フランスの画家。ポーランドのクラクフの富裕な家庭に生まれ、同地の美術学校に学んだあと、1910年パリに出る。1911~1912年にはフランス南西部のセレでピカソやグリスたちとともに制作している。1912年には画商アドルフ・バスラーAdolphe Basler(1878―1949)と契約。第一次世界大戦には外人部隊に応募し、重傷を負うが、その功でフランス国籍を取得。1917~1920年は南フランス、その後はモンパルナスに住み、エコール・ド・パリの一員として、多くの画家、作家たちとの交友の中心的存在となる。キュビスム、とりわけ色彩的キュビスムの影響を強く受ける一方で、パリ派の不安と哀愁を透明感のある華麗な色彩に託した。肖像、静物、裸婦を描き、おもな作品は『赤い長椅子(ながいす)の裸婦』(1918年。ジュネーブ、プチ・パレ美術館)、『ポーランド風の肩掛の娘』(1928年。パリ国立近代美術館)など。1941~1946年ニューヨークに過ごし、帰国後、南フランスのサナリに没した。
[中山公男]
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…明治初期には日本にも紹介されたが,登山に使用したのは1910年加賀正太郎がヨーロッパから持ち帰って以来で,このときは三つポケット型であった。その後,29年松方三郎がキスリング型(スイスの製作者キスリング創案の,横に二つポケットのついた型)を持参して以来,これが登山用のリュックサックの主流となった。第2次大戦後ヨーロッパ製の各種の製品が輸入され,材質も帆布が中心であったがナイロン,ビニロンなど軽量のものとなり,形や大きさも利用目的に応じて多様化した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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