池や泉水に水を噴出させる装置。「噴泉」ともいう。欧米語では「泉」の意をも兼ねるように、古くから庭園、公園、都市の広場などに設けられ、市民のオアシスとして親しまれてきた。
泉や噴水を庭園や広場のデザインの構成要素とすることは早くから行われており、古代メソポタミアやアッシリアの遺跡からは、噴水を設ける水盤や、階段上の噴水跡が発見されている。古代ギリシアでは泉そのものを神聖視していたので、そこに水盤を設けて噴水をつくり、その周囲に神殿や公共建造物を建てた。泉は神々やニンフ、英雄に捧(ささ)げられたが、同時に市民への水の供給という実用面も兼ねていた。西欧の造園事業が種々の建築と組み合わされて高度化するのはローマ帝国時代であるが、この時代になると、公共の噴水に加えて浴場や貴族の邸宅の中庭などにも噴水が設けられるようになり、建築装飾の要素も多くなる。ベスビオ大噴火の灰礫(かいれき)の下から発掘されたヘラクラネウムとポンペイからは、当時の遺構がいくつか発見されている。
中世には一時、装飾的な噴水は影を潜めるが、主としてイベリア半島に残るイスラム系の宮殿では、ビザンティン文明に特有の、王侯貴族の日常生活の現世的悦楽を豊かに表現した庭園がつくられた。グラナダのアルハンブラ宮殿のライオンのパティオ(小内庭)の水盤や、噴水をモチーフにしたヘネラリーフェ離宮のアセキアのパティオが知られる。
ルネサンスを迎えたイタリアでは、広場のデザインの一つとして噴水に大きな比重がかけられるようになる。レオナルド・ダ・ビンチも噴水の設計図を残しているが、このころから彫刻が噴水の構成要素として前面に押し出され、噴水そのものも装飾的になっていった。この傾向は次のバロック期に入るとさらに複雑化して、芸術的にも優れたものが数多くつくられた。「ローマの泉」あるいは「ローマの噴水」とよばれて今日残るものの多くは、ほとんどがこのバロック期のもので、とくに17世紀中期から後期に活躍したベルニーニ制作のものが名高い(ナボナ広場の四つの川の噴水とムーア人の噴水、バルベリーニ広場のトリトンの噴水など)。有名なトレビの噴水はニコラ・サルビの設計、ブラッチの彫刻により1762年に完成している。この時代には個人の邸宅にも噴水が設けられたが、そのなかではローマ郊外チボリにあるビラ・デステのものが名高い。ここでは山の斜面を利用して水をふんだんに用い、卵形の噴水、オルガンの噴水、百の噴水などが設けられている。
フランスでは庭園の噴水が発展したが、なかでもルイ14世の命で名造園家ル・ノートルが設計したベルサイユ宮殿の噴水群(ネプチューンの噴水、竜の池の噴水、アポロンの噴水など)が有名である。ベルサイユの造園は宮廷庭園の規範となって全ヨーロッパに広まり、これに倣った庭園や噴水を数多く生み出した。また、装飾的なバロック噴水の形態は都市デザインの要素の一つとして引き継がれ、パリの数次にわたる都市改造に際しても、そのつど公共広場に噴水が設置された。
古代から近世にかけての噴水は水の落差を利用したものであったが、19世紀以降は、ポンプや自動操作機を使用したものがつくられるようになり、水そのものの姿を変化させることが行われるようになった。博覧会のたびに大掛りで照明などにも技巧を凝らした噴水がつくられて話題をよび、その傾向は今日まで続いている。
日本の庭園では自然を生かすことが主体となっていたので、人工的な噴水は発達していない。金沢の兼六園に設置されたものはまれな例といえよう。明治以降の洋風建築の導入、西洋式公園の設置に伴って各地に新奇なものとして設置されたが、都市のデザインとして定着したとはいえなかった。上野公園、日比谷(ひびや)公園、中之島公園の噴水などは、公共の憩いの場として市民生活に欠かせないものになっている。本格的な大規模な噴水がつくられるのは第二次世界大戦以降のことで、遊園地をはじめ、ホテル、公共建造物、オフィスビルの入口など、さまざまのところにもつくられるようになり、壁面から水平に水を噴出させる壁泉や、大掛りな人工滝とともに、現代庭園の重要な要素になっている。
[重森完途]
鑑賞用に水を吹き上げさせる仕掛。一般にさまざまな彫刻や立体的構成を伴って造り出される。自然の湧水に対する信仰から,それを模倣するかたちで案出されたのが最初と思われ,中近東の古代遺物に見る噴水の装置をそなえた神像は,その一例であろう。乾燥した大気の中の水が与える涼感,動きと音,光のきらめきの多彩な効果によって,噴水は古代から人々の愛好するところとなり,そのための水力学上の技術が開発された。前1世紀ころに活躍したアレクサンドリアのヘロンは,サイフォンの原理を応用した〈ヘロンの噴泉〉の考案者として知られている。古代ローマにおいては,水道の建設技術の展開と庭園の愛好があいまって,宮殿や住宅,ウィラの庭を噴泉が彩るのが見られ,ポンペイの廃墟などに,その遺構を見ることができる。イタリアは中世においてもこの伝統を受けつぎ,11世紀ころからの中世都市の繁栄の時代に,都市の広場に美しい噴水を造った。N.ピサーノの彫刻がめぐらされたペルージアの中央広場の噴水(1278)は,このまちの水道工事の完成を記念するものであり,またビテルボは,とりわけ中世の美しい噴水がたくさん残っていることで有名である。噴水は修道院や城館の庭にも欠かせない存在であり,それはしばしば旧約聖書に記される〈エデンの園〉の情景になぞらえられた。園の中央に泉があって,そこから四方に水が流れ出すその構成のイメージは中近東のオアシスを原型とするものであり,スペインのイスラム文化はこれをみごとに昇華させてグラナダのアルハンブラ宮殿の輝かしいパティオpatio群を造った。
イタリア・ルネサンスにおけるビラ建築の流行は,さまざまな趣向を凝らした噴水を登場させ,エステ荘のごとき噴水を主題にする庭園までが造られる。とくにルネサンス後期からバロックにかけては,高所から落下する水がたんに噴泉を噴き上げるだけでなくさまざまな仕掛を動かし,オルガンを鳴らして小鳥のさえずりや雷鳴を響かせる水劇場や水オルガンが造られ,さらには思いがけないところから突然,水が噴き出して来訪者をびしょぬれにする驚愕噴水のようなものまでが造り出された。またシクストゥス5世をはじめとする歴代教皇による水道の整備で,ローマは豊かな水に恵まれ,バロックの都市改造にあたって彫刻と一体になった大規模な噴水が街中の広場を彩った。こうした構成はたちまちアルプスの北方に摂取されて,ベルサイユ宮殿の庭園のような豪華な噴水を生み出している。またJ.パクストンが手がけた300フィート吹き上がるイギリスのチャッツワースChatsworthの庭園の〈皇帝噴水〉(19世紀初め)のように,ただ吹上げの高さのみを競うジェット式のものも好んで造られた。
日本においては,文献に現れるものとしては,仙洞御所に造られたらしい竜の口の噴水(1644)が注目される。近代においては1903年開園の日比谷公園の東京美術学校製作の鶴の噴水が洋式噴水のはじめとなった。
執筆者:横山 正
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