院建築の一典型を示すものとして貴重な資料である。

壁画で残存するものは少ないが,西チロル地方に数例が集中している。ナトゥルノNaturnoのサン・プロコロ教会にはアイルランドの影響を思わせる幻想的な天使が見られ,ミュステールMüstairのザンクト・ヨハネス教会には西ヨーロッパ最古の〈最後の審判〉図や〈キリスト伝〉など多数の壁画(800ころ)がある。またオーセールのサン・ジェルマン・デ・プレ修道院教会には〈ステファヌス伝〉壁画やアラベスク文様(857以前)が残っている。ジェルミニー・デ・プレの礼拝堂には,この期の数少ないモザイクの残存例がある。それは契約の櫃(ひつ)とその左右に天使を配した異例の図像(800ころ。《出エジプト記》25章による)で,テオドゥルフの着想といわれ,金がふんだんに使われ豪華である。このほか,ローマのサンタ・プラッセデなどのモザイクもこの期に修復されており,遺例としてあげることができる。

 典礼の変更によりローマから典礼書がもたらされたこと,カール大帝が愛書家であったことなどから,この時代は写本製作が盛んになった。多くの作例が残存するため,カロリング朝絵画は壁画よりむしろ,この写本挿絵によって知られる。それは今日いくつかの流派に分類されている。783年前後,ローマよりアーヘンに帰ったカール大帝は,ゴデスカルクGodescalcという人物に命じて1冊の写本を作らせた。それは今日《ゴデスカルクの福音書》と呼ばれるもので,そこに見られる福音書記者像には図式的な堅さは残るものの,衣には影をつけ肉体の丸みを出すくふうがなされ,ゲルマン的抽象性と古代風の写実性の混在が認められる。同系統の《アダの福音書》(785ころ),《サン・メダールの福音書》(9世紀初頭),《ロルシュの福音書》(9世紀初頭)などを総称して〈宮廷派Scuola palatina写本〉(〈アダAda群〉とも呼ぶ)というが,それらは時代が下るにつれて,いくぶん古代風の自然主義的写実の傾向が強くなる。〈ウィーンの戴冠福音書群〉と呼ばれる一連の写本は《ウィーンの戴冠福音書》(9世紀初頭),《アーヘン宝物館の福音書》(800ころ)を含むが,そこに見られる空気遠近法を使った背景や肉付きの的確な人物像はポンペイの壁画を思わせるほど古代風である。一方,〈ランス派〉と呼ばれるランス近郊の修道院で生まれた《エボの福音書》(835以前),《ユトレヒト詩篇》(820-830)では,筆が速く,輪郭線は震えるような波状をなし,古代風の静けさはない。アルクインはトゥールのサン・マルタン修道院に写本筆写所を設けたが,ここは840年ころから《グランバルの聖書》(840ころ),《ビビアンの聖書》(850ころ)など,今日〈トゥール派〉と呼ばれる端正な作品を生んだ。カロリング朝写本芸術の末期を飾るのは,カール2世(禿頭王)の宮廷に関連するといわれる《ザンクト・エンメラムの聖書》をはじめとする一連の豪華な作例である。しかしこうした作品のほかに,〈ザンクト・ガレン派〉〈フランコ・サクソン派〉など,ゲルマン的抽象性を残す作品も存在した。

今日ルーブル美術館に残る《カール大帝騎馬像》(800ころ)などの少数例を除いて,この期の丸彫彫刻は伝わっていない。当時主流であったのは浮彫で,多くの象牙製の装幀板や二連板が残存する。代表例は《ロルシュの福音書装幀板》(810ころ),《カール禿頭王の祈禱書装幀板》(869以前)などであるが,様式上それぞれ,アダ群,ランス派写本との関連が指摘される。しかし,ザンクト・ガレン修道院などではゲルマン的抽象性の残る作品も作られた。古くから金工品の製作に才能を発揮したゲルマン人は,この時代,キリスト教の器物として優れた作品を残した。《タッシロの聖杯》(770-780ころ),《ボルビニウスの祭壇前飾り》(9世紀前半),《ステファヌスの雑囊(ざつのう)形聖遺物器》(9世紀初め),《ザンクト・エンメラムの写本装幀板》(870ころ)などは,いずれも金や宝石あるいはエマイユで豊かに装飾されている。このほか,象牙浮彫と金属細工を組み合わせた《カール禿頭王の写本装幀板》などを含め,工芸品はその質の高さから,カロリング朝美術の重要な一分野をなしている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カロリング朝美術」の意味・わかりやすい解説

カロリング朝美術
かろりんぐちょうびじゅつ

8世紀末から10世紀前半に至る西フランク王国の美術様式をさす。その範囲は現在のドイツ、フランスに及び、フランス語ではこれをシャルルマーニュ様式ともいう。ローマ帝国の復活を夢みるカール(シャルルマーニュ)大帝(在位768~814)の意識的な努力によって招来されたもので、ゲルマン、ケルト両民族の土壌に古代文化とキリスト教とを摂取、融合した点に意義と特色があり、ヨーロッパ芸術の始原をなしている。また、造形芸術では古代末期、ビザンティン様式への愛好が特徴的である。

 建築では、アルプス以北での石による大建築の最初の復興で、ローマの影響を直接に取り入れ、その手探りの摂取が新たな解釈を生んでいる。たとえばアーヘンの宮殿礼拝堂(792~800)は、ラベンナのサン・ビターレ聖堂を模した八角堂のプランに大円蓋(だいえんがい)を設けているが、水平断面における緊密な量塊関係が示す集中建築への努力は、ローマ建築への新解釈であると同時に、独自の建造体として本陣に移された「ウェストウェルク」Westwerk(西構え)のような新機軸を生んでいる。後世双塔形式のファサードの成立を促すこの「西構え」は、カロリング朝最大のバジリカ式教会堂ケントゥーラ(北フランス、アベウィル近郊のサン・リキエ修道院聖堂)にも設けられていたことが今日残る素描や設計図で確認されている。北西ドイツのコルワイ修道院聖堂(855~873)にはわずかにそのおもかげが残っている。これら教会堂の内部には、宗教と世俗生活をモチーフとした壁画、モザイクがあったとされるが、今日ではほとんど残存していない。

 彫刻と絵画では、金細工、象牙(ぞうげ)細工、彩飾写本のような小芸術が知られている。金細工では『コーデックス・アウレウス』Codex aureus(870ころ・バイエルン国立図書館)、『リンダウの福音(ふくいん)書』(870ころ・ニューヨーク、ピアポント・モルガン図書館)などの表紙装丁が好作例である。そこにちりばめられてある多彩な宝石は、金のレリーフ面に直接はめ込まれたものではなく、繊細な台脚によって黄金面から離されて細工されており、宝石を光の反射でより美しく見せる配慮と、これを可能にした技術の高さがしのばれる。象牙細工もまた福音書の外装に使われている例が多く、たとえば、ベルギーのブリュッセル王立歴史美術館蔵の『勝利のキリスト』(875ころ)は、王者の風格をもつキリスト像が表現され、キリストを救済者としてよりは奇跡の執行者としてまず受け止めたゲルマンの心情を伝えている。彩飾写本では、『カール大帝の福音書』(800~810ころ・ウィーン美術史博物館)、『エボンの福音書』(816~835・フランス、エペルネ市立図書館)、『ユトレヒトの詩編』(820~830ころ・ユトレヒト大学図書館)が名高い。これら写本の流派は、カール王宮直属のものを除いて大修道院に所属し、ザンクト・ガレン、トゥール、ライム、メッツなど各派があった。

[野村太郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カロリング朝美術」の意味・わかりやすい解説

カロリング朝美術
カロリングちょうびじゅつ
Carolingian art

フランク王国第2の王朝,特に 800年に神聖ローマ皇帝となったカルル大帝 (シャルルマーニュ) の宮廷を中心として8世紀より9世紀末にかけて栄えた美術。カロリング・ルネサンスと呼ばれ,キリスト教を主体として古代およびビザンチンの文化を復興させようとした。建築ではビザンチン風八角堂の大円蓋をもつアーヘン宮廷付属礼拝堂,ギリシア十字 (T字形) プランによるジェルミニー=デ=プレ礼拝堂,バシリカ様式のフルタ修道院聖堂 (再建) などメロビング朝建築などに比べると比較的多く現存する。アーヘン,ランス,トゥール,サン・ドニ修道院および宮廷で盛んに作られた工芸品,特に写本装飾は,古代末期の様式を継承しながらゲルマン人的感覚によって西ヨーロッパのキリスト教時代へと移行する初期中世美術の重要な遺品となっている。代表作品は『戴冠式の福音書』 (ウィーン美術史美術館) など。

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世界大百科事典(旧版)内のカロリング朝美術の言及

【オットー美術】より

…オットー美術の源泉としては次の三つが挙げられる。(1)先行するカロリング朝美術(とりわけ写本画),(2)古代末期と初期キリスト教美術,(3)同時代のビザンティン美術(972年,オットー2世とビザンティン皇妃テオファノとの結婚などによる)。これらの伝統を消化しつつ民族色の強い表現が形成されてドイツ・ロマネスク美術の発端をなし,その影響は国外にも及んだ。…

※「カロリング朝美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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