フランス第二帝政期の代表的な彫刻家。バランシエンヌに生まれ,パリの国立美術学校に学んだのち,ローマ賞(1854)を得て1856-62年イタリアに留学。ミケランジェロにもっとも感銘を受け,ローマで《ウゴリーノと子どもたち》(1860-62)を制作。この作品によって63年のサロンに初登場。肖像彫刻を多くつくるかたわら,ルーブル宮殿の〈フローラのパビヨン〉のための《フローラの勝利》(1863-66),オペラ座のための《ダンス》(1869),オプセルバトアールの噴水彫刻《世界の四つの部分》(1867-72)などの記念碑彫刻をつくる。ナポレオン3世の従姉妹マティルダ王女などの庇護のもとで多くの注文を受けたが,典雅な躍動性,生命感を尊重する彼のバロック的・ロココ的作風は必ずしもアカデミーの受け入れるところではなく,〈フローラのパビヨン〉の装飾の際にも,建築の調和を乱すという理由で建築家との対立を引き起こしている。しかし,その動感と印象主義的手法は,やがてロダンに受け継がれ近代彫刻の発端を形成することとなった。
執筆者:中山 公男
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フランスの彫刻家。バランシェンヌに生まれる。パリに出て初めF・リュード、ついでF・J・デュレに学び、優れた技巧を習得した。1854年に『わが子の守護を祈るヘクトル』によってローマ賞を獲得し、イタリアに赴いた。ローマのバチカン宮システィナ礼拝堂でミケランジェロの大作から受けた感銘はきわめて深刻であったという。カルポーがローマのアカデミアに提出した作品のうち『ウゴリーノとその子たち』(1860・ルーブル美術館)はダンテの『神曲・地獄編』から着想されたもので、ローマでは非常な名声を博したが、パリでは不評であった。しかし帰国後は幸運にもナポレオン3世の従姉妹(いとこ)にあたる王女マチルドの庇護(ひご)を受けるようになり、チュイルリー宮のパビヨンの浮彫り『フローラ』(1863~66)やオペラ座正面の『ダンス』(1869)を恵まれた環境のなかで制作した。72年、のちにリュクサンブールの噴水盤になった『世界の四部分』をサロンに出品したが、この年に発病し、3年後に世を去った。
[濱谷勝也]
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